Cafe Shelly 大切な人
朝起きると、私はすぐにお茶を淹れる。湯のみは三つ。
一つは私のもの。そしてもう一つは死んだ私の夫の仏壇に供えるもの。
「あなた、今日も一日よろしくお願いします」
夫は常に私を見守ってくれている。そう思って、仏壇に手を合わせる。
そして三つ目は…
「お義母さん、おはようございます」
「美律子さん、おはようございます」
同居をしている父のお母さん。血は繋がっていないけれど、絆は実の親子以上だと私は思っている。
夫は母子家庭だった。結婚してすぐにお義母さんと同居。私も夫も四十歳手前で結婚という、晩婚だったので子どもはなかなかできなかった。
世の中の姑は、ただでさえ年齢がいったお嫁さんが来るといじめるようなのだが。お義母さんはそんなことはなかった。むしろ私に優しかった。
実は私は両親がいない。いや、正確に言うといるはずなのだが。私がまだ小学生の頃、父は浮気で家を出ていき、そのせいで母は育児放棄をして好きなように生きて。そうして私は施設に預けられた。
だから、実の父と母が今、どこでどのような暮らしをしているのかはさっぱりわからない。
けれど、そんな私を優しく迎え入れてくれたのがお義母さんだった。
「美津子さん、今夜も遅くなるの?」
「お義母さん、すいません。今の仕事がどうしても終わらなくて」
私はとある研究所で、薬品研究の仕事についていた。といっても、学歴もないので研究の事務の仕事なのだが。年に何度か、どうしても仕事が遅くなる時期がある。
「じゃぁ、今夜も私が晩ごはんを作っておきますね」
「ありがとうございます」
本当に申し訳ない。七十を過ぎたお義母さんに家事全般をまかせるのは、嫁としては情けない限り。
けれどお義母さんはグチ一つこぼさず、夫と私のために家のことをやってくれる。本当にありがたい。
だからこそ、私もお義母さんのためにいろいろと尽くしてあげなきゃと思っている。実の母以上に、親孝行をしたい。心からそう思っていた。
そんなある日のこと。夫からメールが入った。
「今夜はボクも遅くなりそう」
夫の仕事は営業マン。課長という役職上、接待などで遅くなってしまう時もある。しかし、夫は午前様になるようなことはしない。会社の仕事よりもお義母さんのことを一番に思っている。だから、転勤も断り出世も遅いほうだ。
「わかった、気をつけてね」
メールでそう返信。まさか、これが夫と最後の会話になるとは。
その日の夜、十時を回った頃に見知らぬ番号から電話がかかってきた。
「警察のものですが、一条聡さまの奥様でしょうか?」
「はい、そうですが」
「誠に申し上げにくいのですが…」
その後に続く言葉を聞いた後、私は記憶が飛んでいた。頭のなかが真っ白になった。そして、何をどう行動したのかまったく覚えていない。
次に私が覚えているのは、白い布を顔に被せられた夫の姿。そして泣き伏せるお義母さん。
夫は帰宅途中、飲酒運転の車にはねられた。その車も電柱に激突して、運転手は死亡。私の悲しみと怒りの矛先をどこに向ければよいのか。あのときはとても頭が混乱して、ひどいうつ状態になっていた。
研究所も忙しい時期なのに、私に一ヶ月の休みをくれた。亡くなった夫の身の回りの整理、そして事故に対しての処理に時間がかかった。
加害者側への被害請求は弁護士を通じて行うことになったので、そこは完全にまかせることになった。しかし、未だにそこは難航しているらしい。
初七日も過ぎた頃、私は未だに心が回復することもなくボーっとした日々を過ごしていた。何もやる気が起こらない。
そんなときに私を支えてくれたもの、それがお義母さんだった。
「美律子さん、気晴らしに海にでも行こうか」
「美律子さん、今度美味しいものでも食べに行こう」
「美律子さん、一緒にエステ行かない」
まるで友達のように私に接してくれるお義母さん。年齢はすでに七十を超えているというのに、パワフルに動きまわる。
最初はそんな気持ちになれないと断っていたが、一度一緒に行動すると楽しさが芽生えてきた。なにより、母親のぬくもりと歳の離れた友人の気遣いの二つが感じられて。私も次第にお義母さんに心を開き始めた。
「美律子さん、今日からお仕事だね。私も今日から再スタートをするから。お互いに楽しみましょうね」
「はい、お義母さん」
笑顔で私を見送ってくれるお義母さん。今ではお義母さんのために、一生懸命働かなきゃという気持ちが強くなっている。
こうやって私は日常を取り戻した。いや、取り戻したのではない、新しい私の人生がスタートした、そんな気持ちだ。
血の繋がらない二人が共同生活を送る。けれど、そこには親子以上の絆を感じる。夫が巡りあわせてくれた、大切な人。それがお義母さん。
そんなある日、お義母さんがすごいにこにこ顔で私にある報告をしてくれた。その笑顔は今までにないものだった。
「あのねあのね、美律子さん、すごいコーヒーに出会ったの。そしてその喫茶店がすっごくいいのよ」
「お義母さんがそうやって言うの、珍しいよね。で、どんなにすごいの?」
「それがね、私の未来が見えちゃうの」
未来が見える? 占いかなにかやっているのかな。そう思ったけれど、ちょっと違うみたい。
「コーヒーを飲んだら、私がこれからどうしたいのかがわかったの。そして、そこの喫茶店のマスターと店員さんがすごくよくて。私の話をどんどんふくらませてくれるの。この二人と話をしてたら、すごくワクワクしちゃうのよ。あぁ、また行きたいなぁ」
お義母さんの興奮は止まるところがない。肝心のお義母さんの未来については話が出てこず、その喫茶店とコーヒーの話ばかりしてくれる。
「で、なんていう喫茶店?」
「えっと…カフェ…なんとか」
うぅん、お義母さんって横文字弱いから。そもそもお店の名前を覚えようという気持ちがないんだろうな。お義母さんはテレビを見ていても、横文字の商品名とか人の名前とか、うろ覚えだから。そのおかげで、スーパーで間違えた商品名を店員さんに伝えて恥をかいたこともあるし。
まぁ、そこがお義母さんらしいんだけどね。
「ねぇ、今度一緒に行きましょうよ。あぁ、またあのコーヒーを飲むのが楽しみだわ」
お義母さんがそこまで言うくらいだから。今度の土曜日とか一緒に出かけるのもいいかもしれないな。
そのことをお義母さんに約束したら、またまた目を輝かせる。まるで子どもみたい。こういう可愛いところがあるから、お義母さんから離れることができない。
けれど、その約束を果たすことができなくなった。
「えっ、緊急実験ですか?」
「そうなんだよ。なんでも国の方から急いでやってほしいという案件が降ってきて。申し訳ないけれど休日出勤してくれないかな?」
「は、はぁ…」
そういう仕事なのだから仕方ない。自分一人なら問題ないのだろうが。お義母さんとの約束が頭をよぎる。
けれど、まさかお義母さんと喫茶店に行く約束をしているから休日出勤できません、なんて言えるわけがない。
家に帰ってお義母さんに事情を話す。
「え〜、そうなの…うぅん、仕方ないよなぁ…」
口ではそう言っているものの、明らかに残念がっている。こういう姿を見るのは心苦しい。
「今度のお休みの日には必ず行きますから。それまでガマンしてくださいね」
「はぁい」
その姿、まるで子どもみたい。
私もその喫茶店に行くのは楽しみ。お義母さんと出かけるのも楽しみ。ちょっとワクワクしちゃう。
そんなある日、一本の電話が。
「弁護士の金平です」
夫の事故の件でいろいろとお世話になっている弁護士の先生だ。被害請求の件でお願いをしていたのだが、ずっと連絡がなかったのですっかり忘れていた。
「ようやく示談金が決まりまして。一度お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「えぇ。あ、でも今仕事で昼間の時間がとれなくて。夜も遅くなるし…」
「うぅん、困りましたね。では会社のお昼休みとかは?」
「まぁ、それならなんとかなるかも。でも、お義母さんは同席できませんが」
「お義母さんには、別に訪問させていただいてご説明するということで。示談の同意書が必要となりますので、奥様に確認をしていただきたいので」
「わかりました」
そっか、示談金が決まったのか。このとき、忘れかけていた夫のことを思い出した。ちょっとショックが襲ってくる。あの時のことを思い出すと、体が硬直する。
「一条さん、なんだか顔色がすぐれないけど。どうしたの?」
私がサポートしている研究員の堂園さんが心配をして声をかけてくれた。堂園さん、年下だけど頼りになる人。
「あ、えぇ、ちょっと嫌なことを思い出して…」
「旦那さんの事故のこと?」
「はい。さっき弁護士から示談金の額が決まったって連絡があって、それでつい思い出しちゃって」
「そうなんだ。つらかったね」
堂園さん、本当に優しい人。
「それで、今日のお昼に弁護士がその話をしにくるって」
「一人で大丈夫? 私、ついてあげようか?」
「いえ、大丈夫です」
そう言いながらも、またあのショックが思い出されるのも不安。ここで私は思わずこんな言葉を吐いてしまった。
「あの…ご迷惑でなければそばに居ていただけませんか?」
「うん、一条さん見てるとちょっと不安だから。ついてあげるよ」
こうして今日のお昼は研究員の堂園さんが同席してくれることになった。とても心強い。
そしてお昼休み。早速弁護士との話になった。
「あれ、こちらの方は?」
「私がサポートしている研究所の堂園さんです。私一人じゃ不安だったので、そばに居てくれることになって」
「うぅん…こういった話は、身内以外の方に聞かれるのもどうかとは思いますが」
「それなら心配ありません。堂園さんは信頼できる方ですから」
「そうですか、わかりました。ではお話を進めさせていただきます」
堂園さん同席のもと、弁護士から示談金の話が始まった。
「こちらが金額になります」
「えっ、いち、じゅう、ひゃく…」
あまりにも0が多くて数えてしまった。
「は、八千万円!」
この額にはさすがに驚いた。さらに弁護士が追い打ちをかけるように数字を追加してきた。
「これに旦那さんの生命保険に災害事故特約がつけられていましたので、五千万円がプラスされる計算になります」
「ってことは、い、一億三千万円!」
この数字にはさすがに驚いた。ちょっと呆然。だが、私よりも堂園さんの方がなぜか興奮している。
「その金額、一度に下りてくるんですか?」
「希望であればそうできます」
「税金はかからないんですよね?」
「はい、示談金や生命保険にはかかりません」
「一条さん、すごいじゃない。あなた、一気にお金持ちになったわね!」
お金持ち、そんな自覚はない。むしろ、私には多すぎる金額。
「特に異議申し立てがなければ、こちらに印鑑をお願いします。本日は実印をお持ちになりましたか?」
「あ、え、えぇ」
私はあわてて印鑑を取り出す。そして押そうとした時に堂園さんから待ったがかかった。
「一条さんの旦那さん、今までの年収はいくらだったの?」
「えっ、えっと七百万円くらい…」
勢いに飲まれて、ついしゃべってしまった。
「確か、もうすぐ部長になれるかもって言ってたわよね。だったら年収も本当ならもっと上がるはず。それを考えたら、示談金安くない? 一億円くらいもらってもいいはずよ」
堂園さん、勝手に話をすすめる。そして弁護士に対してこんなことを言い始めた。
「これ、もう一度交渉してください。最低でも一億円。このくらいはもらってもいいはずよ」
「いえ、こちらもちゃんと調査をして決めた額ですし。これでもかなり引き上げたほうなんです」
「だったら調査が足りないわ。部長になる話、知ってました?」
「いえ、そこまでは。今の年収で計算しますから…」
「はい、もう一度」
堂園さん、そう言うと私の手元にあった承諾書を弁護士に突き返してしまった。弁護士は困った顔。私はその額で十分なのに。けれど、堂園さんには逆らえない。年下ではあるけれど、私の上司になる人だから。
結局、弁護士はしぶしぶ書類をカバンに戻し、一旦帰ることに。
「ではまたご連絡いたしますので。失礼します」
「示談金の交渉、よろしくね」
これでは誰の弁護士なのかわからない。わからないのは堂園さんの本意。
「一条さん、これでうまくいけば二千万円アップよ。うふふ」
このとき、堂園さんのことが怖くなった。
このあと弁護士はお義母さんにも説明をして、お義母さんからは同意をもらったらしいが。私もあの額で同意したいのだが、堂園さんの目線が怖くて印鑑を押すことができない。
お義母さんにもこのことを話す。すると、堂園さんとは違う優しい目で私にこう言ってくれる。
「その堂園さんって人、きっとあなたが今まで苦労をしている姿を知っているから、そうおっしゃってくれているのよ」
そうなのかな。そういうふうに見ると、堂園さんは優しい人に思える。
それよりも、お義母さんはまた興奮して喫茶店のことを話し始めた。
「今日ね、またあの喫茶店に行ったの。実は弁護士さんにもそこに来てもらって。そうしたら弁護士さんも魔法のコーヒーには驚いていたわ。おかげで、モヤモヤしていたのがすっきりしたって」
モヤモヤがすっきり? その言葉に私は反応した。今堂園さんに抱いているモヤモヤ感、これがすっきりするのであれば。休みをとってでもその喫茶店に行ってみたい。そんな衝動に駆られた。
その願いが通じたのか、緊急の仕事は思いの外早く終了。
「お義母さん、あさっての木曜日休みが取れましたよ」
「えっ、ホント! じゃぁ一緒に喫茶店に行けるのね」
うれしそうに笑うお義母さん。この笑顔は私にとって、かけがえのないもの。私もお義母さんと一緒に喫茶店に行けるのが楽しみ。
けれど、気になるのが堂園さん。あれから私にしょっちゅうこう言ってくる。
「弁護士からの連絡はまだなの? また同席させてもらうわね」
さも自分のおかげで金額が上がると言わんばかりに、弁護士との交渉をほのめかす。私にはそんなつもりはないのに。
そして迎えた木曜日。
「あなた、いつもありがとう」
今朝も仏壇にお茶を供え、夫に感謝の言葉を伝える。
「あのね、あの喫茶店ってモーニングやっているのよ。今朝はそこで食べない?」
お義母さん、よほど待ちきれないみたい。まったく、子どもみたいなんだから。
そうして私たちは朝からおでかけとなった。お義母さんはルンルン気分。私もなんだかすごくうれしい。
「ここなの」
お義母さんに案内されたのは、街の中心部に近いところにある、細い路地。車一台がとおるくらいの道幅だけれど、パステル色のタイルが通りの明るさを演出してくれる。なんだかワクワクしてきた。
「ここ、ここ、ここなのよ」
興奮して指差すお義母さん。そこには黒板の看板がある。
「Cafe Shelly…カフェ・シェリーっていうんだ。えっ、これって…」
その看板に書かれてある言葉は、今の私にとってはとても意味深いものに感じた。
『あなたの大切な人と一緒に、大切な時間を過ごすと、大切なものが見えてきます』
まさに今そのもののことじゃないかな。お義母さんは私の大切な人。そのお義母さんと今から大切な時間を過ごす。これからきっと大切なものが見えてくるに違いない。
お義母さんは軽やかにビルの二階へと上がっていく。私もそれを追いかける。
カラン・コロン・カラン
軽やかなカウベルの音。それとともに聞こえてくる、女性の「いらっしゃいませ」の声。
「あ、一条さん。今日は早いですね」
「はい、やっと娘を連れてくることができました」
娘、そう呼ばれてすごくうれしい。嫁とは言わないんだ。私のことを本当に娘と思ってくれているお義母さんの気持ちが伝わってくる。
「前々から、娘さんをここに連れて来たいってしきりに言っていましたよね。ありがとうございます。はじめまして、私マイっていいます。こちらがこのお店のマスターです」
紹介された方を見ると、カウンターで私と同じ年令くらいの渋い男性が微笑んでいる。なんかすごく感じのいい喫茶店だな。
「ご注文はシェリー・ブレンドでよろしいでしょうか?」
「はい、これを娘と一緒に飲むのを楽しみにしていたんです。あ、でも今朝は朝ごはんがまだなのでモーニングもお願いします」
「かしこまりました。マスター、モーニング二つおねがいします」
あらためてお店を見回す。白と茶色でシンプルなコントラスト。余計なものは省いている。けれどなんんとなく落ち着く。十人も入れば満席になる、そんな小さな喫茶店だけれど、狭苦しさはない。
「そういえばお義母さん、ここのコーヒーを飲むと未来が見えるとか言っていましたけど」
「そうそう、そうなのよ。飲んだら望んだ未来が見える、そんな魔法のコーヒーなの。いつもすごくワクワクさせてくれるのよ」
また興奮が始まった。普段は落ち着いているお義母さんが言うくらいだから、よほどのものなんだな。
望んだ未来、か。私は今何を望んでいるんだろう。夫が死んで、お義母さんと二人暮らしになって。特にこれといった趣味もないし。今を生きるので一生懸命な私。贅沢をしたいわけでもないし。
店内には軽快なジャズが流れている。お義母さんは音楽を聴く方ではないのだが、このジャズに合わせて体が揺れている。このお店の雰囲気がそうさせているのだろう。
私もしばらく音楽に耳を澄ます。そういえば、夫もあまり音楽を聴く人じゃなかったな。私もそんな余裕のある境遇ではなかったから、こんなふうに音楽にひたるなんて余裕がなかった。
そう考えたら、今はとても贅沢な時間を過ごさせてもらっているんだ。私の心に余裕ができてきたってことなのかな。
そんなことを考えていたら、モーニングが運ばれてきた。
「お待たせしました。モーニングのセットになります。シェリー・ブレンドはゆっくりとお楽しみいただきたいので、まずは野菜ジュースをおつけしました。食べ終わってからコーヒーをお淹れしますね」
へぇ、なんかめずらしいな。逆を言えば、よほどそのシェリー・ブレンドには大きな意味があるんだろう。
出されたモーニングも、一見すると普通のホットサンドなんだけれど味わいがあっておいしい。こうやって外で朝ごはんを食べるなんて、おそらく夫との新婚旅行以来じゃないかな。
食べながら、お義母さんはこの喫茶店で体験したことを話してくれた。
その話は家でも聞いた内容。お友達に連れてこられて、半信半疑でシェリー・ブレンドを飲んだこと。そこで自分の願望に気づいたこと。そして、マスターやマイさんとの会話のこと。
けれど、肝心のお義母さんの願望については話してくれない。これはわざとじらしているとしか思えない。
「お待たせしました。シェリー・ブレンドです」
モーニングを食べ終わったちょうどのタイミングで、お待ちかねのシェリー・ブレンドがやってきた。
「どんな味がするのかな…」
私は期待を込めて、コーヒーカップを手にする。いつも研究所で飲んでいるコーヒーとは違う、独特の香りが気分を盛り立ててくれる。
カップに口をつけ、一口すする。うん、なんか深い味わいがする。コーヒーの苦味、それに加えてなんとも言えない甘さというかうま味というか。二つがうまくからみ合って、お互いの持ち味を高めている。
ここで頭にひらめいたこと。苦味はお義母さん。もう一つの表現できない味が私。この二つが、お互いにいいところを引き出し合いながら一つのものをつくっていく。一つのものとは、二人の生活のこと。
頭のなかには、二人で笑って暮らしている、そんな映像が思い浮かんだ。
「お味はいかがでしたか?」
店員さんの声で我に返った。あれ、今頭のなかで浮かんだものって、一体なんだったの?
「あ、え、えぇ、とてもおいしかったです。でも、なんだか不思議な感覚でした。苦さとうまさがからみ合って、お互いの持ち味を高める。そんな光景が浮かんできました」
「苦さとうまさ、二つの味ですか。それって何だと思いましたか?」
「はい。苦さがお義母さん、うまさが私。二人がいいところを引き出し合いながら一つのもの、二人で笑って暮らしている、そんな光景が浮かんできました」
「あはは、美律子さんもそうだったんだ」
お義母さんが笑っている。美津子さんもってどういうこと?
「マイさん、やっぱり美津子さんは私と同じ。うん、ここに連れて来てよかった」
「一条さん、あ、二人とも一条さんか。じゃぁおかあさんとお呼びしましょう。おかあさんがこの前思い浮かんだのも、同じようなものでしたね」
カウンターからマスターが私たちの会話に参加してきた。
「同じようなものって、お義母さんはどんなものを感じたんですか?」
「うふふ、そろそろ白状しなきゃいけないかな。私もね、シェリー・ブレンドを飲んだ時に、美津子さんと同じこと思ったの」
「私と同じこと?」
「そう、美津子さん、あなたと一緒に楽しく笑って暮らしていける。それが私の願望。聡が死んでしまって、私も身寄りがなくて一人。だから、家族と呼べるのはあなただけ。こんな私だけど、これからも一緒にいてくれるかしら?」
目頭が熱くなる。何も言葉が出ない。思わずお義母さんの胸に顔をうずめてしまった。
お義母さんは、私の背中をトントンとたたいてくれる。まるで子どもをあやすかのように。
このとき、あのシェリー・ブレンドを飲んだ時の光景が再び頭のなかによみがえってきた。苦味と甘味、二つの味が一つのものをつくっていく。今がまさにその瞬間だった。
ようやく気持ちも落ち着き、あらためてお義母さんにお礼を伝える。お義母さんも私にありがとうを言ってくれる。そのあとは何気ない会話をかわしてけれど、夫の示談金の件が気になったので、そのことについて話をした。
「あの堂園さんって人のことね。そのことだけど…」
お義母さんはバッグから書類の封筒を取り出した。
「実はね、あのあと弁護士さんに会って、その堂園さんって人のことを話したの。そしたら弁護士さんもあの人は何か裏があるんじゃないかって、調べてくれたのよ」
「えっ、堂園さんを?」
彼女は仕事の上では信頼できる人。けれど、何かやっぱりあるのかしら?
お義母さんから手渡された書類に目を通す。読み進めていくうちに、私の眉間にはシワがふえてきた。
「それで、か。なるほど」
「でね、私はもうあの額で十分満足。お金なんてたくさんありすぎても困るから。けれど、私は老い先短いから。あなたはまだまだこれからでしょ。そう考えたら、お金はあるに越したことはないのかな、とは思うけど」
「お義母さん、老い先短いなんて言わないで。私もお金はそんなにいらないですし、あの額があれば十分すぎるほどですから」
「ありがとう。じゃぁ、私たちはあの額で同意するということでいいのかしら?」
「はい、私は問題ありません」
「でも、このままだとお仕事やりにくくなるんじゃないの?」
そうか、まだ堂園さんの問題が残っていたか。この資料から推測すると、堂園さんは私からどうやってお金を摂取するかを考えているはず。きっとしつこく言い寄ってくるに違いない。
ここでふと思った。私が今、大切にしなければいけないのはなんだろうって。仕事じゃない、研究所の人間関係でもない。何より大切にしたいもの、それはお義母さん。
ここでなにげに、残っているコーヒーを口にした。その瞬間、私の口の中で一つの世界が広がった。
それは青空、緑、そして土。どこか田舎の風景。そこで汗をかきながら働いている。そこには笑顔がある。
このとき、口からこんな言葉が飛び出した。
「お義母さん、田舎で暮らしませんか?」
「えっ、田舎で? 田舎ってどこ?」
「わからない。わからないけれど、自然の中で土と暮らす。今、そんな光景が頭に浮かんだんです」
突然の私の言葉に、お義母さんは戸惑う…のではなく、なぜだか笑い出した。
「お義母さん、どうしたんですか?」
「ご、ごめんね。まさか、美津子さんの方からそんなこと言い出すとは思わなかったから。あのね、私がここのコーヒーを飲んで見えたのは、さっきのだけじゃなかったの」
このとき、店員さんがあるものを持ってきた。それは何かのパンフレット。
「おかあさん、この前話していたもの、これです」
「まぁ、ありがとう。覚えていてくれたのね」
そのパンフレットの表紙には「田舎で暮らそう」と書いてある。
「おかあさんが話されていた条件に一番合うのがここかな。田舎だけれど交通はそれなりに便利で、買い物も不便ではないところ」
お義母さんと一緒に、田舎暮らしのパンフレットを眺める。まさに今私がコーヒーを飲んで見えた光景そのもの。とてもしっくりとくる。
「あの額をもらえれば、そこまであくせくして働くこともないし。別に今の仕事に固執する意味もないし。それよりも、お義母さんがやりたいことをサポートしていくほうが、私にとっては意味のあること」
心のなかでそう思ったのだが、無意識に言葉にしていたみたい。
「美津子さん、お仕事は本当に大丈夫なの? 私のワガママに無理に付き合わなくてもいいのよ」
「お義母さん、逆です。むしろ私のほうが田舎暮らしをしてみたいくらい。こうなったら善は急げ。早速行動しましょう」
なんだか未来が明るくなってきた。早速弁護士に連絡を取り、同意書に印を押すことに。弁護士も喜んで飛んで来るとのこと。
「でも、堂園さんはどうするの?」
「うぅん、あの書類を見ると、なんだか粘着されそうだし…」
「大変失礼ですが、何かお困りのようですが」
マスターが私たちの困った顔を見かねたのか、声をかけてくれた。
「はい、実は…」
私は今までのことをマスターに話してみた。
「なるほど、そういうことですか。それなら一つ提案があるのですが」
マスターは私たちにとある提案を。
「なるほど、それはおもしろいですね」
「でも、そんなことして堂園さんは怒り出さないかしら?」
「怒り出したら逆にこちらの思うツボですよ。早速明日、やってみます」
私は急にワクワクし始めた。これなら間違いなく堂園さんとも縁が切れて、田舎暮らしができそうだ。
翌日、私はお昼休みに堂園さんに示談金の話をすることにした。
「例の示談金のことなんですけど…」
「なになに、金額、上がった?」
興奮する堂園さん。すごく期待した目で私を見る。
「実は、お義母さんと話して。私たちにはとてももったいないお金だから、必要な分だけをもらって、残りは寄付をすることにしました」
「えぇっ、き、寄付!?」
この言葉に堂園さんはかなりの驚きを見せた。
「そ、そんなのもったいないわよ。寄付をしても、あなたたちには全然残らないのよ。そんなんじゃなくて、もっとお金を増やすことを考えなきゃ」
そろそろ堂園さんの本音が見えてきた。やっぱり、思った通りだ。
「お金を増やすって、どうやってですか?」
「あのね、どうせだから言うけど。これからの時代は老後の保障のことを真剣に考えないといけないのよ」
言葉に力が入る。
堂園さんはさらに力を込めて、こんなことを言い出した。
「だから、利回りのいい資金運用をしなきゃいけないの。あなた、株とかやったことないでしょ」
きたきたきた。とうとう堂園さんの本音がやってきた。
私は何も知らないふうに、こんな言葉を伝えた。
「えっ、株ってなんか怖くて。あれで大損する人もいるんですよね。あんなのよりも、定期預金に預けたほうが安心で」
「何いってんの。定期預金なんて一千万円預けても、年間たったの2万円くらいしか利息がつかないのよ。それよりも、運用実績で年間30%はある株式投資、こういうのを利用しなきゃ。一千万円預けたら、年間300万円よ」
だんだん話が怪しい方向へと向き始めた。以前の私だったら、堂園さんの勢いに飲まれて首を縦に振ってしまうところ。けれど今は違う。
「へぇ、ということは二千万円で600万円。そこそこの年収くらいもらえちゃうんですね」
「そうなの。ねぇ、あなたのお金、私に預けてみない?」
「堂園さんに預けるって、堂園さんが株を運用するってことですか?」
「私じゃないわよ。私はここの仕事があるから。実はね、今私が付き合っている彼が、株のトレーダーなの。彼の実績、すごいのよ」
いよいよ堂園さんの本性が見えてきた。それにしても、まさか研究熱心な堂園さんが、こんなにお金に執着していたとは。ちょっとショック。
というか、付き合っている彼氏がよくないのかな。おそらく、その彼に半分洗脳されているような状況だと思うけど。
「じゃぁ、堂園さんにお金を二千万円預けたら、私は毎年600万円受け取ることができるってことですか?」
「そうそう、そうなの。だからあなたの示談金、二千万円上乗せしない? どうせ最初はもらえなかった額なんだから。そのくらい、いいでしょ」
「でも、株って怖いじゃないですか。せっかく預けても、元金をなくしちゃうってこともあるし…」
私はここで躊躇してみせた。演技でもあるが本音でもある。
「大丈夫よ。私の彼に預ければ、元金はきちんと保証できるわよ」
「それって元金保証ってことですか?」
「うん、元金保証ってやつ。ほら、株式信託なんかでもそれをうたってるじゃない。だから安心して」
「預けるなら、きちんとした契約書みたいなのを取り交わしたいんですけど。そういうのはあるんですか?」
ここで堂園さん、ムッとした顔をした。予想通りだ。
「なに、私の言うことが信用出来ないっていうの?」
「あ、いえ。せっかく夫が残してくれたお金ですから。ムダにはしたくないと思いまして…」
ここで私はちょっと伏し目がちに、悲しい顔をする。
「そ、そうよね。あなたの気持ちを考えたら、お金をムダにはできないわよね。でもね、だからこそこういった資産運用を考えなきゃ、ね」
この言葉で決定。堂園さんがここで引き下がってくれたら、何もなかったことにしようかと思ったけれど。堂園さんにはちょっと痛い目にあってもらうかな。
「えっと、じゃぁもう一度お聞きします。元金は保証されるということなんですね」
「しつこいなぁ。そう言ってるじゃない」
「それに対して、契約書などの書類は一切ない」
「まだ私が信用できないの?」
「そうですか…では」
そう言って私はバッグから書類を取り出した。先日、カフェ・シェリーで見せてもらったあの書類だ。
「調査によると堂園さんの彼氏さん、以前自己破産されてますね」
「えっ、うそっ。っていうか、そんなのいつ調べたのよ」
堂園さんの言葉にかまわず、私は話を続けた。
「確かに株で儲けているようですが、昨年は税金をきちんと払っていないみたいですね。このままだと今年はかなりの額を支払うことになるみたいですし」
「そ、そんなのウソよ。それに、あなたどうして私の彼のこと知ってるの?」
「はい、私の弁護士さんが調べてくれました。それと、堂園さんの彼氏がやっている、元金保証をうたってお金を集めて株式投資をするっていうの、これ出資法違反になりますから」
「あ、いや。でも、それってしょ、証拠がないじゃない。私はそんなことは言ってないわよ」
明らかに動揺し始めた堂園さん。今度は責任逃れに走り始めた。
「証拠、ですか。これもちゃんと証拠になるって、弁護士さん言ってました」
私が胸ポケットから取り出したのはボイスレコーダー。それを見るやいなや、私に襲いかかる堂園さん。しかし私も抵抗する。が、それをとられてしまう。
「こ、これがなければ証拠は残らないわ。残念だったわね」
「残念、ですか。ホント、堂園さん、残念でしたね。ではさようなら」
あっさりとその場を引き下がる私。逆にさっきまで興奮していた堂園さんの方がポカンとした顔をしている。
私はその足で、研究所の所長の部屋へ。それからまもなく、堂園さんが所長室へ呼ばれることに。
「堂園くん、きみ、まずいことをしてくれたね」
「えっ、な、何がですか?」
「一条さんから聞いたよ」
私は所長と堂園さんの会話を横で聞いている。
「一条さんが何を言ったかわかりませんが、そんなのデタラメです。何か証拠でもあるのですか?」
「証拠、ね。これのことかな?」
所長はノートパソコンをくるりと返して、堂園さんの方に向けた。そこにはさっきの私と堂園さんの会話の動画が映っている。ちょうど、私からボイスレコーダーを奪ったシーンだ。
「これはどういうことか、ゆっくりと聞かせてもらうよ」
この動画、どうやって撮影したのか。簡単なこと。私の胸ポケットにスマートフォンをさしていた。このスマートフォン、ちょっと大きめなのでちょうどカメラの部分がポケットからはみ出る感じになっていた。
これらはすべてカフェ・シェリーのマスターのアドバイスによるもの。ボイスレコーダーはわざと奪われるように仕掛け、堂園さんを安心させるためのものでもあった。
この件があり、私はすんなりと退職届を出すことができた。堂園さんは優秀な研究員であるため、手放すのは惜しいということで減給処分が下されたが、自主退職となった。
その報告に、お義母さんと一緒にカフェ・シェリーへ。最後の挨拶も兼ねている。
「以前はお世話になりました」
「一条さん、うまくいったようですね」
マスターはカップを磨きながら、にこやかに私に話しかけてくれる。
「はい、おかげさまで。そしていよいよ来週から田舎暮らしは始まります」
「おかあさんから聞いていますよ。これからが楽しみですね」
「えぇ、といってもこれから初めてやる農業にチャレンジですから。いろいろと苦労もあるでしょうが、精一杯楽しんでみます」
「うん、いいことです」
「あの、私から一つお願いがあるのですが」
お義母さんが突然、お願いなんてことを言い出した。なんだろう?
「えぇ、私でできることなら」
「田舎暮らしといっても、たまにはここに戻ってきたいって思うんです。だから、このお店にまた来てもいいですか?」
「もちろんです。大歓迎しますよ」
そんなの、あたりまえじゃない。私はそのときはそう思った。けれど、お義母さんの次の言葉を聞いて、どうしてそんなことを言い出したのか納得できた。
「あぁ、よかった。私たちってもう身寄りがない二人なんです。私も夫を亡くし、そして息子を亡くし。この子もずっと一人で暮らして、ようやく得た唯一の身内である夫を事故で亡くして。お互いに他人だけれど、お互いしか頼れる人がいなくて」
そうだった、私たち二人が今頼れるのは、私たち二人しかいない。お義母さんは私を頼り、私はお義母さんを頼る。けれど、このままではいけない。だからこそ、お義母さんはあえてこの喫茶店カフェ・シェリーを頼れる存在の一つにしようと思っているのだ。
「では、私からお二人の門出を祝って、一つプレゼントを渡しましょう」
マスターはそう言って、小さな袋をお義母さんに手渡した。
「これは?」
「開けてみてください」
袋を開くと、そこに入っていたのは「ありがとうございます」と筆文字で書かれたシール。
「大したものじゃないのですが、私の知り合いがこういうのを作っていまして。大切な人にこれを渡してください、と私にくれたものです。私にとって、今のお二人はとても大切な人。お客さんでもありますが、これから先も続く仲間として、友達として、ぜひこれからもお付き合いいただければと思いまして」
大したものじゃない、とマスターは言うが。私にとってはとても大切なものに感じた。なによりマスターが私たちのことを「大切な人」と言ってくれたことがとてもうれしい。
「ありがとうございます。このシール、大切にさせていただきます。美津子さん、はい」
お義母さんはそう言って、私にシールの一枚をくれた。
「私も早速、マスターの真似をさせてもらうわね。私の大切な人だから、美津子さんにこのシールをあげるわ」
「お義母さん…」
涙がじわっと出てくる。私が頼れる人、それはお義母さん。だからもっと、大切にしていきたい。
そして、こんな気持ちにさせてくれたカフェ・シェリー、ここも私にとっては大切な場所。心の拠り所にしていこう。
「ところで、むこうではどんな暮らしを始めるのですか?」
「はい、私が携わってきたのが農業についての研究でしたから。多少は農業に対しての知識もあります。だからといって、直接土と触れてきたわけじゃないので、これから教わりながら少しずつ農業をやっていこうかと」
「私は美津子さんの手助けができれば。まずは私たちが食べるだけのものをつくるつもりで、それから徐々に周りの方におすそ分けができるくらいのものをつくっていくつもり」
こうやってカフェ・シェリーでの私たちの未来の話が膨らんでいった。
大切な人と一緒にいれば、きっと何かが手に入る。私の中には、そんな自信が湧いてきた。
あなた、こんな素敵なお義母さんと出会わせてくれてほんとうにありがとう。
<大切な人 完>