第8話 忘れてしまう前に
朝、目を覚ますと、キッチンから小さな音が聞こえた。
希が、牛乳パックを一生懸命に持ち上げている。コップを出して、自分で注ごうとしていた。
「あ、パパ、おはよう」
笑顔だった。無邪気な、まっすぐな笑顔。
悠真はその姿を見て、思わず胸が締めつけられた。
「朝ごはん、食べたい?」
「うん。トーストがいいな」
そう言って、食卓につく希。
その姿が、まるで“普通の家族”の朝のようで、千紗がまだそこにいるような気さえする。
それが逆に現実味を失っていく。
本当は、そこにいるべき人がいないのに。
そこに、千紗の笑顔があったはずなのに。
トーストを焼きながら、ふと希が言った。
「ねえ、パパ」
「ん?」
「ママの顔、ちょっとずつ、思い出せなくなってきた……」
悠真の手が、止まる。
「夢で会っても、ママの声がわからないの」
そう言って、希はパンにバターを塗る。まるで何でもない話みたいに。
「……でも、しょうがないよね。いないんだもん」
“しょうがない”――その言葉が、悠真の心を深く突き刺す。
忘れていくことが、生きていくことなのか。
忘れていくからこそ、人は前に進めるのか。
だがそれは、同時に「死んだ人間が社会から消えていく」過程でもある。
悠真はただ「そうだね」と小さく答えることしかできなかった。
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その日の夜、ネットニュースで「加害者が来月にも退院」と報道されていた。
精神鑑定の結果「改善が見られたため、段階的に社会復帰を支援する」とのこと。
支援団体の代表が笑顔でインタビューに答えていた。
「再発防止のためにも、我々は彼にチャンスを与えるべきです」
その下には、いくつものコメント。
「もう許してやれよ」 「被害者ヅラして社会を怨んでも、何も変わらん」 「加害者を叩いても、事件はなくならない」
スクロールする指が止まる。
どこにも、千紗のことには誰も触れてはなかった。
ニュースにも、コメントにも、誰一人として彼女のことなどもう覚えていなかった。
悠真は、ゆっくりとスマホを伏せた。
夜、布団に入ってから、希がぽつりと言った。
「ママ、天国で何してるかな?」
「さあ……たぶん、のんびりしてるんじゃないかな」
「じゃあ、パパが死んだら、ママに会える?」
悠真の胸が、また軋んだ。
「そうだな………会えるといいな」
「のんもね、ママに会ったら、ごめんねって言うんだ。もっといっぱい、ぎゅーってすればよかったって」
希の声は、どこまでも素直だった。
それが、余計につらかった。
「パパもさ……ちゃんと、伝えられなかったよ」
天井を見つめながら、悠真は静かに目を閉じた。
うっすら涙が頬を伝っていく。
忘れられていく人間と、忘れていかざるを得ない子ども。
そのあいだにも、たった一人で立ち尽くす父親。
悠真は静かにに眠りにつくのを待った。