第一章 沈黙の劇場へ
灰色の雲が垂れこめる空の下、ヨーロッパ西部の国境沿いにひっそりと佇む町。
人々の記憶からも半ば忘れ去られた場所に、その劇場はあった。
“Teatro Silencio”
──静寂の劇場。
石造りの外壁は蔦に覆われ、木製の扉は年月に風化し、軋んだまま開かない。
劇場が最後に幕を上げたのは、1917年の冬。
戦争と疫病により多くの人が命を落としたその年を境に、音は途絶え、沈黙が永遠を支配していた。
グレイマン、司郎、あやの、ヘイリー、そして梶原は、現地に足を踏み入れていた。
薄靄のなか、鳥のさえずりさえ聞こえない静けさ。
町の住民たちは劇場に近づかず、忌避の念を隠さない。
「……いわくつきだな」と梶原が呟く。
「それだけの空間だということよ。音が凍ったままになってるの」
あやのは凛とした声で応じた。
建物に近づくにつれて、あやのの瞳が深く、金色を帯びる。
彼女のその瞳が、閉ざされた音の記憶を探ろうとしていた。
グレイマンが彼女を見つめ、短く言う。
「かつて、音楽で死者を弔う“声の司祭”がいた。この劇場は、彼らの最後の聖域だった」
「音が途絶えた理由は、災厄でも政治でもない。“恐れ”だ。音が人の心を暴くことへの」
司郎が、分厚いドアを一瞥し、スケッチブックに何かを書き始める。
「……強度は保たれてる。構造は奇跡的に生きてるな」
「けど、魂がいない」とあやのが呟く。
グレイマンはゆっくりと頷いた。
「だからこそ、君に来てもらった。あのSoundGardenで“死者の耳”を開いた君に」
劇場の鍵はすでにグレイマンの手にあった。
彼が静かに差し込むと、錆びついた音と共に、扉はぎぃ、と開いた。
──そこは、時の止まった異界だった。
埃をかぶった座席、瓦解しかけた天井画、
そして中央に置かれたままの、かつての指揮台。
あやのが一歩踏み出すと、床がかすかに鳴る。
まるで誰かの声が、遠くで揺れているかのように。
そのとき、彼女の胸の奥で、何かが共鳴した。
──声なき歌。
あやのは瞼を閉じ、静かにハミングを始めた。
あのSoundGardenで歌った旋律の原型。
古い木が軋む。埃が舞い、光が差し込む。
劇場が──音に呼応して息を吹き返し始めた。
グレイマンは小さく笑った。
「始まったな。この劇場の“目覚め”が」