表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

第8話 忘れてしまう前に

朝、目を覚ますと、キッチンから小さな音が聞こえた。


希が、牛乳パックを一生懸命に持ち上げている。コップを出して、自分で注ごうとしていた。


「あ、パパ、おはよう」


笑顔だった。無邪気な、まっすぐな笑顔。

悠真はその姿を見て、思わず胸が締めつけられた。


「朝ごはん、食べたい?」


「うん。トーストがいいな」

そう言って、食卓につく希。


その姿が、まるで“普通の家族”の朝のようで、千紗がまだそこにいるような気さえする。

それが逆に現実味を失っていく。


本当は、そこにいるべき人がいないのに。

そこに、千紗の笑顔があったはずなのに。

トーストを焼きながら、ふと希が言った。


「ねえ、パパ」


「ん?」


「ママの顔、ちょっとずつ、思い出せなくなってきた……」


悠真の手が、止まる。

「夢で会っても、ママの声がわからないの」


そう言って、希はパンにバターを塗る。まるで何でもない話みたいに。


「……でも、しょうがないよね。いないんだもん」


“しょうがない”――その言葉が、悠真の心を深く突き刺す。


忘れていくことが、生きていくことなのか。

忘れていくからこそ、人は前に進めるのか。


だがそれは、同時に「死んだ人間が社会から消えていく」過程でもある。


悠真はただ「そうだね」と小さく答えることしかできなかった。


---


その日の夜、ネットニュースで「加害者が来月にも退院」と報道されていた。


精神鑑定の結果「改善が見られたため、段階的に社会復帰を支援する」とのこと。


支援団体の代表が笑顔でインタビューに答えていた。


「再発防止のためにも、我々は彼にチャンスを与えるべきです」



その下には、いくつものコメント。


「もう許してやれよ」 「被害者ヅラして社会を怨んでも、何も変わらん」 「加害者を叩いても、事件はなくならない」



スクロールする指が止まる。

どこにも、千紗のことには誰も触れてはなかった。


ニュースにも、コメントにも、誰一人として彼女のことなどもう覚えていなかった。


悠真は、ゆっくりとスマホを伏せた。




夜、布団に入ってから、希がぽつりと言った。


「ママ、天国で何してるかな?」

「さあ……たぶん、のんびりしてるんじゃないかな」

「じゃあ、パパが死んだら、ママに会える?」


悠真の胸が、また軋んだ。


「そうだな………会えるといいな」

「のんもね、ママに会ったら、ごめんねって言うんだ。もっといっぱい、ぎゅーってすればよかったって」


希の声は、どこまでも素直だった。


それが、余計につらかった。

「パパもさ……ちゃんと、伝えられなかったよ」


天井を見つめながら、悠真は静かに目を閉じた。

うっすら涙が頬を伝っていく。


忘れられていく人間と、忘れていかざるを得ない子ども。

そのあいだにも、たった一人で立ち尽くす父親。


悠真は静かにに眠りにつくのを待った。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ