第2話:ママはどこへいったの?
そう……夜が明けても、千紗はもういなかった。
もう…いるはずがなかった。
昨日、突然この世から去っていなくなってしまったのだから。
——娘の誕生日の前日に。
すると、布団の中で小さな体がもぞもぞと動いた。
希は目をこすりながら、ぽつりとつぶやいた。
「ママ……?」
隣に寝ていた父・悠真は、一瞬驚き、心臓がひやりと冷たくなるのを感じながら、娘をそっと抱き寄せた。
「どうした…?」
その小さな手が、自分のシャツをぎゅっと掴む。
「パパ、ママは? ケーキ焼いてくれるって言ってたのに……」
——そうだった。
今日は希の誕生日だった。
その前夜、千紗は言っていた。
「明日の朝にはケーキを焼いて、サプライズしようね」って、嬉しそうに。
悠真は、喉の奥に何かが詰まったように声が出なかった。
黙ったまま娘の髪を撫でながら、曖昧に笑うことしかできなかった。
朝食も、いつものように並べてみた。
だが、三人分だったはずの食卓に、椅子が一つだけ空いていた。
その不自然な空白が、痛々しかった。
「ねえ、パパ」
スプーンを止めた希が、真っ直ぐに聞いてくる。
「ママって、死んじゃったの?」
その言葉に、悠真は身体を強張らせた。
何も教えていないはずだった。
だが、子どもの感性は鋭い。大人よりもずっと、真実を感じ取る。
「……うん」
悠真はゆっくりとうなずいた。
「どうして?」
「……わからない」
「悪いことしたの? ママ……」
「してない。ママは、何にも悪くない!」
少し、ムキになって答えてしまった。
「じゃあ、どうして死んじゃったの? ずるいよ……」
希の声が震えていた。スプーンを落とし、泣き出してしまった。
「ママ、わたしね、昨日もいい子にしてたよ。ちゃんとお片づけもしたし、わがまま言わなかったし、ママが喜ぶように頑張ったのに……しかも今日、お誕生日なのに……」
「のんちゃんのせいじゃない。絶対に違うから…」
悠真は娘を強く抱きしめた。
目頭が熱くなってきた。
希の小さな体が小刻みに震えている。
その震えが、自分の胸の奥まで伝わり染みてゆく。
「ママはね……ママは、のんちゃんのこと、すごく大好きだったよ」
「ほんと? でも……でも……ママに会いたいよぉ……」
泣きじゃくる娘を抱いたまま、悠真も声を出さずに泣いた。
娘の前では気丈に振る舞おうと決めたが、涙がこらえきれずこぼれ落ちる。
涙が頬を伝って、娘の髪に落ちる。
喉の奥が焼けるように痛かった。
「……ママ、どこに行ったの……?」
「……天国。たぶん、天国だよ」
「ねぇ、パパ」
「ん?」
「天国に電話できないの?」
その一言で、悠真の涙が堰を切るように流れ出る。
答えられなかった。ただ、悠真は娘の背中を撫で続けるしかできなかった。
こんなサプライズはないよ…
窓の外では、雨が静かに降り出していた。
何も語らない空の下で、二人だけの世界が、ゆっくりと崩れていった。
──
(千紗の遺体と対面した直後のシーン)
警察署、捜査員の一人が低い声で言った。
「加害少年は、現行犯で保護されました」
「……は?」
耳を疑った。
「保護、って……逮捕じゃなくて?」
「……はい。年齢は14歳。過去に精神疾患の診断も受けており、現在、精神鑑定の手続きを……」
その瞬間、何かが切れた。
「おい、待てよ……人を……千紗を、殺したんだぞ……!」
自分の声が、妙に反響して聞こえた。
「ただ歩いてただけの女の人を! ただ子ども育てて、ただ毎日普通に弁当作って、 娘の誕生日のために、ケーキ焼こうとしてただけなんだぞ! 何で殺したヤツが“守られ”なきゃなんねぇんだよ!?」
刑事が何か言おうとしたが、それを遮って悠真は叫んだ。
「ふざけんなよ……なぁ、どこが正義なんだよこれが……っ!」
拳を握る。唇が震えて、歯が軋んだ。
「善人が理不尽に殺されて、殺した側は精神的に問題があるから無罪? 社会が守る? ふざけるのも大概にしろよ……!」
床を殴りつけたい衝動に駆られた。叫んでも、どこにも届かないことはわかっていた。
でも、黙っていたら、本当に何もなかったことにされてしまいそうだった。
何処かに怒りの矛先をぶつけたかった…。
「千紗は……千紗は、たった14歳のガキに殺されて……それでもそいつは“守られる側”か……?」
「どんな法律だよ……どんな国なんだよ、ここはよ……!」
警察官たちは静かに、しかし何も言い返せずに、ただ立っていた。
悠真の怒りも悲しみも、誰にもどうすることもできなかった。
そしてそれが、この世の“現実”だった。