第二章 無言のレッスン
舞台袖に差し込む、冷たい光。
ほこりを含んだ空気はまだ濁っているが、あやののハミングが一度通った空間は、確かに“応え”を返し始めていた。
壁が、天井が、座席が、記憶していた“音”の感触を──微かに、ゆっくりと。
「……良い耳をしている。けれど、それだけでは劇場は目を覚まさない」
あやのの後ろで、グレイマンが言う。
その声には苛立ちでも批評でもない。
ただ、ごく冷静な、プロの音楽家としての観察。
あやのは振り返らなかった。
代わりに、ポケットから小さな音叉を取り出して鳴らす。
透明な“A”の音。空間が震え、反響する。
「……聞こえますか、先生。眠っていたものが」
グレイマンは微笑まず、頷きもせず、ただゆっくりと杖を持つ手を上げた。
指揮者のような動き──いや、それ以上に鋭く、精密な動線。
あやののハミングに、彼が音の動きで“反応”する。
弦楽器も鍵盤もない。そこにあるのは、空間そのものを楽器とした即興セッション。
壁が鳴る。天井が返す。
沈黙の劇場は、まるで巨大な共鳴箱のように、二人の“音楽”に応じ始める。
──数分。
あやのは汗をかいていた。身体の奥まで、音が響いていた。
それは奏でているというより、“引き出されている”ような感覚。
ふと、グレイマンの指が止まる。
沈黙が戻る。だが、その沈黙は“死”ではなかった。
演奏後の、静かな余韻──新たな“音の種”のようなもの。
「君の音楽はまだ“私的”だ。情緒に満ちすぎている。美しいが、孤独だ」
グレイマンが初めて、師のような声色で語った。
「ここでは、“死者”に向けて弾く。耳を持たない者に聴かせる音楽だ。
……君がそれを奏でる覚悟があるのかどうか、見させてもらう」
あやのは静かに頷いた。
彼女の瞳の奥に、光が灯る。
「教えてください。あなたが見てきた、沈黙の先の音を」
ようやく、グレイマンの口元がわずかに緩んだ。
「では、始めよう。“音を喪った劇場”の授業を」




