第九章 東京行き
春が近づいていた。
仙台の街を吹き抜ける風の中に、どこか水の匂いが混じっていた。
冬の空気がわずかにゆるみ、空の色が浅くなっていく。
事務所の中にも、重ね着が減っていき、窓が開く時間が長くなっていた。
その日、午前中から建材の納品があり、事務所はざわざわと人の気配で満ちていた。
あやのは黙々と伝票を整理し、司郎は小さなスケッチブックを片手に、鉛筆を回していた。
昼を過ぎて、人が捌けたころ。
一人の老人が、建物の前に現れた。
スーツの上にキャメルのコート。銀縁の眼鏡。
背筋をまっすぐに立てたまま、玄関のチャイムも鳴らさずに立っている。
その姿に、あやのはなんとなく「気配の強さ」を感じた。
司郎が玄関に出た。
一瞥してから、懐かしそうに目を細める。
「…澤井先生じゃないの。死んだと思ってたわ」
「まだしぶとく生きとるよ、司郎。
仙台の片隅にこもって、せっかくの腕を腐らせてると噂で聞いてな」
澤井と名乗ったその老人は、大学の教授だった。
かつて司郎がほんの短期間だけ籍を置いた設計研究室の所長でもあったという。
「――東京でひとつ、大きなプロジェクトが動く。
若い頭と、古い腕と、変わった目を求めている。お前には全部ある。行け」
司郎は鼻で笑った。
「変わった目? そりゃお嬢ちゃんの方よ」
そう言って、あやのの方へ目線を送る。
澤井の目が、ゆっくりとあやのを見据えた。
「この子か。…面白い目をしてるな。
言葉じゃなくて、目で世界を読み取ってる。職人の目だ」
あやのは、何も言わなかった。
だが、その目は澤井の言葉に応えるように、ごくわずかに光った。
「交通費と宿は出す。
ただし本番は、実力で掴め。見物人はいらんぞ」
澤井はそれだけ言うと、名刺のようなものを一枚、机に置いて帰っていった。
重たい沈黙が残った。
コンクリート打ちっぱなしの壁が、その言葉を吸い込んでいく。
その晩、あやのはカレーを作った。
焦がさないように弱火で仕上げ、盛りつけも丁寧にした。
司郎は黙って二杯平らげ、食後にぽつりと呟いた。
「東京に行くわよ。出張。期間は決めない。
気に入らなきゃ帰ってくる。それだけだね」
あやのは、ひと呼吸置いてから返した。
「…了解です。司郎さん」
そのとき、あやのの中にあったのは不安でも期待でもなかった。
それは、もっと別のもの――
音のない世界のなかで、次の「響き」が生まれる予感だった。