第1話:止まった時間
登場人物一覧
■ 朝倉 悠真
32歳/中堅メーカー営業職/千紗の夫
誠実で家庭を何より大切にする、ごく普通の会社員。
千紗と二人三脚で家族を支えてきたが、突然の喪失に直面し、父として、夫として苦しみながらも懸命に日常を保とうとする。
■ 朝倉 千紗
29歳/育休中の元保育士/悠真の妻(故人)
明るく穏やかで、家庭の中心的存在だった女性。
日常の小さな幸せを愛し、子どもたちへの愛情にあふれていた。
物語冒頭で無差別な事件により命を奪われ、家族に深い喪失を残す。
■ 朝倉 希
4歳/長女
甘えん坊ながらも、年齢に見合わぬ鋭い感受性を持つ少女。
母の死に混乱しながらも、小さな心で「喪失」を受け止めようとする。
誕生日の朝、母の不在に最初に気づき、物語の感情の軸となる存在。
■ 朝倉 陽翔
生後数週間/長男
千紗と悠真の第二子。
まだ何も知らないまま、家族の悲しみの中にいる存在。
希が「お姉ちゃん」として接しようとする描写に、失われた日常の残響がにじむ。
雨上がりの午後。
水たまりには、くすんだ空が映っていて、そこを小さなスニーカーが跳ねていく。
「ママ、見てー! ジャンプできたよ!」
娘の希がはしゃいで、千紗に向かって手を振っている。
「もう、びしょびしょになっちゃうよ!」
そう言いながらも、千紗はくすっと笑った。
傘を閉じて、保育園の門をくぐる。
小さな娘の送り迎えは、彼女の日課であった。
「ママー!今日もいっぱい遊んだよ!」
濡れたレインコートを脱ぎながら、娘は元気よくこちらに駆け寄ってくる。
そんな愛くるしい娘の姿を見て、千紗は小さく微笑んだ。
「そっか、じゃあ帰ったらパパにも教えてあげなきゃね」
結婚から五年。二人の子どもにも恵まれた家には、ささやかだが穏やかな笑顔が絶えなかった。
夕方。
家の中はどこか浮き立っていた。
チョコケーキのスポンジは先日のうちに焼いておいた。
今日はその上に乗せるイチゴとホイップを買いに行く予定だ。
キッチンで野菜を刻みながら、千紗は悠真に声を掛ける。
「きっと……誕生日、希、絶対喜ぶよね」
「うん、きっと大はしゃぎだろ」
ソファで陽翔をあやしていた夫の悠真が笑う。
「5歳だもんなぁ。なんか早いな。最近じゃ、俺なんかより口達者じゃないか?」
「そうね。昨日なんて、“パパのビールっぱらは、カエルさんみたい”って言ってたわよ」
「え、マジで……少しビール控えよっかな…」
「そうね、それは助かるわ…」
そんな他愛もないやり取りだったが、たまらなく愛しかった。
—
夕食後、家族3人(+ベビーベッドの陽翔)でリビングに集まり、明日の予定を話していた。
プレゼントは、新しい絵本とシルバニアの人形セット。
「おれ、明日は早めに帰るよ」
「うん。ケーキのデコレーションは希と一緒にやるんだ」
—
ニュースでは、昨日起きた通り魔事件について、簡単に報道されていた。
犯人はまだ捕まっていないみたいだ。
場所は、千紗がよく通るスーパーの前。
「……こわいな。あの道、犯人が捕まるまでは、あまり通らないほうがいいかもな」
悠真が言うと、千紗はすこし考えてから、笑って答えた。
「そうね。明日は人通りも多いし、違う道から希のプレゼントも買いに行くわ」
「そっか。……気をつけてな…」
寝室で子どもたちを寝かせつけたあと、千紗はもう一度、明日の娘の持ち物を確認していた。
プレゼントの包み、ケーキに使うロウソク、買い忘れた飾り付けの風船など——
誕生日が、希にとって素敵な一日になりますように。
そう願いながら、そっと電気を消した。
翌日…
午前11時35分。
静かな平日の商店街。
千紗は希を保育園に送ってから、帰り道、赤ん坊の陽翔をベビーカーに乗せ、スーパーへ向かっていた。
買い物リストを見ながら、角を曲がったその瞬間---
「……え?」
胸に、鋭い衝撃が走った。
刃物だと気づく前に、次の一撃が腹を穿った。
何かが胸に突き刺さったような衝撃があった。
それが刃物だと気づいたときには、もう次の一撃が来ていた。
鋭い刃が、首筋、腹部、そして胸元へと続々正確に突き立てられていく。
千紗は抵抗する間もなく、片腕でベビーカーをかばうようにしながら、歩道に崩れ落ちた。
犯人の男は無言のまま、執拗に何度も何度も刃を突き立てた。
そして、そのまま刃を刺したまま走り去っていった…。
その場では買い物袋が破れ、地面に卵が割れ、玉ねぎやミルクが地面に転がっていく。
血が、地面に滲むようにアスファルトに広がっていく。
その中に、赤ちゃんの靴が片方だけ転がった。
「……ぅ……」
千紗の視界は次第に霞んでいく。
目の端に、陽翔の泣き声と、ぼやけた空が映っていた。
——そのまま、彼女は動かなくなった。
周囲の人々が悲鳴を上げて駆け寄ったときには、すでに彼女の心臓は止まっていた。
刃物の傷は10か所以上。 犯人は無差別に、顔を避け、腹と胸ばかりを狙っていたという。
ベビーカーの中の陽翔は、ただ声を限りに泣き続けていた。
小さな手が母親の方へ伸びては、空を掴むように宙を揺れていた。