第10話 この世は、逆さに落ちてくる
もう朝も夜も、わからなくなっていた。
仕事なんか、もうとっくに辞めてしまった。
食事も、風呂も、眠ることすら、いつの間にか義務になっていた。
千紗もいない。希もいない。
残されたのは、泣く赤ん坊と、静まり返った部屋だけだ…。
希が亡くなってからというもの、悠真の時間はそのままの時で止まっていた。
それでも、陽翔の泣き声だけが、その止まった時間に穴を空けるようだ。
そういえば今日が、千紗の四十九日だということを、陽翔にミルクをあげながら思い出した。
仏壇には、千紗と希の写真がこちらに笑顔を向けている。
笑っている二人に、悠真は問いかける。
「……なんで、みんな俺より先に行っちゃうんだよ。俺を置いてよぉ…」
…が答えてくれるはずもない。
ただ、湿った部屋の空気が、喉に重くまとわりつくだけだった。
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後日…
陽翔をベビーカーに乗せて、実家へ向かう。
両親に陽翔を預け、「夕方には迎えに来るから」とだけ伝える。
両親は悠真を心配そうに見送る。
その言葉は嘘だった。もう迎えに行くつもりなんてなかった。
両親の表情からも、薄っすらそれを感じとってるようにも思えた。
墓地に着くと、千紗と希の墓前に、花と線香、そして希が好きだった小さな菓子を供えた。
「千紗…。希。……もう俺もう疲れたよ。なぁ俺…頑張ったよな?」
悠真は墓の朝倉家の文字をしっかり見据える。
「俺は…千紗も希も守ることができなかった。」
そして、拳をぎゅっと握りしめ…
「もう…俺には…生きてる意味なんてないよ…、今からそっち行くから…」
その場に膝をつき、ただ風の音だけ聴こえてきた。
吹き抜ける風の中で、墓の石がどこか冷たく感じた。
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そして悠真は、死に場所を求めて墓地を出ようとする…そして寺の住職と見合わした。
住職は手にした小さな菓子箱を手に掲げ、にこやかに言った。
「茶菓子をいただいたのですが、ご一緒にいかがですか?」
悠真にはもう別に、断る理由なんてなかった。
どうせ死ぬつもりなら、死ぬ前に誰かのやさしさに触れてからでもいいだろう。
寺の静かな茶室。
湯呑から立ちのぼる湯気が、悠真の凝り固まった胸を少しだけほぐしてくれた。
住職に、これまでのことを全部語った。
千紗の死。希の死。何もできなかった無力さ…。
そして、今朝から考えていた自分の「終わり」のこと。
「……なぜ、この世は善い人ばかりが早く死んで、悪い奴らはのうのうと平気な顔して生きていられるんですか? こんな不条理な世界、誰が耐えられるって言うんですか?」
黙って最後まで聞いていた住職が、湯呑を静かに置いてゆっくり口を開く。
「……地獄は、何処にあると思われますか?」
「えっ…」
住職は穏やかな口調で
「地獄とはですね…この世のことなのですよ。
…そう……“この世こそが地獄なのです”
この世があの世で、あの世がこの世なのですよ。
悠真はふと目を見開く。
「昔、ある偉いお坊さんがおっしゃっていました。
『衆生の苦を知らずして、浄土を語ることなかれ』と──」
悠真はその言葉の意味を飲み込めず、黙って聞いていた。
住職は続けて
「仏教には『一切皆苦』という言葉があります。
この世のすべては苦しみからは逃れられない、という意味なのです。
生きることも…老いることも…病むことも…死ぬことも──
そして、人生も恋愛も生活もままならない。そう…全て思い通りにいかないから苦しいのです。」
悠真は黙って聞き入る。
「そして……産まれる前に積んだ業の報いを受けて、前世の罪を償うために、この世という地獄に落とされるのです。
赤ん坊は泣きながら逆さで出てきますよね?
それは、この世に落とされ拒絶ゆえの悲鳴なのです。本当はこの世に来たくなかったのです。」
「……じゃあ、もしかしたら千紗や、希は……?」
「そうです…善い人ほど早くこの世を去ってしまうのは、地獄の報いを早く終えれたからなのです。
つまり、早く罪を終えたから解脱できたのです。
あなたが愛した人は、罰ゆえではなく、きっと刑期が終え救われたのですよ。」
「じゃあ、俺だってそっちへ行ってもいいですよね。千紗や、希のもとに……」
「それは違います。自ら命を絶てば、それは“終わり”ではなく、“逃げ”になります。
『自死は重罪なり…』とも言います。
命を放棄した者は、この世で行なった業を来世へと持ち越し、また同じ苦しみを繰り返すのです。」
「……じゃあ、俺はどうしたらいいんですか………」
住職は、軽く微笑んだ。
「あなたには、陽翔くんがいるじゃないですか。あの子が、きっと、あなたをこの世に繋ぎ止めてくれています。あなたには、まだ“この世で生きる役目”があるのです。」
「この世で生きて、誰かを助け、相手を慮って少しでも苦しみを取り除くことに努める。
それが“徳を積む”ということです。
人は皆、この世で稼いだお金も、この世で築いた名誉も、自分の身体一つでさえ、あの世に持ってくことは出来ません…ですが、一つだけあの世に持っていけるものがあるのです。」
「えっ…!?」
「それは、この世で行った行為ですよ。そう…『業力不滅』といって、善い行いも悪い行いも含めて、あなたがこの世で築いた行為(業)は、全てあの世に全て持っていくことになるのです。
あなたがこの世で行った行為は永遠に消えない(不滅)なのです。
だからこそこの世で徳を積むことが重要であり必要なのです。」
住職は続けて
「人は、死んで仏になるのではありません。
人は皆、生きているうちに仏に成るのです。
生きている間に仏に近づき、その近づこうという心持ちこそが、最も尊くて価値がある行為なのです。」
そして住職は静かに話を終えた。
悠真は、少し黙ってから、住職にお礼を言う。
「……ありがとうございました。少し肩の荷が降りた気がします。」
悠真はゆっくり立ち上がり、深く頭を下げ寺を後にした。
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寺を出ると、日は西に傾いていた。
夕方の風が少し冷たくて、夏の終わりの匂いがした。
「そうだ……陽翔を迎えに行かないとな」
実家に戻ると、両親はほっとしたような表情で出迎えてくれた。
奥から、ぐっすり眠っている陽翔をそっと渡してくれた。
小さな手が、胸元を掴む。
その温かさが、不思議と心の痛みをやわらげてくれた。
悠真は、そっと陽翔の頭を撫でた。
「……ごめんな、父さん、ちょっと迎えに来るの遅くなったな」
そのまま陽翔を胸に抱いて、家へと帰る。
夜、静まり返った部屋で、悠真は仏壇の前に座った。
写真の中の千紗と希が、微笑んでいた。
「……ごめん。もうちょっと、こっちで頑張ってみるよ」
「……千紗、希のことよろしくな……」
終