おまけ
ネフェリムの民がヤギを放牧している草原の丘に、ローグは座っていた。ローグに似た十二歳くらいの少年と茶色の犬と一緒にヤギを見張っているが、当のローグはただ見ているだけって感じだった。
それを近くの茂みの中でミーコは見ていた。
……何しているんだろう? ローグ。
じっくり観察するとローグの首には、よだれかけのような前掛けをつけていた。なんだろう? あの前掛けとミーコが不思議がっているとローグの傍に猫がやってきた。
黒くて金色の瞳をしていてちょっとネロウに似ていると一瞬思ったが、メスだし何より人懐っこい。座っているローグに撫でてもらって、気持ちよさそうだった。更に黒猫は後ろを向いて尻尾をフリフリする。ローグはちょっと笑って尻尾の付け根をトントンと軽く叩いてあげた。
それを見てミーコはちょっとムカついた。
何よ! あのはしたない猫は!
ムカムカしていると、遠くから「ローグちゃーん!」と言う女の人の声が聞こえてきた。
「ヤギミルク、飲む?」
「いらない!」
ほぼ怒鳴る感じでローグは答えた。明らかに怒っているが女の人はケラケラと笑って去っていく。女の人はイリスと同じくらいの年で黒髪を一つ縛りにしている。
あの女性、誰だろう。なんか距離感が近いような……。あ、まさか! 新しい婚約者!
……いや、何を慌てているんだ。別にいいでしょ。ローグに新しい婚約者ができたとしても……。
もやもやした気持ちをミーコが抱いていると、「ワン!」と鳴き声が聞こえてきた。少し目線を下げると先ほどまでヤギを見張っていた茶色の犬が自分を見ていて、飛びかかってきた。
「わ、わ、わ!」
ミーコは驚き、とっさに逃げる。すると茶色の犬が追いかけてきた!
「ちょっと! 追いかけないで!」
ミーコはヤギの群れがいるところに逃げる。ヤギたちは驚いて「メー、メー!」と鳴き、ポンっと身をヒツジのように毛がもこもこに膨らんだ。
この騒動にヤギを見張っていた少年は「あー、ドングリ駄目だよ!」と叫ぶ。どうやら犬の名前は【ドングリ】らしい。
「ドングリ、待て! 待てって! ねえ! 待てって言っているでしょ! ちょっと、お願いだから、待ってよう!」
少年の指示どころか、お願いなんて聞こえないドングリはミーコを追いかけまわす。
「ドングリ、待て!」
ローグの鋭い声にドングリはパッと止まった。そして「お座り!」と言うとドングリはキチンとお座りをした。
どうにか逃げ切って息切れを起こすミーコにローグは駆け寄った。
「大丈夫か?」
「うん、平気」
息を押さえながらミーコは返事をする。チラッとドングリの方を見ると、少年の文句をとぼけた顔して聞いていた。
「あれ、俺の弟、オーフィって言うんだ。優しすぎて番犬のドングリになめられているんだ」
「あ、そういえば言っていたね。弟がいるって」
オーフィは「もう命令を聞いてよ!」と怒るが、どんぐりは尻尾を振っているだけだった。
この騒動を聞きつけて「何やってんだ? ローグ」と成人男性がやってきた。ローグは「コーリュ兄貴」と呟く。
「俺は何もしていないけど」
「本当かよ。……あれ? お客さん?」
「あ、初めまして。ミーコです。猫の国からお手紙を持ってきました」
そう言ってイリスから預かった手紙をミーコは渡す。
コーリュと言う男性は「ありがとうね」と言って受け取った。
「じゃあ、ローグ。ちゃんと反省してろよ」
そう言ってコーリュは去っていった。その後ろ姿にローグは「フン、うるせえ」と言った。
「コーリュさんはローグのお兄さん?」
「うん、そう。それと次期長なんだ。今は長の父さんが大人のヤギを連れて崖に連れて行っているから、この地の責任者なんだ」
「……え? ここにいるヤギって大人じゃないの?」
「今年生まれたばかりの奴らさ。ネフェリムの民が育てるヤギは大きいんだ」
ローグの言葉にミーコは言葉を失う。何せ、周りのヤギは普通のヤギと同じくらいの大きさだ。大人のヤギだと、どのくらい大きくなっているんだろうか。
「と言うか、なんで崖に行くの?」
「崖に岩塩があるんだ。父さん曰く、ここら辺は大昔は海だったらしい。それが隆起したりして崖になったんだ。ヤギって時々、塩が欲しくなるから崖に登って舐めるんだ」
「危なくない? 落ちたら死んじゃいそう」
「落ちたら、こんな風に毛が膨らむのさ」
ローグは得意そうに周りのヤギを見る。驚いて毛が膨らんでいたヤギたちは、やれやれと言った顔になって毛が元に戻っていた。
「この毛がクッションになって落ちても平気なんだ。他にも竜や魔獣に襲われた際、この毛を固めて身を守るんだ。俺が使っていた旗の布は、このヤギの毛なんだ」
ミーコは感心して「へえ、すごい」と呟いて傍にいたヤギを撫でる。
そしてチラッとローグがつけている前掛けを見る。可愛らしい刺しゅうが付いていて、やっぱり赤ちゃんがつけるよだれかけに似ている。
ミーコが前掛けを見ていることに気が付いてローグは「あんまり見ないでくれ」と呟いた。
そんな時、「おーい、ローグちゃん!」と女の人の声が聞こえてきた。
「ヤギミルクはいかが?」
「だから、いらないって! リーリア!」
「では、ミーコさん。どうぞ」
そう言ってミーコにヤギミルクの入った器を渡す。走って喉が渇いていたのでミーコはごくごくと飲む。
だけどちょっとローグと話すリーリアがちょっと気になる。
「似合っているよ! よだれかけ」
「うるさい!」
「やっぱり、よだれかけなんだ」
ミーコがそう呟くとローグは嫌そうな顔になり、リーリアはいたずらっぽい顔になって「そうなの!」と言った。
「ほら、イリスに会うため猫の国に行ったでしょう。あれは無断で行ったから、長に【赤ん坊の刑】と言い渡されたの」
「【赤ん坊の刑】?」
「赤ちゃんみたいにいう事を聞けない者だから、よだれかけをつけて何にも仕事をさせてもらえない刑よ」
クスクスと笑うリーリアに「もういいだろ!」とローグは怒る。赤ん坊扱いされて恥ずかしいのだろう。
そうしてリーリアは去っていき、ローグとミーコの二人になった。遠くでは再び、どんぐりとオーフィがヤギたちを見ていた。
「ふん、別に【赤ん坊の刑】なんて慣れているし」
「え? ローグ、慣れているってどういう事?」
「今年の春も【赤ん坊の刑】になったんだ」
「……何したの?」
「春の初めは冬眠から覚めた竜がお腹を空かせて、やって来るんだ。この丘には滅多に来ないけど、今年はやってきたんだ。それで竜を倒せる人間が少ないから、父さんが逃げろと言ったんだけど、俺は倒せるって思って立ち向かった。初めて一人で倒せたけど、命令違反したから【赤ん坊の刑】にされた」
「なるほど」
不機嫌そうにローグは言って「理不尽だよ、まったく」と呟いた。
それよりもミーコは聞きたいことがあった。
「あのさ、リーリアさんってお姉さん?」
「違うよ」
「え?」
「コーリュ兄貴の婚約者」
ローグは【赤ん坊の刑】の説明を聞いていた時よりも不機嫌になった。
「あいつ、イリスと同い年なんだけど、いっつも俺をからかうんだよ! 小さい頃から兄貴と一緒にいて、俺をガキ扱いしてさ!」
ローグは「最悪だよ!」と怒るがミーコはちょっと安心した。
なんだ、コーリュさんの奥さんか。
……いや、別にローグの婚約者じゃなくて良かったって思わなくてもいいじゃん、私……。
そんな時、「にゃー」と言う鳴き声が聞こえてきた。ローグの足元を見ると先ほどの黒猫だった。
「やあ、ヨル」
「その猫、ヨルって名前なんだ」
「うん。真っ黒で夜みたいだろ?」
そう言うとローグはしゃがんでヨルを撫でる。撫でられるヨルは嬉しそうに目を細めて、すぐさま尻尾をローグに見せる。トントンしてくれって言わんばかりに。
ミーコはマジではしたない猫……と思うが、ローグにこんな風に撫でられたらいいなとは思った。
うらやましそうにミーコが見ているのに気が付いて、ローグは言う。
「尻尾の付け根をトントンする?」
「……」
「……どうしたの?」
「もう! 破廉恥だよ!」
「え? え? どういう事? ヨルの尻尾の付け根をトントンしてみるか? って、聞いたんだけど……」
怒るミーコにタジタジになるローグ。そんな姿をコーリュとリーリアは遠くから眺めていた。
「あいつ、デリカシーねえな」
「ウフフ、二人とも可愛らしいね」
「あまり二人をからかうなよ、リーリア」
ネフェリムの民が住む丘は、穏やかな風が吹いていた。