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第9話 夜を超えて

週の半ば、雨が降った翌日だった。


「パパ……さむい……」


その日の朝、希の額に手を当てたとき、悠真はすぐに異変を感じた。熱い。明らかに高すぎる。


体温計は39.8度を指していた。


慌てて小児科に電話をかけたが、「予約が必要です」と一蹴された。ことごとく断られ、次に救急相談。散々たらい回しの末、「この程度なら自宅で様子見を」と言われる始末。


「この程度ってってよ……」


悠真は躊躇することなく、希を毛布でくるみ、赤ん坊を抱えてタクシーを呼んだ。近隣の総合病院へ急いで向かう。


受付で赤ん坊が泣いても、職員は露骨に迷惑そうに睨んできた。


「娘が……高熱で……」


「診察は2時間後です」

事務的に答える。


悠真は必死に頼み込んだ。

「あの…この子、目がうつろで……意識も……!」


看護師がようやく顔をしかめて立ち寄り、別室へと案内される。


だが医師が診た結果は、曖昧だった。

「ただのウイルス性でしょう。ただし、ちょっと肺の音が気になりますね……」


小児病棟に即日入院が決まり、希は点滴につながれた。赤ん坊はナースステーションで一時的に預かってもらえることになった。


静かな病室には、無機質な白と、機械音だけが鳴っていた。


「パパ……」


「ん、なに?」


「ママ、夢に出てきた……」


「……うん」


「にこにこしてた……ママ、ぜんぜん怒ってなかった……」


「そうか……」


「ママに……会いたいな……」


悠真は、返す言葉がなかった。



---


深夜。


希の顔色は次第に白くなり、唇が薄紫に染まっていく。モニターの数値が揺れ始めた。


慌てて悠真はナースコールを押す。だが看護師が来る前に、ピーッと一本の電子音が鳴った。


「えっ……希……?」


悠真の声に、希は反応しなかった。


もう一度、名前を呼ぶ。


「希!!」


扉が開き、医師と看護師が駆け込んできた。機械的な蘇生処置が始まる。


悠真は部屋の外に出された。


廊下に響く、ゴム手袋の音。AEDの音。酸素ボンベの開く音。


――が、ほどなくして、すべてが静かになった。



希の亡骸は、小さな体のまま、無言で白い布に覆われていた。


ついさっきまで、点滴のチューブに繋がれていた小さな手。

その手がもう二度と、こちらに伸びてくることはない。


「お父さん……」


看護師が何か言いかけたが、声はそこで詰まり、

ただ、そっと視線を伏せたまま、静かに背を向けた。


「えっ、うそだろ…」


悠真は、立っていられなかった。

力が抜けるようにその場に崩れ、廊下の壁にもたれかかった。


感情という感情が、どこか遠くへ抜けていくようだった。

怒りも、悲しみも、涙も、何ひとつ湧かなかった。

もう全部、枯れ果てていた。


病院の廊下は、静かだった。

消毒液の匂いだけが鼻をつき、遠くのナースルームから、赤ん坊のか細い泣き声が、かすかに響いていた。


それが、やけに現実離れして聞こえる。


千紗も、希も、もういなくなった。

ついこのあいだまで、笑っていた顔が思い出せない。

声も、ぬくもりも、感触も、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。


「なぜ……なぜ俺だけが……なぜ俺だけが……残されたんだ……」


声にならない声が、喉から漏れた。

自分でも、誰に問いかけているのか分からない。


「なんで……俺だけが生きてるんだ……」



嗚咽が、腹の奥からせり上がった。

けれどそれは、誰にも届かない音だった。

誰の耳にも、届かない。誰にも、理解されない。


ただ、答えのない問いだけが、病院の白く冷たい闇の中で揺れていた。



---


そして、夜が明けた。


病院のカーテンの隙間から差し込んだ朝の光は、どこまでも無関心だった。

空は青く、テレビからは天気予報と芸能ニュース。

隣の病室では誰かが退院の支度をしていた。


世界は、何事もなかったかのように、また今日という日を始めていた。

千紗も、希も、この世界には最初から存在していなかったみたいに。


ただひとり、悠真だけが、すべてを失ったまま、そこにいた。

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