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公爵家の長女でした

作者: 鈴音さや



「ローザリンデ、婚約を解消してもらいたい。わかっているだろう?」

少しの哀れみを滲ませてそういったのは、レオニス王太子殿下。私の婚約者だ。その隣にはピンクの瞳を潤ませた男爵令嬢、エイミー様がいる。柔らかくウエーブするピンクの髪に華奢な肢体。鈴を転がしたような声まで含め、同性の私から見ても本当に愛らしい。


「ローザリンデ様、どうかお許しください。私たちが愛し合ってしまったばかりに…」


はらりと涙を零すエイミー様の肩を抱くレオニス様。


「エイミーが責任を感じることなどないよ。私とローザリンデとの婚約は家格や年齢の釣り合いで決められたものに過ぎない。王太子たる私が真実の愛に出会ったのだから、解消してしかるべきなんだよ」

「レオ様…」


見つめあう二人。このまま気配を消して消え去りたいけれど、どうしても言わなければいけないことがある。


「レオニス殿下、申し訳ありません。私からはお返事致しかねます。ディケンズ公爵家当主である父とお話しください」

「ディケンズ公爵には今朝方話をしたのだけど渋られてね。『教会の承認を受けた正式な婚約者は当家の娘であることをお忘れなく』と逆に釘を刺されてしまったよ。でも、真実の愛を手に入れた私が形だけ君と結婚をしてもお互い不幸になるだけだ。君からも公爵を説得して欲しい」


私は頷くことができず、無言で目を伏せた。


「形だけの結婚なんて意味がない、婚約の解消は君のためでもあるんだ」


私はやはり賛意を示すことができなかった。二人を残し、本来の婚約者である私が一人部屋をでる。家に帰りたくないけれど、王宮にいたくもない。とりあえずノロノロと馬車に向かっていると、侍女に呼び止められた。


「王妃様がお呼びです」


断れるはずもなく、重い足取りで侍女のあとをついて行く。王子様の次は王妃様。間髪入れずに王族と面会なんて。それにこのタイミング、どうせロクな話ではないだろう。

 案内されたサロンでは、王妃様が一人お茶を飲んでいた。挨拶もそこそこに着席を促される。


「それで、あなたどうするつもりなの?」


王妃様がティーカップを置く。私にお茶が出てくる気配はない。


「どう、と申しますと…」

「あなたレオニスに婚約解消するようにいわれてきたのでしょう? 公爵令嬢が男爵令嬢ごときに負けてどうするのよ?」

「しかし、王太子殿下のご意向に逆らうなど…」

「あなたは王家のご意向で選ばれた婚約者なのよ? たとえディケンズ公爵の力押しの結果であっても、正式な婚約者なの。レオニスを窘めて、男爵令嬢に不貞を問うくらいのことすらできないの?」

「申し訳ございません…」


王妃様が深くため息をついた。


「そういうところよ。これではレオニスが男爵令嬢ごときに熱を上げるのも仕方ないわね」

私はあなたとの婚約は反対だったのよ、と王妃様がティーカップを仰いだ。


「やっぱりあなたには王妃は無理ね。王太子どころか、王のご意向にだって時には逆らって事をおさめるのが王妃の役目。いいなりになっているだけじゃ務まらないのよ。あなたが妃教育によく努力していることは知っているわ。でも、それだけなの。貴族でなければ評価できるのだけれど、王太子の婚約者、将来の王妃としては失格ね」

「申し訳ございません」

「ほら、また謝罪。そういうところよ。もういいわ、帰りなさい」


王妃様はいうだけいって席を立ち、部屋を出て行った。扉の閉まる音がして、私は顔をあげる。安堵と、憂鬱なため息がこぼれた。



◇◇◇◇◇


ようやく馬車に乗り王宮を後にする。王族二人との立て続けの面会でもう倒れこみたい程なのに、この後には間違いなく父、ディケンズ公爵が待ち構えているだろう。婚約解消を申し付けられたことを慰めてくれるような人ではない、私にとっては。情けないと叱責を受け、なんとしても婚約者の座を死守するのだと責められるだろう。殿下とエミリー様の睦まじさが噂になる度、これまで何度も繰り返してきたことだ。でも今回は噂ではなく、婚約解消の申し入れ。「申し訳ありません」「頑張ります」では許されないだろう。恐ろしい。


背もたれに体を預け、目を閉じる。石畳を蹴る馬の蹄の音が遠のいて、意識が吸い込まれていく。もう、このまま目覚めなくても…。


私は国内でも有数の貴族、ディケンズ公爵家の長女として生まれた。こげ茶の髪にこげ茶の瞳。顔立ちはそう悪くはない、と思う。高位貴族にしては地味過ぎる色合いは、父方の祖母に似ているといわれる。5歳上の兄と2歳下の妹は母方の血が濃いようで、美女と名高い母とよく似た面差しに輝く金の髪。空を溶かしたような青い瞳をしている。兄は容貌だけではなく、文武にも才を見せる大変優秀な後継ぎだ。親の期待を背負い、見事その期待に応える。一を聞いて十を知り、なんでも卒なくこなす。だから、努力をしても結果が伴わないこともあるなんて思いもよらないのだろう。


そんな、何でもよくできる兄の次に生まれた私にも、両親は最初は「期待」してくれていた。私も兄のようになれると思い頑張った。でも、何かにつけて「その頃の兄」よりも出来が悪かった私から、両親の関心は離れていった。女児だから武はだめでも、せめて文はと、兄に追いつきたくて幼いながら私は勉強に励んだ。しかし、タイミング悪く、その頃には妹はかわいい盛りを迎えていた。母によく似た美しい面立ちで愛らしい笑顔を振りまく。両親はまるで「初めて女の子を授かった」かのように、かわいらしいドレスやおもちゃを妹のために集め始めた。私は長女だけれど、兄の次に生まれたことで「初めての子供」にもなれず、兄のスペアとして認識されたことで「初めての女の子」にもなれなかった。そして兄ほどには成果をだせず、結果「後継ぎのスペア」にもなり損なった。秀でた才もなく、美しさもない。地味な色合いで、特筆すべきところのない存在感のない娘。両親にとって付加価値のない子供。それが私だった。


そこで諦めてしまえばよかったのかもしれない。努力などやめて、空気のように存在感のない透明な長女でいればよかったのかもしれない。でも、まだ諦められなかった。

使用人が用意した「公爵家の長女らしい」衣装を身につけ、兄のお古の本で勉強を続ける毎日。顔かたち、髪や目の色は変えられない。であれば、せめて勉強だけは。兄には及ばないとしても、年下の妹に劣るといわれたら、私には何もなくなってしまう。せめて姉として、妹よりは高い学力を維持しなければ。幼い私が考え得る限りでそれだけが、「公爵家の長女」としての矜持を守る最後の砦だった。



10歳頃だっただろうか。いつものように、母と妹がサロンでお茶を楽しんでいるのが見えた。その日はなぜか勉強に疲れを感じてしまい、侍女に自分もお茶に同席したいと頼んだのだ。母も同席を許してくれた。私は舞い上がり、すぐに支度にとりかかった。私は日頃濃いめの衣装を着ることが多い。朝の着替えの時に侍女が渡してきたものをそのまま着ていたから。勉強の時にドレスにインクが飛ぶことがあるから、侍女が染み抜きを厭うていたのかもしれない。その日も紺色のドレスを着ていた私は、母と妹のように、淡い色合いのドレスに着替えたかった。けれど、支度をしている間にお茶会が終わってしまっては困る。同席は許されたけれど、あの二人が「私が来るまで待つ」とは思えなかった。その程度には現実を認識できていた。ならばせめて、と髪のリボンを外し、小さな生花を飾ってもらった。鏡の中、こげ茶の髪と瞳の地味目な自分でも、花を飾ると見栄えがよくなった気がした。


髪に花をさして、母娘のお茶会。これからは私も「後継ぎのスペアのできそこない」はもうやめて、妹と同じように令嬢らしい生活をしようか。勉強はそれなりにして、刺繍や楽器を嗜み、ドレスを作ったりお茶会をしたりするのだ。刺繍はこれまで教師と二人で学んできた。なかなか筋がいいと褒められている。まあ、兄は刺繍をしないし、妹はまだ手が小さく拙いのでまともに比べる対象がないともいえるけれど…。


サロンで、母と妹と三人で刺繍を刺す光景を思い浮かべる。二人は手より口が忙しいかもしれない。私は二人のお喋りを聞きながら刺繍を刺す。上手くできたら、誰かにプレゼントするのもいいかもしれない。私は浮き立つ気持ちでサロンへ向かった。


「お母さま、フロレンツィア、ごきげんよう」

扉をくぐったところで挨拶をする私を、二人が驚いた顔でみている。やはり明るい色のドレスに着替えてくるべきだっただろうか。


「あの、私…」

気持ちが一瞬で冷え、挨拶用の笑顔が崩れていくのが自分でもわかる。


「あなた、その花は何?」

母が厳しい口調できいてきた。


「花? こ、これはリボンの代わりに飾ってみました。その、季節感を-」

「あなた、お茶会で生花を髪に飾るのはマナー違反よ。お茶の香りを濁らせてしまうでしょう」

「でも、その…」

前にフロレンツィアがつけているのを見ました、とは言えずに飲み込んだ。

「もういいわ、下がりなさい」

母が顔をそむけた。

「全く。公爵家の長女として、自覚が足りないわ」

私は侍女に促され、踵を返す。

「勉強だけは少しはできるのかと思っていたけれど、酷いものね」

ドアが閉まる前に、こぼれた母の呟きが私の背中にぶつかった。


それから、また私は勉強に励んだ。妹なら許されることも、私には許されない。妹と同じことをしても両親の好意は得られないとわかったから。私は「後継」にも「愛娘」にもなれないけれど、「公爵家の長女」に相応しい程度の能力や評価は得なければいけない。それこそがこの家での私の存在価値なのだから。




家族からの好意を望まず、宛がわれた教師が導くままに「公爵家の長女」としてのあるべき姿を保っていれば、生活は平穏だった。朝晩、家族の食卓で、家族の団欒を静かに微笑んで見守る。時には父から勉強の進み具合をきかれることさえあった。兄のように、妹のように、両親に認められたいと望みさえしなければ、「公爵家の長女」として義務を果たせば私は家族の食卓に座ることを許される。


その頃から、母と共に他家のお茶会に参加することができるようになった。妹はまだ年齢が足りず、母と二人での外出だったけれど、私はもう勘違いはしない。私は「愛娘」ではない、同行が許されるのは「公爵家の長女」。きちんと振舞って、“さすが、ディケンズ公爵家のご令嬢ですね”という誉め言葉を引き出さなければいけない。格下の家では手に入りにくいお茶やお香のような、公爵家の権威を示すための役割だ。それでも、私は嬉しかった。家では評価を得られない私でも、他家にはわかってくれる人もいる。私の努力を認めてくれる人もいるのだ、と。


今ならわかる。彼女たちは公爵夫人が公爵令嬢を連れてきたから、当たり障りなく褒めた。いわゆる社交辞令だけれど、建前でも褒めてくれる他人と接することで、私は少し救われた。努力の意味を見つけられたと思えた、平穏だった日々。



そうして、12歳の頃。レオニス王太子殿下の婚約者になった。

父の執務室に呼ばれ、そのことを告げられた時、私は言葉を失った。自分の努力が大きく実を結んだことに感無量だった。こみ上げてくるものを抑えながら、涙が滲む瞳を隠すために少し俯いた。私を前に立たせたまま、執務机に座っている父は、自分に感謝しろといった。


「お前くらいの令嬢などいくらもいる。我が公爵家の令嬢だからお前が選ばれたに過ぎない。家門の恥とならぬよう、しっかり努めよ」

「承知いたしました」


私は顔を伏せたまま小さく礼をとり、逃げるように父の執務室を後にした。これ以上、何もききたくなかった。「王太子の婚約者」となっても、父は私を認めない。でも、時が至れば王太子妃、やがては王妃となる。「公爵家の後継ぎ」どころか、「公爵家の当主」よりも立場は上だ。妹だって周辺国の王太子に嫁がない限り、私より格下になる。「後継ぎのスペア」にも「愛娘」にもなれなかった「公爵家の長女」はもうおしまい。いずれ王太子妃、王妃という名の蝶へと羽化していくサナギになったのだ。努力は報われた。その時の私は、そう思っていた。




◇◇◇◇◇


「それが婚約解消とはねえ…」

馬車が走り出してようやく少し気が緩んだか、つい、口からこぼれてしまった。向いに座る侍女には聞こえていなかったようだ。いや、聞こえないふりかもしれない。どちらでもいいことだ。私を気に掛ける人など、公爵家には使用人にすらいない。私がきちんとした身なりで病気などせず、見た目「正しい生活」をしていれば彼女たちは咎められることはない。


「王太子の婚約者」でなくなった私はどうすればいいのだろう。努力はしたのだ。努力しかなかったから。高位貴族の令嬢の中ではそれなりに評価を得られていると思っていた。それでは「王太子の婚約者」としては足りないことも。私には家柄以外飛びぬけたものがない。着飾ればそれなりには見栄えがして、それなりの教養がある。公爵家の人手や予算の上に私個人の努力を重ねても、それなりにしかなれなかった。だからこそ、努力をやめられなかった。手を抜けばどれだけ落ちるのか恐ろしかった。必死にしがみついていたのに、今では「男爵令嬢に負けた公爵令嬢」になってしまった。蝶になれなかったサナギどころか、もう毛虫クラスではないだろうか。


馬車が家についた。

「旦那様がお待ちです」

玄関を入ると、執事が待ち構えていた。


「わかりました」

執事の後について歩き出す。今日はこんなことばかりだ。でも、これがきっと、最後で最悪。握りしめた手が小さく震えているのが自分でわかる。私は王太子より王妃より、父の叱責が怖いのだ。期待されていないとはわかっていても、見限られたくはないのだ。


「失礼いたします」

執事が開けたドアをくぐる。父の執務室に入るのは久しぶりだ。5年前、殿下との婚約が決まったと告げられた日以来か。その日とおなじように、父は執務机で仕事をしている。私が前に立っても、そのまま手を止めることはない。


「今日、殿下からお前との婚約を解消したいと申し入れがあった」

「申し訳ございません」

私は謝罪の態で目を伏せ、頭を下げる。父がなるべく視界に入らないように。寒い。いや、体が震えているだけか。どんな叱責を受けるのか。父のペンが紙をこする音がやけに大きく聞こえる。と、パタリと音がやんだ。


「殿下には承服できないといったが、この機会に婚約者をフロレンツィアに入れ替える」

「は、あの、それは… 」

私は思わず顔を上げていた。


「殿下の縁談の話が出始めた頃、フロレンツィアの年齢では婚約者になるのは難しかったのだ。他家に年の釣り合う令嬢が何人もいたから、当家もまずは年周りのいいお前を婚約者とした。婚約者の椅子を確保して、あとで姉妹を差し替える形のほうが確実だからな。あの男爵令嬢の件がなければあと1~2年、お前に持ちこたえてもらいたかったが、まさか殿下があのような児戯に走るとはな」


珍しく饒舌な父が、叱責どころかむしろ機嫌よさそうに話す声が耳と素通りしていく。

話の内容がわからない。どういう意味? 私は叱られない? 婚約者の入れ替え? 意味がわからない…。


「まあフロレンツィアも15歳にはなった。まだ青いが男爵家の貧相な令嬢くらいは蹴散らすだろう。あれは少し頭は足りないが、我が家という後ろ盾がある。王妃も喜んで受け入れるだろう。殿下も若気の至り、少し締めればのぼせた頭も冷えよう」

父は眉間を揉み解している。前に立つ私に向かって話しているように見えるけれど、実際は、独り言のようなものなんだろう。


「何を呆けている? まあいい。あとはこちらで上手く段取りするからお前は何もするな。誰にも会わず、手紙も禁止だ。私がいいというまで屋敷を出るな。わかったら、もう行きなさい」

「あの、お父様、私は」

「もういいと言っている。下がれ」




いつのまにか自室に戻ってきていた。侍女に長椅子に座らされる。ドアの閉まる音がする。

「私は、私は…」

言葉が続かない。わからない。ぼたぼたと涙が零れる。

「王太子の、婚約者になったって…、思ったのに…」

嗚咽が激しくなる。


”王太子の婚約者”になれたと思った。跡継のスペアの出来損ないを卒業したと思っていた。

違った。最初から違っていた。妹が大きくなるまでの代役だったって。「愛娘」になれなかった。

当たり前だ。「愛娘の代役」だったんだ。時が至れば王太子妃? 妹の時が至るまで、公爵家の確保した椅子を温めておくだけの人だった。私の出番はない。


私は「公爵家の長女」。「跡継のスペア」にもなれない「愛娘の代役」。努力が報われたのではなかった。


私は殿下を愛していたわけではない。とても感謝はしていたが。私を王太子妃に、王妃にしてくれる人。

私を蝶にしてくれる人。「王太子の婚約者」ではまだ認めてもらえなくても、王太子妃にまでなれば

さすがの両親も私を認めてくれるはずだと思っていた。その半分は世間体や王家へのおもねりだとしても

構わなかった。両親に、兄妹に、笑顔で祝福される花嫁になりたかった。結婚相手が王太子ならそれが

叶うと信じていた。


だから殿下には罪悪感があった。家族の中で自分の立場を上げるために利用していると自覚していた。

せめて少しでも良い婚約者と思われるようにと努力した。気分良く過ごしてもらいたくて、嫌われたくなくて、できる限り殿下のご意向にそいたかった。私に返せることはそれくらいだと思っていたから。でも。


「王妃様には努力だけねっていわれてしまった…」

跡継ぎとか、美人とか、他人の物差しで測れる価値が私にはないから。努力している姿を見せることで

目こぼしをしてもらっていた。いや、目こぼしをしてもらえているつもりだった、か。

王妃様はわかっていた。なら両親や他の人もそう思っていたのだろう。こんなに努力をしているのだから

成果にはならなくても多めに見てくれるはずと、これだけを自分を守る方法だと必死だった私を。


貴族には、王妃になるには足りない私。跡継ぎのスペアになれなかった私。愛娘になれなかった私。

父は妹なら男爵令嬢を蹴散らし、王妃も喜んで受け入れるといっていた。きっと、その通りなのだろう。



「これじゃ、私まるで道化者みたいね」

泣いているのに、瞬間、笑いの衝動がこみ上げる。

以前訪れた劇場で見た。一人だけ顔を真っ白に塗り、その上におかしな化粧で笑顔が描いてあった。

芝居の筋書きとは関係ないとんちんかんなことをいい、客の笑いを浴びて退場していく。

滑稽な役者。滑稽な私。


好かれなくても、せめて嫌われたくなかった。でも、実際には相手にされていないだけだった。

筋書きとは関係のない異物だった。父は言葉通り、上手く段取りするだろう。妹が殿下の婚約者になり、

男爵令嬢を蹴散らす。王妃の役割を果たせる令嬢。ディケンズ公爵家の後ろ盾のついた愛娘を王妃は

受け入れるだろう。殿下は頭が冷えて目を覚ます。いや、真実の愛を権力に引き裂かれた悲しい恋人同士、といったところか。殿下を立派な王にするために涙をのんで身を引くエミリー様と、その愛を胸に秘めて王になるためにフロレンツィアの手を取る殿下。


そんな筋書きと関係のない道化者は、退場したらどうすればいいのだろう。




◇◇◇◇◇


「もう、お姉ちゃんでしょ」

「全く、お姉ちゃんのくせに」

「それくらい、お姉ちゃんなんだからいいでしょ」


肩のあたりで結ばれた黒い髪の女性。顔はぼやけていて見えない。天井の低いこじんまりとした部屋。私を見下ろしていたり、見上げていたり。いくつもの場面が流れているけれど、そのどれもが私に好意的とは感じられない。投げやりだったり、苛ついていたり、時には怒り、怒鳴りつけていることさえある。


“私”は不満を感じている。「お姉ちゃんだから」なんだというのか。ほんの数年先に生まれたからといって、なぜ“私”ばかりが譲って我慢をしなければいけない? 


“なぜ私のぬいぐるみを妹にあげないといけないの? お母さんがもう一つ買えばいいじゃない”

“なぜ私より先にケーキを選ぶの? 次は私が先に選ぶ番だって約束したじゃない”

“これはダメ、お友達とお揃いなの。イヤだってば、返してよ!”


“私”の主張を“お母さん”は「お姉ちゃんでしょ」と叩き落していく。「お姉ちゃんでしょ」は魔法の言葉。お母さんが唱えれば何でも妹の願いが叶う、とびきりの言葉。“私”から何もかもを削り取る破壊の呪文。


でも、妹がわがままを言わなければ“お母さん”は優しい。


「あの子は全然お手伝いをしなくて困るわ。“お姉ちゃん”はえらいわね」

「あの子はまた塾をサボったみたい。どうしてお姉ちゃんみたいにキチンとできないのかしらね」

「お父さんは仕事仕事って何もしてくれないもの。お母さんの頼りになるのは“お姉ちゃん”だけよ」


私だって本当は家の手伝いなんかしたくない。たまには塾をサボって友達を遊びに行ってみたい。でも、“お母さん”が頼れるのは“私”だけだから。私が我慢して、頑張って、“お母さん”を助けてあげないといけない。“私”が妹より良い子だと“お母さん”に証明しなければいけない。


「“お姉ちゃん”の大学のことなんだけどね、地元の国公立にしてほしいのよ。あの子も高校受験でしょ? でも成績が悪くて効率は無理みたいなの。私立の制服のかわいいとこじゃなきゃいかないって手が付けられないのよ。“お姉ちゃん”は成績良くてどこでも受かるでしょう? それにやっぱり東京で一人暮らしなんて心配だわ。地元で家から通える学校にして欲しいのよ。」

「“お姉ちゃん”、悪いんだけど学費は自分で奨学金を借りてくれない? あの子の専門学校のお金がすごくかかるのよ」

「東京で就職? ダメよ! 女の子は親元にいなくっちゃ。地元にだって就職先なんていくらでもあるでしょう? 公務員なんていいんじゃない? “お姉ちゃん”にはずっと家にいてほしいのよ」


「ねえ、就職したばかりの“お姉ちゃん”頼むのは申し訳ないんだけど、家に入れるお金雄もう少し増やして貰いたいの。あの子、今度こそ頑張るからって新しい専門学校のパンフレットを持ってきたんだけどね、また入学金から何から払うとなると家計がきつくってね」


「あの子ったら東京にいくって。新しい専門学校なんて嘘だったの。お金だけ持って、都会暮らしをするんだって出て行っちゃったのよ。やっぱり家で頼りになるのは“お姉ちゃん”だけよ」


「“お母さん”も歳ね、最近あちこち痛むのよ。“お姉ちゃん”が家事をやってくれて助かるわ」

「お父さんがね、お給料を減らされることになったんですって。まあ、このご時世だからある程度はね。でも“お姉ちゃん”は公務員でしょ? ボーナス、たくさん出たらしいじゃない? 家に入れてもらえないかしら」



「あの子がね、帰ってくるのよ。子供ができたって。孫よ! 私もおばあちゃんになるのよ」

「そうよ、ここに住むのよ。旦那さんが同居してくれるって。あの子、いい人捕まえたわよ」

「あら、“お姉ちゃん”にいってなかった? 東京に行って2年くらいだったかしらね。結婚したい人がいるって。チエコ叔母さんの13回忌の時にお父さんと法事にいったでしょう? あの時にご挨拶もしたのよ。結婚式は二人だけでハワイでやるっていってね。ほら、“お姉ちゃん”にボーナスを入れてもらったときよ。お金だけとって式に参加させないなんて仕方ない子よね」


「連絡? させてたわよ、当り前じゃない。年頃の娘が東京で一人暮らしするっていうのに放っておけないじゃない。毎月ちゃんと連絡したら家から仕送りしてあげるっていったからね、あの子も欠かさずに連絡よこしたわよ。そういうところはしっかりしてるのよね」


「ねえ、“お姉ちゃん”は貯金いくらくらいある? あの子が帰ってきて、旦那さんも同居してくれて、孫も生まれるとなるとこの家もちょっと手狭じゃない? 庭を潰して増築したらどうかと思って。“お姉ちゃん”が下に降りて、2階にあの子達が住んだらいいと思うのよ。“お姉ちゃん”だって若夫婦と同じ階の部屋なんていろいろ気を遣うでしょう?」

「え? 家を出る? ダメよ! これからあの子のお産となればお金も人手もいくらあっても足りないんだから。もうわがまま言ってる場合じゃないのよ? しっかりしてよ、“お姉ちゃん”」

「家を出るとかより結婚のことを考えたら? もう30歳になるでしょう? 娘はね、結婚して親に孫の顔を見せてくれるのが一番の親孝行なのよ。“お姉ちゃん”もそろそろあの子のことを見習ってちゃんと親孝行してよ」



言葉を失った“私”を気に掛けることなく、“お母さん”は機嫌良さそうに部屋を出て行った。はらわたが煮えくり返るとはこういうことだろうか。体がカッと熱くなる。一人になりたくて、“私”は自室に駆け込んだ。


私だって東京の大学に行きたかった。どうせ奨学金という借金を背負うなら、好きな学校に行って一人暮らしをしてみたかった。毎月仕送りをしていたの? 妹は結婚してたの? 私のボーナスを妹に渡して海外で結婚式をやらせたの? なのに、“私”には知らせなかったの? 私には奨学金背負わせて、給料を半分も入れさせて、ボーナスだってださせて、家事までさせて、土日は買い物だ病院だって車を出させて。お金も時間も本当はもっと自分のために使いたかった。でも“お母さん”は大変だから、“お母さん”の支えになろうって、親孝行しようって思ってやっていたのに。“お姉ちゃん”だけが頼りだって、“お姉ちゃん”のほうが良い子で親孝行だっていってたじゃない! 妹が親孝行? 妹を見習えって何? 私が妹みたいに暮らしたら、誰がお金を出して家事をやってくれるの? 孫が一番の親孝行? 今までの私のしてきたことは全部なかったことになるの? 都合のいい時も都合の悪い時も、“お姉ちゃん”っていえば解決なの?


妹のわがままがなければ“お母さん”は優しいなんて、大間違いだ。“私”はバカだ。親孝行とか、頼りになるとかいわれていい気になって。もう30歳になるのに。孫どころか結婚相手のあてもない。実家住まいで貯金もがんばってきたけど、家に入れたお金のほうが遥かに多い。悔しい。頭が沸騰しそうだ。ダメだ。もう無理。“お母さん”は妹にせいぜい親孝行してもらえばいい。“私”はもう“お姉ちゃん”を降りる。こんなところにはいられない。もうこれ以上、お金も時間も信頼も何も渡さない。“私”はもう十分払った。一生分よりもたくさん払ったと思う。だからもう、あの人達とはさようならだ。家族。血がつながっている人、一緒に暮らしてきた人。「血がつながっているだけの人」。さようなら。




◇◇◇◇◇


ふと目を開ける。随分と天井が高い。床に横たわっていたようだ。こすれた頬がヒリヒリ痛む。体を起こそうとついた手がフカリと沈む。毛足の長い、柔らかく美しい絨毯。周囲を見回す。広い部屋。曲線的な美しい家具。足を投げ出して床に座り、長椅子に背中を預けた。


「そうだ、公爵家の長女だった…」

“夢”の中の怒りや悔しさに飲み込まれてしまいそうだけれど、今の私は違う。私を見下ろす。美しいシルクのドレスに包まれた体。改めて両手を見ると、白く折れそうな指。一束手にした栗色の髪は柔らかくウェーブしてツヤツヤと輝いている。


「フロレンツィア程ではないけれど、ローザリンデも十分に美人だよ」

手元に鏡はないけれど、いつもの私を思い描く。使用人達にしっかりと管理されてきた公爵令嬢。甘いものは好きだけれど、決められた食事やお茶の時間に給仕された以上は食べられない。お代わりをいえる感じでもなかったし。そのお陰か肌荒れも余分な脂肪もない。まあ、胸もないけども。毎晩の入浴後はマッサージや肌の手入れを受けているから、足はすらり、ウエストはほっそり、お肌はツルスベだ。年齢が17歳というのも大きいだろう。


「異世界転生ってやつなのかな」

確信しながら、口からは疑問形の言葉になった。“夢”の世界の“私”。前世の“私”。名前や顔は思い出せない。でも“お姉ちゃん”だった。“お母さん”に褒められたくて必死だった。実際は「お金と人手」としか評価されていなかった。やっぱり道化者だった“私”。


「こういうのって、転生後はいい思いをさせて貰えるものじゃないのかなあ。溺愛家族とか、イケメン幼馴染とか従者とかがセットじゃないの? 異世界で生まれ変わってまで“お姉ちゃん”とかおかしくない? 」


公爵令嬢だけど男爵令嬢に負けて、王子さまは妹に奪われる。まあ、衣食住だけは保証されていたから、それはよかったかもしれない。

長椅子の座面に頭を預けて天井を仰ぐ。一日の密度が濃すぎて、もう笑いも怒りもわいてこない。でも、思い出せてよかった。前世の記憶が蘇らなかったら、あのまま立ち直れなかったかもしれない。前世も残念だったけれど、アラサーまで生きた記憶が私を強くしてくれている。後継でも愛娘でもない、「公爵家の長女」。それで結構。でも、どうせならもう何年か早く思い出したかった。そうすれば、もっと上手くやれたのではないか? と考えてしまう。どうかな? 別に殿下が好きだった訳ではないし、数年早く思い出したところきっと、嫌われたくないとか波風を立てたくないとかいって周囲を伺って。結局は男爵令嬢に負けて…。前世だって“お母さん”に「人手とお金」呼ばわりされるまで30年近く気が付かなかったし。今生もし早めに思い出してもきっと、父に「妹の代役婚約者」とあかされるまではなんだかんだ事なかれ主義で過ごしていたような気がする。前世も今生も本質的には変わらないのかもしれない。


そんな風にしばらく天井を眺めていると、喉の渇きを覚えた。前世の夢の前は散々泣いていた。椅子から床に転げ落ちてそのまま眠り込む勢いだ、喉も乾くというものだろう。立ち上がり、水差しからグラスに水を注ぐ。口に含むと、少し生臭く感じた。


前世の私、日本での感覚を得たせいだろうか。水道で組んだばかりのお水でも気持ち飲みにくい。沸かしてお茶にするとか、ペットボトルならおいしく飲めるけど、あいにくこの世界にはない。あのあと、“私”はどうしたのだろう。思い通り、家をでて“家族”と離れることができたのだろうか。いや、あの勢いだ。きっと逃げ出したはずだ。家に給料やボーナスを入れ奨学金の返済もしていたけれど、倹約してそこそこ貯金もあった。成人も通り越してアラサーの社会人。部屋を借りるくらいはなんとかなるだろう。


グラスを置き、靴を脱いで寝台にあがる。大の字に寝転んでも余る広い寝台。

「あー、やっぱり靴を脱ぐとホッとするわー」

王子王妃の二連戦後、王宮から戻って父にとどめを刺されて。泣きながら寝落ちしたからドレスや靴はそのままだった。コルセットは苦しいけれど、靴を脱いだだけでも大きな解放感だ。


「やっぱり日本人ね」

世を儚んで崖がビルから飛んでしまうとき、日本人だけは靴を脱いで揃えていくという。気持ちはわかる。ゴソゴソと身をよじり、スカートの中に手を突っ込む。あちらこちら身じろぎして、なんとか靴下止めを外した。長い靴下を脱ぎ捨て、足の指をニギニギしてみる。

「はー、すっきり」

解放感、たまらない。


「これからのこと、考えないとね」

少し声が小さくなった。父には許可が出るまで外出禁止を言い渡された。今の、婚約解消された私なら、朝晩の家族の食卓につきたくないといっても誰も不思議に思わないだろう。いや、私が仲間はずれになりたくなくて居心地悪くもしがみ付いていただけだから、私が食卓に現れなくても誰も何も思わないかもしれない。どっちでもいい。部屋に引きこもっても怪しまれないで、その間に今後のことを考えなくては。


「私だって逃げて見せる」

成人して社会人で貯金もあった“私”より、今の私は分が悪い。治安、仕事、環境。女が一人で生きようとすればこの世界は日本より格段に厳しい。それでも、ここにはいられない。「後継のスペア」になれなかった「愛娘の代役」。「公爵家の長女」でいたってどうせロクなことにはならない。溺愛家族もイケメン幼馴染もいないハズレ異世界転生かもしれないけれど。前世の経験値と今のスペックで何とかするしかない。アラサー+17歳=だいたいアラフィフ。赤ちゃん幼児時代を差し引いても、アラフォーくらいの分別はあるはず。こげ茶の髪にこげ茶の瞳。高位貴族にとっては残念ポイントでも、逃亡には目立たなくて有利になる。


「私だって、あの人達とはさようならだ。」

家族。血がつながっている人。一緒に暮らしてきた人。「血がつながっているだけの人」、さようなら。




◇◇◇◇◇


「娘は姉妹都市の提携イベントで出張に行くっていったんです。もう10日も帰ってこないんです。一体いつになったら帰ってくるんですか?」

「お母さん、落ち着いてください。先ほどから申し上げておりますように娘さんはもうこちらを退職しております。退職後の転職先などは伺っておりません」

「そんな、嘘よ。隠しているんでしょう? 娘をどこにやったの? 返してよ!」


年配の女性が叫んでいる。上司がうんざりした顔をしながらも、努めて落ち着いた声で同じ説明を繰り返している。


「あれ、どうしちゃったの?」

「なんかね、都市計画課の人が家出? しちゃったらしい。まあ、家出って歳でもないみたいだけどね」

「何それ? 家族に内緒で役所辞めて姿くらませちゃったってこと?」

「そう! なんかね、役所のイベントで出張に行くっていって出たっきり帰ってこなくて、部屋をみたら空っぽだったらしいよ」

「マジで? つか、同じ家に住んでてなんで気が付かないの? 空っぽになるくらい荷物運んでたら普通気がつくでしょ! ありえないー」


隣の課の女性達が集まって、ひそひそというには大きい声で盛り上がっている。いなくなってしまった“彼女”は私の同僚だ。短大卒の私と“彼女”は二歳違いの同期だった。微妙に年齢が違うこともあり、同期といっても当たり障りない世間話をする程度で特に仲が良かったわけでなはない。


何年も同じ職場にいたけれど、退職に備えて“彼女”の業務を一部、引き継ぐために何度か打ち合わせをしたこのひと月程が一番距離が近かったくらいだ。その間、日頃はお弁当持参の彼女と何度かランチを一緒にする機会があった。会計の時に、“彼女”がバッグから本を落とした。拾い上げると、それは色とりどりの付箋が貼られた古いガイドブックだった。


「東京歩き? すごい、いろいろ調べてありますね」

「ありがとう、これね、学生時代に修学旅行で使ったの。部屋の掃除をしていたら出てきて懐かしくなっちゃって、読み直しているところ」

バッグに本をしまいながら、懐かし気に目を細めていた。


「私も修学旅行、東京でした。ネズミーランド初めてだったんですよ」

「私も! 修学旅行で初めていった。あと東京タワーとスカイツリーも! これだけ付箋貼りまくって調べたけど、全然回れなかったんだよね。いつか、全部制覇したいな」

「いいですね! でも大変ですよ、新しい観光名所もどんどんできているでしょう? 一週間や十日じゃ回り切れないかも」

「だよね。古いのだけじゃなくて、新しいガイドブックも買って、その日のために予習もしちゃおうかなあ」

10年近く同僚をしていたけれど、いつも疲れたような諦めた顔をしていた。あれ程楽しそうに笑った“彼女”を見たのは初めてだった。その後すぐ“彼女”は有休消化に入って、思えばあれが一緒に行った最後のランチだった。


「辞めたんだったら退職金とかだって出ているんでしょう? それは親に振り込んでもらうようにしてください」

「お母さん、そういうことはできませんよ。もう退職手続きは完了しています。親御さんといっても、社会人のことですから。勝手なことはできません」

「でも、困るんです。 妹が、下の子が出産で旦那さんも連れて帰ってくるんです。家の増築も始まってるし、孫が乗れる大きな車も買わないといけないし。あの子がいなきゃお金が足りないんです。困るのよ、ほんとに。困るんです」

「お母さん、何度もいってますけど、退職後のことはそちらのご家庭の事情でしょう? いい加減にしていただかないと、警備員を呼びますよ?」

「でも、あなたは娘の上司なんでしょう?」

「あなたは母親でしょう? 私はただの職場の上司。赤の他人ですよ、まったく」

警備員さん!と上司が手を挙げると、“お母さん”は不満気な顔のまま足早に去っていった。


「ちょ、マジ? 妹のお産対応で“お姉ちゃん”に家を増築させたり車買わせたりとか、おかしくない?」

「いやー、そら娘も逃げるよねえ」

「っていうかさ、その妹の旦那はお金出さないの確定? 自分の嫁と自分の子供のことなのにね」

「あの“お母さん”が見栄張って出させないか、旦那も甲斐性なしか」

「うわ、嫌な二択。どっちもないわー。みんなで“お姉ちゃん”に集りまくり」

「集られる前に逃げてよかった」

「いや、あの様子じゃもう結構集られてると思うわ。あの“お母さん”だもん」

「逃げてー、“お姉ちゃん”全力で逃げてー」


隣の課の女性達はひとしきり盛り上がると、それぞれの仕事へ戻っていった。


少し俯いてモニターの陰に隠れ、私はこみ上げてくる笑いを手で隠す。“彼女”が消えたことで、私は少し仕事が増えてしまった。でも、あの“お母さん”を見たら、そんなことがどうでもいいくらいに“彼女”の勝利が嬉しくなってしまった。いつもお弁当持参だった“彼女”。ポットにコーヒーも持参していた。長期休暇明けはいつも、旅行に行った人達がお土産のお菓子を配るなかで、「私、どこにも行ってなくて。貰ってばかりですみません」と申し訳なさそうにしていた“彼女”。


「ざまあみろ」私は手のひらの中に小さく勝利宣言をこぼす。

“彼女”は逃げた。今頃きっと、東京を満喫しているに違いない。古いのと、新しいの。二冊のガイドブックを持って、東京の空の下で。これ以上ないというほど楽しそうに、きっと笑っている。




◇◇◇◇◇



「自慢の娘なんです。何も言わずにどこかに行ってしまうような子じゃないんです。きっと誰かに騙されて連れていかれてしまったんです。だから探してください」

「お母さんねえ、そうはいっても娘さん30歳になるんでしょう? 聞いた限りじゃあお勤め先も円満退職されてるようだしね? 事件性はないってことになるんですよ」

「でも、だって、おかしいじゃないですか! どうして何もいわずに勝手にどこかにいってしまうんですか? もうすぐ下の子が帰ってきてお産なんです、私はもう歳だしとても一人じゃ世話できないと思うし。“お姉ちゃん”のために家の増築だってしてるのに」


警察官はため息をついた。

「じゃあお母さんね、とりあえず捜索願をお預かりしますよ。でもね、娘さんももういい大人でしょう? 自分で判断して自分で行動できる。お母さんが知らないことだってあるはずです。まあ、あんまり思いつめないで。今はその下の娘さんのお産の準備をしたらどうですか?」

パトカーで家まで送りましょうか? という警察官の声を振り切って、私は交番をあとにした。


“お姉ちゃん”がいなくなってもう半月になる。あの日、役所の仕事で何日か出張するといって車で出たっきり。一週間経っても帰ってこなくて、出張先の電話番号でもないかと“お姉ちゃん”の部屋に入ってみたらもぬけの殻だった。何も、何もなかった。心臓がバクバクと激しくなって、息が苦しくなって。携帯が上手く握れずに、何度もやり直しながらようやく“お姉ちゃん”にかけてつながらなかった。“この番号は現在使われておりません”という女性の声が聞こえてくる。もちろん、向こうからの連絡もない。


どうしてしまったのだろう。何か事件に巻き込まれたんじゃないかと勤め先の役所に駆け込んだら、もう退職したと、転職先は知らないと、素っ気なくいわれた。そんなはずはない。これから妹が帰ってきて、お産をして孫が生まれる。若夫婦と同じ階の部屋も気まずいだろうし、赤ん坊の泣き声もうるさくなるだろう。だから“お姉ちゃん”のために庭に部屋を増築するといったのに。“お姉ちゃん”だって賛成してくれた。手付金だって払ってくれた。喜んでいたはずなのに。車だって、あの子と旦那さんと孫が増えれば6人乗れる大きいのが必要になる。だから今の車を売って新しいのを買おうっていってくれた。ディーラーさんで下取りの査定もすませたといっていた。あとは新しい車の納車を待つだけだって。でもディーラーさんに電話をしたら、新車は注文されていなかった。下取りだけだった。“お姉ちゃん”が出張にいくって出て行った日に、車は下取りされていたって。書類を見せてもらったら確かに“お姉ちゃん”の字だった。


“お姉ちゃん”が役所に就職が決まったときに、地元で勤めるなら車通勤にすると自分で買った車だ。その後、お父さんが普段はどうせ乗らないからと車を処分してしまって、今では一台だけの自家用車だったのに。車がなければあの子の検診の足がなくなってしまう。これから赤ちゃんが生まれるとなればいろいろ必要なものもあるし、大きいものや重たいものもある。車がなければみんなが困るのに、簡単にわかることなのに、なんで“お姉ちゃん”は車を売って出て行ってしまったのだろう。生まれてくる赤ちゃんは“お姉ちゃん”にとっても甥か姪で、新しい大事な家族なのに。そんなに思いやりがない子だったなんて思わなかった。


いつだって自慢の娘だった。県立のトップ高から地元の国立大学に進学して、役所でも結構なお仕事をしているって近所の人も親戚もみんなが褒めてくれた。時々聞き分けのないこともあったけれど、言い聞かせればちゃんと飲み込んでくれる良い子だった。だから私はいつも言い聞かせた。


「“お姉ちゃん”でしょ」

「“お姉ちゃん”なんだから」

「“お姉ちゃん”のくせに」


そういう度に“お姉ちゃん”はどんどん良い子になって。成績もどんどん上がり、家のこともよく手伝って、妹の面倒もよく見るしっかりした子になっていった。東京の大学に行きたいとか、東京で就職したいとかわがままを言ったこともあったけど、危ないからと反対すれば受け入れてくれた。就職してからはお給料も半分入れてくれたし、家にお金がないときはボーナスを全部出してくれたこともある。


「“お母さん”大丈夫?」

「体調が悪いの? 私がやるから横になっていて」

「今日お給料日だったから、“お母さん”の好きなの買ってきたよ」


いつだって、私のために動いてくれていた。なのに、なんでこんなことになってしまったのだろう。私も年齢のせいか体調が悪いことが多くて、一人じゃとても妊婦や赤ちゃんの世話など手が回らない。お金だってたくさんかかるし、車だって必要なのに。これから家族が増えて、もっともっと幸せになるはずだったのに。


「はあ、重たい…」

自宅から1キロくらい先にあるスーパーからの帰り道。両手に袋を下げ、休み休み歩いて帰る。“お姉ちゃん”がいなくなって、もう冷蔵庫が空になってしまった。いつもなら。車ならすぐなのに、歩きでいくと結構距離がある。本当は牛乳やトイレットペーパーも欲しかったけれど、持って帰れる気がしなくて諦めた。

「“お姉ちゃん”、どうして…」

何度も何度も繰り返した言葉。もう無意識に口から出てくるくらい繰り返した言葉を、私は今日もまた繰り返した。




◇◇◇◇◇


ドアを叩く音がする。

「お嬢様、そろそろお仕度よろしいでしょうか?」

「…お願いするわ」

「失礼いたします」

侍女が入室してきた。


「今、何時くらいかしら?」

「昼前でございます。お休みのところ申し訳ないのですが、そろそろお声をかけたほうがよろしいかと思いまして」

「そうね、ありがとう。お風呂に入りたいわ」

侍女は一礼すると浴室の準備に下がっていった。


昨日、あのまま寝てしまったようだ。室内は大分明るい。いままでそっとしておいてくれて助かった。まあ、放置されていたともいうけれど。今の私にはちょうどいい。

入浴のあと、コルセットのない簡単な室内着に着替える。これまでの私なら、きちんとしない格好は不安に感じたけれど、今の私はもう、自室にいるのにコルセットなんて締めていられない。運ばれた軽食を済ませ、侍女を下がらせる。やっと一人になれた。早速寝台に寝転ぶ。この世界でも、食事の後にすぐ横になると牛になる、というのだろうか?


昨夜、寝台では前世の、あれから先の夢を見ることはできなかった。ただ、“私”が逃げ出すまでの生活で楽しかったことや好きだったものを、断片的に少し見ることができた。ネット小説やオンラインゲーム、デパートのイベントなど主にお金のかからないことを楽しんでいた。“私”も“お母さん”も、何も、誰の顔もぼんやりとしてわからないままだけど。楽しい、嬉しいという気持ちが目覚めた今も胸に残る。


今の私、「公爵家の長女」は苦しい立場だ。王太子の婚約者を降ろされ、自邸に閉じ込められている。味方をしてくれる人は誰も思いつかない。衣食住に不自由がない、それだけ。いずれ修道院に行かされるか、領地の屋敷に閉じ込められるか。良い未来は思い浮かばない。本当はとても辛いはずなのに、何故だかすごく遠く、他人事のように感じる。ローザリンデ、大変ね、と。前世のことを、辛いことも楽しいことも思い出して、気持ちがそちら寄りになってしまっているせいかもしれない。いや、恐怖に負けないように、“私”よりに心を置いて無意識に自分を守っているのかもしれない。


でも、いいのだ。私はここから逃げ出す。着の身着のままとはいかない。準備は必要になる。そのためにじっくり作戦を考える。ここから逃げ出す私にはもう、父に見限られようと、王都の屋敷を追い出されようと関係ない。むしろフロレンツィアには盛大に男爵令嬢を蹴散らしてもらいたい。


婚約解消を言い渡されたときに、何でエミリー様はわざわざ殿下にくっついてきていたのか。しかも私に謝ってみせて。何が「レオさま…」よ。今思えば、その太々しさには驚いてしまう。せいぜいフロレンツィアと潰しあえばいいのだ!


私は自分の足でここを出ていく、そう決めたのだから。悔しさも悲しさも、嬉しさも楽しさも、夢で伝わった“私”の気持ちだけが今の私を支えてくれる。誰にも奪われない私の味方。父は捨てるから、もう怖くない。王太子妃になれなくたって問題ない。家族に上辺だけ祝福されるような虚飾の結婚は必要ない。どこか遠い土地で“私”のように働いて、お給料で楽しいことをすることだってきっとできる。“私”は彼氏がいた気配が今見ている夢の範囲ではないけれど、それはそれ。今後に乞うご期待!だ。


今まで、王宮と自邸の往復ばかりだった。母に連れられていった他所のお茶会がせいぜいか。清廉潔白、身を慎んでお妃教育に励んでいた私はカゴの鳥で。経験値も知人もゼロに近い。でも、今の私には“私”がいる。働いたり、お友達と楽しんだりした経験を自分のものとして感じられる。“私”は私なのだから。溺愛家族もイケメン幼馴染もいないハズレ異世界転生かもしれないけど、“私”の記憶を得られただけでも、私にとってはチートなのだ。


「まあ、“私”の記憶で何かを発明して大儲けとかは難しいかもしれないけど…」

便利な道具を使うだけで、その仕組みは知らない。私でも作れるもの、小学生の時に学習雑誌の付録についていた水車なら仕組みはわかる。この世界水車、あるのかな? あ、化学の実験で味噌を作ったことがある。

「でも、この世界では味噌はさすがに売れなさそう」

具体的な解決策にはならなくても、とりとめもなく考えるだけで楽しい。どうせ自宅謹慎で時間はあるんだし。ゆっくりいろいろ考えよう。


ふとあることを思いついて、でも、実行するのは少し恥ずかしい気持ちになる。でも、これは異世界転生のお約束だし。この部屋には一人きりで誰もいないし。小さい声でそっと試してみるだけならいいんじゃない? 上手くいかなくても、それはそれ。どうせイケメン従者がセットされていない残念異世界転生なんだし。自分で自分に言い訳をしながら、思い切って!小声でつぶやいてみる。

「ステータス、オープン」


懐かしい、パソコンの電源を入れたときのような感覚で。目の前にヒョンッと画面が現れた。

「おー! 神様、ハズレとか残念とかいってごめんなさい。当たり異世界転生だったかも?」

“私”という心の味方だけじゃなく、本当のチートを手に入れたかもしれない。




「懐かしい画面だなあ」

思わず飛び起きたら、管理画面も頭上から正面に移動してきた。便利だけど、どんな仕組みなのか謎すぎる。


子供の頃に手に入れ損なったこのゲーム、“私”の職場で流行った時にはオンライン版になっていて、“私”は逃げ出すと決めたあの時も続けていた。帰宅後や休日に少しずつ、密かに自室で楽しんでいた。


画面に表示されている名前は“ローザリンデ“、今の私の名前だ。ポインタが点滅していて、名前以外は何も表示されていない。初期設定の状態のようだ。

「それにしても初期値の割り当てポイントが多い気がする?」


“私”はマルスという、マッチョな双剣戦士を育てていた。「戻ってくる」が口癖の、未来からきたデデンデンデデンな人型ロボット。恐れ多くも某国某州知事になった筋肉美アクション俳優様がモデルだ。


いくつの時だったか、夏休みにテレビ映画で見た彼の強さに猛烈に憧れた。その時は未来の人型ロボットではなく某国の元兵士役だった。逆恨みで娘を浚われ、その組織に一人乗り込んで戦い、娘を奪還する。ともするとネタ映画扱いされていたけれど、娘のために戦って戦って取り戻すその姿が忘れられなかった。


次の日からは人型ロボットシリーズだった。未来の要人の母となる人を守り、未来の要人本人を守り、その息子を守り、自己犠牲を顧みず戦う。ロボットだからといわれればそれまでなのだけれど、その強さ、迷いのなさに守られる人達は父性を見るような描写もあった。


今覚えば、日常にストレスを感じていたのだろう。わかりやすい強さを求めていた。それをゲームキャラに反映させてしまった。初期のキャラ設定時に与えられるポイントを、普通は攻撃力と防御力、魔力などにバランスを考えて割り当てるだろうに。その時の“私”は強さと素早さに全振りしてしまった。避ければいいから防御なんていらない、防具も必要ない、と。他の人がみれば痛いと思われても仕方ないような尖ったキャラだった。まあ、一人でひっそり楽しんでいたので突っ込んでくれる人もいなかったのだけれども。


もっとポイントがあれば、思い切って課金をしようかと迷っていた記憶に比べて、今の画面に表示されている初期ポイントが格段に多い気がするのだ。数年遊んでレベルアップした時の合計値よりも多いようにすら思える。もしかしてこれもチート、転生特典というやつなのだろうか。


「このポイントを全部強さと素早さに割り振ったら…」

脳裏にマルスが思い浮かぶ。双剣でバッタバッタと敵を切り伏せる戦士。いい! この家を逃げ出した私に追いすがる公爵家の騎士達。射かけられる弓矢を双剣でバッタバッタと切り伏せ…。『さあ、命の惜しくない者からかかってきなさい』不敵に笑う私。いい!


「いやいや、ダメダメ。落ち着け。今の私に、ローザリンデに必要な力は筋肉と素早さじゃない」

私には心の味方しかいないのだ。いかに安全に確実にこの家を、国を逃げ出すか。そこを一番に考えなければいけない。追っ手を引き連れてあちらこちらでバトルしてる場合ではないのだ。ゲームみたいに転職ができるかはわからない。初期設定で決めたっきり変更はできないかもしれない。それでも、女一人で逃げるのに必要な能力をまずは優先しなければ。幸い初期ポイントは多い。残しておいて、おいおい能力を追加したっていいのだ。


私は寝台にあぐらをかいて腕組をし、管理画面を眺める。

「ゲームと違うのは、アバターではなくて自分が戦うことだよね」

この手で剣を持って人と戦うのは無理。危険を避け、見つからないように、トラブルに巻き込まれないように安全に逃げたい。


「筋肉はいらないといっても、貴族令嬢デフォルトでは弱すぎる気がする。逃げるのに筋トレしている暇はないから、まずは『身体能力』「体力」「筋力」にポイントをつけてと」

ポイントを割り当てると基礎ステータスが少し上昇する。

「この世界では怪我や病気怖いし、『防御』と『身体強化』もつけよう。あとは『素早さ』!襲われたり何か飛んできてもね、避ければ当たらないからね」


偏らない程度でも、結局筋肉や素早さにポイントをつけたくなる性なのだ。それから、遠見に遠耳。情報収集は大切。攻撃力としては剣はかっこいいけど接近戦になってしまうから、ここは!魔法で! 逃げる最中に水と火種に困らないように『水魔法』『火魔法』は基本だろう。今の私が攻撃する時は正当防衛の時なので、水魔法を放水車みたいにして敵を先頭不能状態にするのがいいかもしれない。あとは『結界魔法』。多少強化したといっても、貴族令嬢の体なんて脆弱もいいところだからね。それから『乗馬』横乗り、いわゆる貴婦人乗りはできるけれど、それでは逃亡できない。馬にまたがってぱっぱか走るスキルが必要だ。そして最後は『アイテムボックス』の拡張。デフォルトではそんなに入らないから、最初からドンと拡張しておく。


「この部屋を空にして逃げる」

今後の金策としてという意味もある。逃げるにも先立つものが必要だ。でもそれ以上に、私はここに何も残していきたくなかった。両親や兄弟が部屋に残された衣装や小物を見て私を思い出して悲しむ、なんてことはありえない、と思う。この部屋の安くないであろう家具や調度品、衣装や小物まで。全ては公爵家の、ディケンズ公爵の資産。それはわかっている。持ち出せば“盗人”“あさましい”と謗られるかもしれない。それでも。私はここに何一つ残していくことはできない。


こんな本を読んでいたのかとか、青系統が好きだったのかとか、この家の誰にも思われたくない。どうでもいいことまで含めた全てについて、私のカケラを残していきたくない。私の存在が幻だったといわれても不思議ではないくらい、私の全てを消し去っていきたい。だから。

「まあ、物資調達で時間取られるのは面倒なんで、食糧庫からもいろいろ頂戴していきますけどね」

“愛娘の代役”として、妃教育に励み、他家の妬み嫉みを一身に受けながら5年も婚約者の椅子をあたためてきたのだ。それくらいはお給料の範囲といえるだろう。

「調達、していきますか」

そういえば、“私”はゾンビドラマも好きだったのだ。



「この部屋を空にするのは逃げる直前として」

私の支度や食事の世話で毎日何度も侍女が出入りするのだ。少しずつ収納していっている途中で変に怪しまれて何か面倒なことになっても困る。逃亡結構の前日、前夜くらいのギリギリで一気にしまい込むことにする。


逆に自分の部屋以外にあるものは、逃亡までの間にちょっとずつ頂戴していくのがいいかもしれない。あれ? 少ない? 気のせいか? くらいの量を日々貯めこんでいく。主に食料品かな。ゲームでも酒場で料理を買ってアイテムボックスにいれておき、出先で食べることができていたので劣化などは心配ないだろう。腰まで長い髪を三つ編みにしておく。現場に証拠を残さないようにね。絹張りの華奢な靴は飾りも多く歩きにくいので、乗馬用の編み上げブーツに履き替えた。

「では早速! っとそうだ。 ステータスオープン」

『隠密』と『気配察知』にポイントをふった。


時刻は深夜。自室からそっと抜け出す。ぽつりぽつりと壁に明かりが置いてあるけれど、やっぱりくらい。

「ファイアボール」

火魔法でランタンくらいの火の玉を頭上に浮かせ、小さく周囲を照らした。家族が使うエリアの廊下は絨毯が敷いてあるけれど、使用人エリアはない。磨き上げられた乗馬ブーツの踵がいい音を出してしまう。私は立ち止まって、壁際に体を寄せた。


「ステータスオープン」小声で管理画面を呼び出すと、『音声遮断』にポイントをつける。これで走っても誰にも聞こえないだろう。

「私のスキルの構成、暗殺者っぽくなってきたかも」

それもちょっとカッコ良さそうだ。


『こんばんは、殿下。ご無沙汰しておりますわね』

『ローザリンデ?! なぜお前がここに! 婚約は解消したはずだ。どうやって私の私室に入り込んだ?』

『ふふふ、今日はお仕事で参りましたの』

『お前の仕事などない! さっさと出ていけ! 王族の部屋に忍び込むなど、いくら元婚約者とはいえ許されることではない。近衛を呼ぶぞ!』

『近衛の制服を着たお人形さん達なら、ドアの外でぐっすりお休み中ですわ。余程お仕事が大変なのかしら。とってもお疲れのようですわね』

『何を?! グレゴリー! トーマス! エファード! 』

『あら? 側近も侍従の皆さんもどうされたのかしら? こちらもお疲れなのかしらね』

『ローザリンデ! 何をした! 私を恨んで血迷ったか?!』

『いやだ、殿下に恨みなどございませんわ。先ほど申し上げましたでしょう? ただのお仕事です』

『やめろ、ローザリンデ! 私たちは元婚約者じゃないか』

『ええ、長いことお妃教育をさせていただきましたわ。そのお礼に痛い思いはさせませんわよ。恨みなど全くございません。私たちは元婚約者同士ですもの』

ね、と殿下に微笑みかける…。いい!暗殺者もいいなあ。


ふわふわと妄想を飛ばしているうちに厨房についた。中に人がいないことを確認して忍び込む。室内は火が落ちて真っ暗だけど、ファイアボールが浮いているから問題ない。公爵家には爵位を継げない次男三男、行儀見習い令嬢といった貴族家の人間から下働きの使用人、王都屋敷を警備する騎士達と階級の異なる数多くの人が住み込んでいる。焼かれるパンの種類も様々だ。まして数など把握できないだろう。だから遠慮なく頂戴できる。


明日の朝用であろうパンの積まれたいくつもの籠が並んでいる。空の籠を一つ取り、気の向くままにパンをいれていく。いっぱいになったら、次の籠。とりあえず今日は二つでいいか。スープが入った寸胴もあるけれど、さすがに鍋ごともっていったら目立ってしまいそう。こちらはスルーして、奥の扉をあけ食糧庫に入る。階段を下ると室内はひんやりとしている。棚に並んだバター、チーズ、ベーコン。色とりどりの瓶詰ピクルス。ぶら下がっているソーセージ。こちらも2~3ずつ。麻袋に入ったままの小麦粉、塩、砂糖。いろいろな香辛料の瓶。玉ねぎ、ジャガイモ、りんごの入った木箱等々。目につくものを片っ端から収納していった。

「とりあえずこんなものかしら」

部屋に違和感がない程度にいただいて、自室に戻った。


「大漁、大漁」

部屋着に着替えて寝台にあぐらをかく。本日の戦果を確認するためにアイテムボックスのリストを確認していくと。

「圧縮袋? 乾燥野菜でも入ってるのかな?」


袋の口を解いてみると、寝台から床へ雪崩れて山を作るほどの様々な装備やアイテムが零れ落ちた。

「これ、マルスのだ」


レベルアップに合わせて双剣やら籠手やらを買い替えていたけれど、イベントで配布された売れないものや思い出の品もあった。そういうものをまとめてしまっておいた袋だろう。アイテムボックスの容量を節約できる代わりに、一度袋を解凍して取り出さないと使用や装備ができないものだ。

「懐かしい、うわ、ゲーム通貨の金貨も入ってる!」

この世界で通貨として使用できるかはわからないけれど、金としての価値はあるだろう。これで金策、今後の経済問題は大分解消されたのではないだろうか。


「これもチートなのかなあ」

ほくほくと圧縮袋の中身を確認していて、ふと気づく。マルスの最新装備が一式なかった。袋に入っているのはちょっと前の装備ばかりだ。

「きっと、今もマルスは最強装備で戦っているんだ」

なんだか嬉しい気持ちになる。私には手の届かない世界になってしまったけれど。“私”の心をずっと支えてくれた、大好きな双剣戦士のアバターを思い浮かべた。


「あ、素早さの指輪!!」

圧縮袋にアイテムを戻していたら、コロリとシンプルな銀の指輪が転がった。マルスの最新装備では、素早さの靴をゲットしていた。その前に使っていた指輪はこちらの袋にしまっていたようだ。早速自分の指に装備する。どんな仕組みか、ぴったりサイズになっている。

ステータス画面を確認すると、素早さが更に上昇している!

「これでヒラリヒラリと避けまくりよ~」

私は両手を空に突き上げた。





◇◇◇◇◇


「引っ越し先はどこの街がいいかなあ。あったかいのはいいけど、暑いまでいっちゃうとちょっとね。この世界はエアコンもないし」

図書室から持ってきた周辺国の概説書を読み比べていく。国の成り立ち、国民性、特産物、地理や天候について。お妃教育でも使っていた本だけど、目的が変わるととても楽しく読める。

「海の近くならお魚もおいしいかもしれないなあ」

王都は海から離れているので魚は口に入らない。お刺身やお寿司は無理でも、焼き魚とか焼貝とか焼きイカならありそうだ。なくても自分で焼けば食べられるし。


交易の盛んな港町なら就職先もみつかりそう。いくつかピックアップして、次は逃亡ルートを考える。逃げやすさも大切だ。乗合馬車でいくか、馬を一頭頂戴していくか。

「愛馬と逃亡の旅もいいかも」

まあ、愛馬はいないんですけど。


詳しい事情は知らされなくても、朝晩家族の食卓についていた「公爵家の長女」が自室に籠められている様子なのは使用人たちにもわかる。腫物に触るような侍女たちのピリピリした空気の中。夜な夜な食糧庫やリネン庫、倉庫などで物資を調達しながら、昼はこっそり乗馬の練習をしたり、今後の計画を練ったり。私にとっては平穏で静かな、そしてとても楽しい時間が流れた。


この家で生まれてから今まで、「今」が一番楽しい。人に嫌われないようにとか、評価されたいとか。この家から逃げ出すと決めたことで、そういう気持ちが切り取られたようになくなって。自分のこれからのことを自分で考えて、その準備をすすめていく。

「“私”が逃げると決めたときも、こんな風に過ごしたのかな」

相変わらず、あの時より先の夢はみないけれど。そんな風に“私”とのつながりを感じていた。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」

その平穏を乱す嵐がやってきた。執事の声だ。これまで、父の呼び出しは怖いばかりだった。でも、ここを出ていくと決めた私にとって何を言われようと痛くもかゆくもない。婚約解消関係の進捗状況を偵察できると思えば願ったり叶ったりだ。


執事のあとをついて父の執務室へと向かう。婚約解消を告げられたあの日から一週間。そろそろフロレンツィアとの入れ替え準備が整った頃ということだろう別に報告してなくていいんだけど。


「失礼いたします」

執事が開けたドアをくぐる。あの日と同じように、父は執務机で仕事をしている。私が前に立っても、手を止める様子はない。私はもう、俯いたりしない。正面から父を見下ろす。


「お前の婚約破棄の手続きが整った。その書類にサインをしなさい」

「は?」

「婚約破棄が整ったといったのだ。さっさとサインしろ」

父が執事に向かって目をやると、書見台に書類とペン、インクがセットしてある。


「婚約は解消されたのではなかったのですか?」

「殿下は将来王になるのだ。おかしな瑕疵をつけるわけにはいかない」

「それがなんで婚約解消なんて話になるのですか?」

声が少し震えてしまう。怒りなのか、悲しみなのかわからない。

父はようやく手を止めて顔をあげた。


「教会が認めた正当な婚約者がいるのに、男爵令嬢にのぼせあがった結果の婚約解消などと記録に残っては困るのだ。お前がたまたま王宮で話している二人を見て逆上し、男爵令嬢に手をあげたことにした。公式記録上はお前の瑕疵だ。我が家はお前に罰を与え、フロレンツィアと差し替える。持参金をたっぷりつけてな。王家は受け入れることで寛容さを示しつつ懐をあたためる。男爵令嬢は王宮で怪我の療養をする。婚約者を差し替える理由にもなるし、殿下の醜聞を被ることで我が家は王家に恩を売るいい機会だ。結婚前にせいぜい男爵令嬢と遊ばせてやれば殿下は今後我が家に頭は上がらなくなる。末永く、即位後もな」


楽しそうに笑う父から、私は目が離せなかった。

「それで、それが私に何の得があるのですか?」

「お前の得? そんなものは必要ない。我が家の得になるということだ」


頭がカッ熱くなる。ダメだ。飲み込め。ぎゅっと口を強く結ぶ。手が震える。ダメだ。面倒になる前にサインをしてこの部屋を出るんだ。私はどうせ逃げる。何を言われてもかまわないではないか。でも……。


「私は、私は何もしていません。何も悪いことはしていません。なぜ私に瑕疵がつかなければいけないのですか? 王妃の器には足りなかったかもしれなけど、私はずっと、ずっと努力してきました」

「努力がなんだ? お前には一度婚約者の椅子を預けた。お前に実力があれば何もフロレンツィアと差し替える必要はなかったのだ。結果はどうだ? お前は殿下を手中にできず、男爵令嬢に侮られ、貴族社会で謗りをうけた。王妃の器ではないと、今自分でもいっただろう。実力で役に立てなかったのだ。その身に泥を被って借りを返せ」

父は葉巻を切って火をつけた。


「どうして、私が? 私は何なのですか? なんで…」

「家の利益に貢献するのが貴族の娘の役割だ。この家に、公爵令嬢として生まれてきたから今のお前の生活がある。その身にまとう衣装も、体を作った食事も、身に着けた知識も全て公爵家の糧から得たものだ。公爵家の利益になることをするのは当たり前だろう」

頭が真っ白になって、何を言い返せばいいのかわからない。

「お前は2~3年領地でおとなしくしておけ。フロレンツィアが嫁いで少ししたら恩赦という形でどこかの寄子に嫁にだしてやる。公爵令嬢としては格が落ちるが、お前にはそのくらいがちょうどいいだろう」


私は書見台に駆け寄ると、書類を破った。

「何をしている?」

父は声を荒げるでもなく、冷ややかな目で私を見ている。

「承知できません……」

「面倒をかけるな。いう通りにしろ」

「承知できません!」


父は一つため息をついて、執事に目をやった

「これを地下牢へ」

「旦那様?!」

「身の程をわきまえさせる。水差しはいれてもいいが食事は抜きだ」

「では、貴賓牢へ」

「一般牢でいい」

「…かしこまりました」


お嬢様、と執事に促される。私は父に退室の挨拶もせず、執事のあとに続いた。




地下への入り口で執事から警備の騎士に引き渡された。これまで入ったことのない扉の向こうへ進み、また一つ扉をくぐるとむき出しの石壁に変わった。階段を下っていくと空気がひんやりとしていく。高く、明り取りの窓や壁際にいくつかの篝火もあるけれど薄暗い。

「ではお嬢様、こちらにお入りください」

いくつか並ぶ扉の一つが開かれた。ちょうど目の高さ当たり、頭程の大きさが切り抜かれている。


「こちらで靴をお預かりします」

私はその場で靴を脱ぎ、逆らうことなく扉をくぐった。背中で扉が閉まり、錠の落ちる音がする。寝台の上で靴を脱いだ時は解放感があったけれど、冷たい石床の薄暗い牢で裸足になるのは心細かった。心を折りにきているとわかっていても、不安が増す。扉に背中をつけたまま、その場にしゃがみこんだ。嗚咽が漏れる。両手で顔を覆う。泣きたくない。あんな奴に傷つけられるなんて。捨てると思っていたのに、傷ついてしまうなんて。


「音声遮断、隠密」

囁き程の声でも魔法が発動される。よかった。誰にも見られたくない。泣いてる声など聴かせてたまるものか。悔しい。悔しい。傷ついてしまうほど、まだ父に何かを求めていたのか。ぼたぼたと熱い涙がこぼれていく。


ずっと褒められたかった。認められたかった。一言「よくやった」といってくれたら、それでよかったのに。それで私は頑張れたのに。婚約者の交代だって、例えば「頼む」といってくれたら、「お前に瑕疵はないが、止むを得ないことだ」とかいってくれたら、私はきっと喜んで交代したのに。本当はどう思っていても、口先だけでも優しくそういってくれたら、私はきっと許してしまったのに。


穏便にすませろという“私”では止められない程に、父に認められたかった私が壊れてしまった。嘘でも優しい言葉を貰えなかったかわいそうな「公爵家の長女」。壊れて霧散した。だから。もう、ここには何もない。


急に自分でも気味が悪くなるくらいに笑いの衝動がこみあげる。我慢することなくひとしきり笑って、それからアイテムボックスからタオルと洗面器を取り出した。お情けの水差しなんて必要ない。自らの魔法で水を溜め、顔を洗う。柔らかいタオルの感触が肌に優しい。


立ち上がって、どれくらい泣いていたのか、日の光は失われている。月明りすらないようだ。扉ののぞき窓からの光はないに等しい。遠耳で外の様子を伺う。屋内も、屋外も、近くに人の気配はない。靴下裸足の足に石床が冷たいけれど、どうということもない。高い天井付近にある明り取りの窓を見上げる。私はローザリンデ。公爵家の長女だった。

「ファイアボール」

篝火ほどの火の玉を窓のそばに浮かばせる。

「散歩にはいい夜ね」




◇◇◇◇◇


「おい、きいたかよ! 上のお嬢様がいなくなっちまったらしいぞ」

「あー、何でもお城で悪さをして領地に押し込められるってえ話だな。もう領地に立ったのかい?」

「男爵令嬢をひっぱたいたんだって? 王太子殿下もなあ、お嬢様という婚約者がいながら他の女をお城に連れ込むなんて悪い男だよ」

「は? 何の話だよ?」

「いや、だから上のお嬢様の話だろ?」

「町場じゃあ、家に女を連れ込んだりしたら、男のほうが痛い目を見るもんだがな」

「ちげえねえ」

「もしもうちなら、かかあに家から蹴りだされるな」

大きな笑い声が響く。庭師たちが立ち話に興じているのを聞きながら、俺は馬の世話をしていた。


「俺が聞いた話じゃあ、上のお嬢様は旦那様のお怒りに触れて地下牢に入れられたって」

「怖や怖や。浮気をされたほうなのに、尻軽女に一発食らわせてやった実の娘を牢屋に放り込むなんてお貴族様のなさることはわからねえなあ」

「相手は男爵令嬢だろ? 公爵令嬢のお嬢様が殴ったくらいで、一体何の罪になるんだよ?」

「王様のお住まいになるお城でな、暴力沙汰を起こした罪ってことらしい」

「ああ、どっかの東の国じゃあ、剣を抜こうと柄を持ってほんの人差し指くらい刃が見えただけでお家が取り潰されたって話だ。公爵家はお嬢様一人の処分ですんで、王家は寛大だって上級使用人どもが話していたぞ」

「息子の不貞は棚に上げて、寛大もクソもあるものかよ」

「それがお貴族様流ってことよ」

「おい、めったなことをいうもんじゃないぞ。 お偉い方のお耳に入ればお前だって牢屋行かもしれん」

「しかし、いつの間に出立なされたのか。お別れの挨拶なんぞできる身分じゃないが、せめてお好きな花束くらいは馬車に乗せてさしあげたかった」

「最近のお嬢様は前より元気そうに見えたくらいだったけど、まさかこんなことになるなんてなあ」



「おい、お前たち! こんなところで何をしている? おかしな話をしていないでさっさと仕事に戻れ」

「これは騎士様。それがですね、困ったことになぜか作業小屋がなくなっちまいまして」

「作業小屋がない? なぜだ?」

「それがわからんのです。昨日までそこにあったものが今朝来たらなくなっておりまして。わしらもどうしたらよいものかと相談しているところでした」

騎士様は何かご存じでしょうか? と逆に尋ねる。

「作業小屋のことなど知ったことか。さっさと執事にでも相談にいけ。だがいいか、あちこちで余計なことを話すなよ」

騎士様が庭師たちに向けて手を払った。庭師たちはお屋敷に向かって駆け出していく。騎士様はずかずかと厩舎に歩いてきた。


「おい、厩番。先ほど頼んだことは終わったか」

「へえ、騎士様。お調べいたしましたが、こちらには何もございやせん。馬たちのそれぞれの馬房に置いてありましたハミと頭絡はそのままですが、手綱も鞍も、あぶみも何一つ残っちゃおりやせん」

「それでは馬が出せぬではないか!」

「へえ、裸馬でよければご用意できますが」

「王都でそんなもの乗れるか! いいか、もう一度よく探せ。あとでまた来る。このことは誰にも話すな。いいな!」

騎士様は速足でお屋敷に戻っていった。俺はフォークを置いて、馬房の奥に積まれた箱からりんごを一つ取り出した。


「タビーがいなくなっちまって、お前も寂しくなるなあ」

馬柵棒越しに栗毛の馬に差し出すと、嬉しそうにりんごを食んでいる。


上のお嬢様、ローザリンデ様は真面目な方だった。お屋敷の中に入ることがない俺たちでもそれはわかった。ご令嬢なのに、幼い頃から剣や乗馬の訓練を欠かさない方だった。貴族じゃそれが普通なのかと思ったが、下のお嬢様は全くやらなかった。

息を切らせて座り込んだローザリンデ様に、「そんなことでは次期さまのようになれませんよ」と教師が言い聞かせているのをよく目にした。


次期さまは貴族社会でも文武両道で優秀な跡取息子と名高いらしい。だがローザリンデ様はご令嬢だ。軽く小さな体、細腕で次期さまと同じことができるはずもない。いつしか剣や乗馬からは遠ざかっていた。それが最近になって、急にまた乗馬がしたいと厩に現れた。小さな馬に横乗り用の女鞍をつけようとすると、止められた。なるべく大きな体力のある馬に普通の鞍で乗りたい、と。


「お嬢様、申し訳ねえんですがそういう馬は騎士様方の仕事で出払っておりまして」

「あの馬は? 大きくて立派な馬じゃない?」

「あちらでよろしいんで?」

「問題ないわ。それとも怪我でもしているのかしら?」

「とんでもねえ、あいつは馬体も大きくスタミナもある。足も強い。それでいて性格は温厚でね。この厩舎でも指折りでさあ」

「いいわね! あの子で準備をお願いするわ」

でも、何でそんないい子が騎士の仕事につかないの?、とお嬢様が不思議そうな顔をする。


「あいつは、あの通りの白黒のブチ模様でね。牛みたいだって騎士様方からは嫌がられるんでえ。馬鎧をかけても隠れない大きさだから騎士様のお役目につくことはねえんです。“牛で王都を走れるか”ってねえ」

「まあ、毛の模様で馬を選ぶなんて。それにあの子はこの厩舎で指折りなんでしょ?」

「普段は荷馬車なんかを引いたりしてますがね、膝下の太さはあいつが一番ですよ。いざというときはご領地への伝令の馬にだって選ばれるはずだと俺は思ってます」

「速さとスタミナが抜群ということね! 頼もしいわ。なんて名前なの?」

「へえ、タビーでこざいます」

「タビー、よろしくね」

お嬢様が差し出した角砂糖を、タビーは鼻を鳴らして喜んだ。


それから昼間のひととき、厩舎近くのお屋敷からは見えない馬場にお嬢様がタビーに乗りに来られるようになった。幼い頃は女鞍でしか練習したことがなかったはずなのに、初日から問題なくタビーを乗りこなしている。お城で何かあって、ローザリンデ様がお屋敷に籠められているらしいということは使用人の間でも噂になっていた。馬を歩かせるお嬢様の楽しそうな顔が少しでも長く続けばいいと思っていた。


「それがなあ、まさかタビーごといなくなっちまうなんてな」

栗毛の馬がもう一つりんごを強請るように鼻を鳴らす。

今朝厩に来たら、タビーと馬具が消えてなくなっていた。代わりに人参とりんごの箱が積み上げてあった。そして角砂糖の箱が一つ。馬の好物ばかりだ。


ローザリンデ様が領地に帰ったはすがない。厩舎にはタビー以外、全ての馬が揃っている。そして馬具は一つもない。公爵様も騎士様たちも、馬具が整うまではこの家から出られない。お貴族様が王都を歩いて移動するなんて、裸で町を歩くようなものだからだ。


「クククッ」

ざまあみろ。俺は心のうちでうそぶく。公爵家のどの馬よりも強くて速いのに、いつも荷馬車を引いていたタビー。今から馬具を準備したって、誰もあの馬に追いつけやしない。騎士どもめ、よくも牛呼ばわりしやがって。公爵様め、お嬢様は全然悪くない。だから俺は誰にも言わない。牛がいつの間にかいなくなっていたところで、厩番の俺には関係ない。


「お嬢様をしっかりお連れするんだぞ、タビー」

白い馬体に黒いブチ。牛のようだといわれた馬は、美しいご令嬢を乗せて、今頃どこかの街道を風を切って走っているだろう。





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― 新着の感想 ―
「お姉ちゃん」とローザリンデが無事に逃げられて良かった! どちらの家族も最低だな……と同時に、近くで家族よりは薄く、でも主人公の本音の顔と関わった第三者が密かに出奔を応援しているのが、リアルに感じられ…
これから長いのを読ませていただきます♪
面白かったのに消化不良感が凄まじい
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