第三章 静寂に詩(うた)を落とす其の二
やがて、グレイマンがそっと立ち上がった。
あやのの足元には、風のようなものが生まれ、舞台を包み込んでいた。
それは風ではない。過去からの呼気。
──ここにいた。確かに、生きた声たちが。
グレイマンの視線が、舞台の上に一瞬浮かぶ“何か”を見つめた。
灯りのない闇のなか、あやのの歌に共鳴するように、古びた天井のフレスコ画が、淡く息を吹き返す。
「……彼らは、君の声を待っていたんだ」
グレイマンの声は、もはや師のそれではなかった。
目撃者の声だった。
客席の奥。
埃をかぶったヴィロードの椅子が、音もなく揺れる。
そこに、見えない聴衆たちが座ったような気配。
背筋を伸ばし、じっと舞台を見つめる。
ヘイリーが呆然と呟いた。
「……何これ、空気の重さが違う。まるで……音が祈りになってる」
梶原は目を細め、あやのの背中を静かに見つめていた。
その肩に降る見えないもの。光か、それとも……別れの名残か。
司郎は、スケッチブックを閉じる。
「……この劇場、再設計しない。こいつの歌で、すでに“起きて”る」
グレイマンが、低く笑った。
「その判断、正しい。
だが、まだ“鍵”が足りない。
──この劇場の“主音”は、別にある」
彼の目が、古びたオーケストラピットを指した。
**
夜が明けるころ、あやのは静かに手帳を閉じた。
そこには、彼女が初めて誰にも読ませるつもりのない“祈り”としての詩が綴られていた。
「……私、やっとわかってきた気がします」
彼女は、ぽつりと呟いた。
「この劇場は、音を聴く場所じゃない。“記憶を許す場所”なんです」
グレイマンは頷いた。
「その通りだ。
沈黙は、ただの空白じゃない。“語られなかった痛み”の層だ。
君は、そこに歌を置いた。……もう、音楽家だよ」
あやのは驚いたように彼を見る。
グレイマンが、彼女を“音楽家”と呼んだのは、初めてだった。
その時、天井から小さな音が落ちた。
──ひとしずくの水。
だがそれは、何かが“解けた”音にも聞こえた。
長きに渡って閉ざされた“沈黙の劇場”が、
ゆっくりと、真の目覚めに向かって扉を開けはじめていた。




