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第1話:止まった時間


登場人物一覧

朝倉あさくら 悠真ゆうま

32歳/中堅メーカー営業職/千紗の夫

誠実で家庭を何より大切にする、ごく普通の会社員。

千紗と二人三脚で家族を支えてきたが、突然の喪失に直面し、父として、夫として苦しみながらも懸命に日常を保とうとする。


朝倉あさくら 千紗ちさ

29歳/育休中の元保育士/悠真の妻(故人)

明るく穏やかで、家庭の中心的存在だった女性。

日常の小さな幸せを愛し、子どもたちへの愛情にあふれていた。

物語冒頭で無差別な事件により命を奪われ、家族に深い喪失を残す。


朝倉あさくら のぞみ

4歳/長女

甘えん坊ながらも、年齢に見合わぬ鋭い感受性を持つ少女。

母の死に混乱しながらも、小さな心で「喪失」を受け止めようとする。

誕生日の朝、母の不在に最初に気づき、物語の感情の軸となる存在。


朝倉あさくら 陽翔はると

生後数週間/長男

千紗と悠真の第二子。

まだ何も知らないまま、家族の悲しみの中にいる存在。

希が「お姉ちゃん」として接しようとする描写に、失われた日常の残響がにじむ。

雨上がりの午後。

水たまりには、くすんだ空が映っていて、そこを小さなスニーカーが跳ねていく。

「ママ、見てー! ジャンプできたよ!」

娘の希がはしゃいで、千紗に向かって手を振っている。


「もう、びしょびしょになっちゃうよ!」

そう言いながらも、千紗はくすっと笑った。

傘を閉じて、保育園の門をくぐる。

小さな娘の送り迎えは、彼女の日課であった。



「ママー!今日もいっぱい遊んだよ!」

濡れたレインコートを脱ぎながら、娘は元気よくこちらに駆け寄ってくる。


そんな愛くるしい娘の姿を見て、千紗は小さく微笑んだ。


「そっか、じゃあ帰ったらパパにも教えてあげなきゃね」


結婚から五年。二人の子どもにも恵まれた家には、ささやかだが穏やかな笑顔が絶えなかった。



夕方。

家の中はどこか浮き立っていた。

チョコケーキのスポンジは先日のうちに焼いておいた。

今日はその上に乗せるイチゴとホイップを買いに行く予定だ。


キッチンで野菜を刻みながら、千紗は悠真に声を掛ける。


「きっと……誕生日、希、絶対喜ぶよね」


「うん、きっと大はしゃぎだろ」

ソファで陽翔をあやしていた夫の悠真が笑う。


「5歳だもんなぁ。なんか早いな。最近じゃ、俺なんかより口達者じゃないか?」

「そうね。昨日なんて、“パパのビールっぱらは、カエルさんみたい”って言ってたわよ」


「え、マジで……少しビール控えよっかな…」

「そうね、それは助かるわ…」


そんな他愛もないやり取りだったが、たまらなく愛しかった。



夕食後、家族3人(+ベビーベッドの陽翔)でリビングに集まり、明日の予定を話していた。

プレゼントは、新しい絵本とシルバニアの人形セット。


「おれ、明日は早めに帰るよ」

「うん。ケーキのデコレーションは希と一緒にやるんだ」



ニュースでは、昨日起きた通り魔事件について、簡単に報道されていた。

犯人はまだ捕まっていないみたいだ。

場所は、千紗がよく通るスーパーの前。


「……こわいな。あの道、犯人が捕まるまでは、あまり通らないほうがいいかもな」

悠真が言うと、千紗はすこし考えてから、笑って答えた。


「そうね。明日は人通りも多いし、違う道から希のプレゼントも買いに行くわ」

「そっか。……気をつけてな…」



寝室で子どもたちを寝かせつけたあと、千紗はもう一度、明日の娘の持ち物を確認していた。


プレゼントの包み、ケーキに使うロウソク、買い忘れた飾り付けの風船など——


誕生日が、希にとって素敵な一日になりますように。

そう願いながら、そっと電気を消した。




翌日…

午前11時35分。

静かな平日の商店街。

千紗は希を保育園に送ってから、帰り道、赤ん坊の陽翔をベビーカーに乗せ、スーパーへ向かっていた。

買い物リストを見ながら、角を曲がったその瞬間---


「……え?」


胸に、鋭い衝撃が走った。


刃物だと気づく前に、次の一撃が腹を穿った。

何かが胸に突き刺さったような衝撃があった。

それが刃物だと気づいたときには、もう次の一撃が来ていた。


鋭い刃が、首筋、腹部、そして胸元へと続々正確に突き立てられていく。

千紗は抵抗する間もなく、片腕でベビーカーをかばうようにしながら、歩道に崩れ落ちた。


犯人の男は無言のまま、執拗に何度も何度も刃を突き立てた。

そして、そのまま刃を刺したまま走り去っていった…。

その場では買い物袋が破れ、地面に卵が割れ、玉ねぎやミルクが地面に転がっていく。


血が、地面に滲むようにアスファルトに広がっていく。

その中に、赤ちゃんの靴が片方だけ転がった。


「……ぅ……」


千紗の視界は次第に霞んでいく。

目の端に、陽翔の泣き声と、ぼやけた空が映っていた。


——そのまま、彼女は動かなくなった。


周囲の人々が悲鳴を上げて駆け寄ったときには、すでに彼女の心臓は止まっていた。

刃物の傷は10か所以上。 犯人は無差別に、顔を避け、腹と胸ばかりを狙っていたという。


ベビーカーの中の陽翔は、ただ声を限りに泣き続けていた。

小さな手が母親の方へ伸びては、空を掴むように宙を揺れていた。

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