第三章 静寂に詩(うた)を落とす
夜の劇場には、また灯りが消えていた。
それは決して故障でも、不備でもなかった。
“音の沈黙”を知るために、あえて舞台の光すら落とされた。
ステージに立つあやのは、ピアノもマイクも持たない。
彼女の持ち物は、たった一枚の手帳と、細いペン一本。
その手帳には、数日間悩みながら編んできた小さな詩があった。
風の声 海の底
灰の記憶を 灯すように
誰にも届かぬ この旋律を
あなたの名を呼ばずに 私は歌う
無伴奏。
ただ声ひとつで。
言葉と旋律だけで、何かを、どこかを、“弔う”。
その一節を口ずさんだ瞬間、舞台の空気が変わった。
グレイマンは客席の影で目を閉じ、耳を澄ます。
彼には聴こえていた。
この娘が歌っているのは、死者のための音──
声が届かない者たちへの、手向けであり、別れの花束だった。
ハミングの裏に、詩が流れる。
ことばと音が溶け合い、彼岸へ通じる“細い道”になる。
劇場の奥、壁に染み付いた何十年分の“見送られなかった声”が、少しずつ溶けていくようだった。
やがて、グレイマンがそっと立ち上がった。
あやのの足元には、風のようなものが生まれ、舞台を包み込んでいた。
それは風ではない。空気の記憶、あるいは魂の反応。
「……君は“捧げること”を理解しはじめたようだ」
舞台に歩み寄りながら、彼は静かに言った。
「音楽とは時に、語らずに許す術でもある。
失われたものに、名前を与え直す祈りでもある」
あやのは首を垂れた。
それは謙遜でも、遠慮でもない。
“祈りを、まだ十分には歌えていない”という、自分への静かな問いかけだった。
グレイマンは彼女の手帳に視線を落とし、ポケットから小さな鉛筆を取り出す。
「この詩の終わりに、こう続けなさい」
と、紙の端に書き添える。
――生まれ変わっても、私はあなたを忘れない
「この一行が加わったとき、おそらく“死者のための音楽”は、君自身の武器になる」
それは魔術でも、戦闘でもない。
ただ、“魂に届く言葉と旋律”という名の、消えぬ刃。
…それは“音の霊気”だった。
グレイマンは胸の奥に込み上げるものを抑えながら、かすかに頭を下げた。
まるで──
舞台そのものが、彼女に「礼」を言っているようだった。
──翌朝。
劇場の前に立ち尽くす、ひとりの老婆がいた。
町の誰もが口を閉ざしていた、“最後の声の司祭”の孫娘。
「……本当に、聞こえたのね。あの子の声で、叔母が……笑ってたの、夢で」
彼女の目から、ぽろぽろと涙が落ちる。
あやのは、そっとその手を取った。
「この劇場、きっと……もう少しで目を覚まします」
老婆は黙って頷いた。
この劇場に蓄積された“沈黙”の奥には、言葉にならない感情が幾重にも折り重なっていた。
それを一つずつ、解いていく。
音で、詩で、空間で。
数日後、「Teatro Silencio」は、公式に“修復計画”の第一段階へと移行した。
文化遺産保護の枠組みを越え、音と建築の“魂の再生”プロジェクトとして、世界の注目を集め始める。
設計責任者・司郎正臣
音響復元監修・マエストロ・グレイマン
空間詩唱・真木あやの
そして、陰で現場を支える梶原國護と、音のアレンジを担うヘイリー・マカフィー。
彼らの名前が並んだプレスリリースは、やがてヨーロッパ全土に配信された。
だが、それはまだ──
“劇場が語り始めた”にすぎない。
沈黙は完全には破れていない。
次に必要なのは、失われた「最後の演目」の復元だった。
100年前、最期に舞台で奏でられた楽譜。
それが、いまだ発見されていない。
それは、楽譜なのか。
それとも、音にならなかった“誰かの遺言”なのか。
**
グレイマンは、薄暗い劇場の地下室で、古い木箱を開けていた。
そこには、一枚の手書きの楽譜。
そして、こう記されていた。
「この音を封じよ。
誰にも、届かぬように」
その横に、小さく刻まれた名があった。
──《A.H》
グレイマンの目がわずかに揺れる。
そして、呟いた。
「……Amadeus Heller。」
忘れられた天才作曲家。
100年前、舞台上で消息を絶った、沈黙劇場の“最期の音”。
物語は、さらに深く沈黙の核心へと向かっていく──




