第5話 繰り返される日常の中で
朝の光が、容赦なくカーテンの隙間から差し込んでくる。
まるで何事もなかったかのように、時計の針は七時を指していた。
希の寝顔を見てると、澄んだ顔をしていて起こすのも気が引ける。
「のんちゃん、もうそろそろ起きようか」
声をかけると、布団の中でごそごそと動く気配。
けれど、顔は出さない。
「きょうも、いかない」
希の声は、枕に顔を埋めたまま、くぐもっていた。
「どうして?」
「だって……みんな…いなくなっちゃうもん」
悠真は今日も何も言えず、ただそっと布団の上に手を置いた。
幼い娘が抱える恐怖。それは、彼自身も同じだった。
誰もがいつか消えてしまうかもしれない。そんな現実だけが、胸に重くのしかかる。
「大丈夫だよ」と言いかけて、言葉が喉につかえた。
……大丈夫なんて、誰が保証できる?
言葉にできない不安が、口の中で溶けていった。
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昼前、スマホが震えた。会社からの連絡だった。
「そろそろ、どうかなって思って」
電話口の上司は、表面上は気遣っているような口調だったが、その奥に“そろそろ戻るのが普通”という空気が滲んでいた。
「もちろん無理しなくていいんだよ。でも、やっぱり人手が足りなくてね」
「すみません、ご迷惑おかけします……わかりました…なるべく早く出社出来るようにします…。」
やっとの思いでそれだけ返し、通話を切る。
リビングのソファに崩れ落ちた。
戻って、何をする?
いつものように働いて、同僚と笑って、昼休みに弁当を食べて……。
そんな偽りの“日常”を演じることが、今の自分にできるのか?
必死に平静さを装い、気を使われてるのを感じながら、普段と同じ生活をすることに本当に意味があるのか?
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午後、希の好きなプリンを買いに、近所のスーパーへ出かけた。
レジ前で声をかけられた。
「奥さんのこと、本当に大変だったわね……」
話しかけてきたのは、以前町内会の集まりで顔を合わせたことのある主婦だった。
「うちも娘がいるから、なんか他人事じゃなくてね……。で、犯人って精神病だったんでしょ? 怖いわよねー、ほんと」
軽く笑いながら、話を続ける…。
「うちの子にも気をつけるよう言ってるの。知らない人には絶対ついていっちゃ駄目よって。ああいうの、野放しにしちゃ本当だめよねぇ…」
その言葉に、悠真は何も返せなかった。
頭の中で何かが、ひび割れたような感覚だけが残っていた。
(あんたの言う“ああいうの”に、俺の人生が壊されたんだよ)
けれど、それを言ったところで何にもならない。
ただ、帰り道の足取りが異様に重かった。
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その夜、希がぽつりと聞いてきた。
「ママ、天国から見てるかな?」
「きっと見てるよ。のんちゃんのこと、大好きだったから」
そう答えながら、ふと思う。
……千紗は、本当にこれを見ているのだろうか。
娘が不安で震えている姿を、黙って見つめているのだろうか。
この、冷たくて無慈悲な世界を。
千紗がいた頃と、今見ている世界はまるで違う。
愛した家族、守ろうとした家庭、そのすべてが今、軋んで崩れていく音だけが響いていた。
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深夜、スマホの通知が鳴った。
「遺族支援団体からのお知らせ」
“同様の被害にあわれたご遺族のための支援会合を行います。
ご希望の方は、ご連絡ください”
指先が、画面の「開く」ボタンの上で止まった。
会ったこともない人たち。でも、同じような喪失感を抱えている人がいるかもしれない。
今の自分を、少しでも理解してくれる人がいたら…。
(わからない……でも、きっと…)
画面を閉じ、寝息を立てる希の頭を撫でる。
「……のんちゃん、パパ、ちょっとだけ外に出てみるよ」
闇夜に向かって歩き出すその足取りは、まだおぼつかない。
けれど、止まったままの時計を少しだけ前に進めてみようと、そう思えた。