つながり
粉のような雪が風にのり、地上へ舞い降りる様は思わず息をのむほど幻想的だ。
僕は窓の外を見ながら、そんなキザな台詞を考えていた。
つまるところ言いたいのは、思わずキザな台詞を吐きたくなる程に窓に映る景色が美しかったってこと。
昼下がりのゆったりとした時間の流れを感じながら、僕はその素晴らしい雪の舞を眺め続けた。
そんな時間が続く中。ふと気付くと、もうこんな季節かと感慨にひたっている自分がいた。
思わずクスリと笑みをこぼす。
なんだかそんな感慨にひたっている自分が、ひどく年寄りに思えたのだ。
考えてみれば、僕も年をとったものだ。
あの日から……君と出会ったあの日から、いったいどのくらいの年月が経っただろうか。
相当な年月が経ったはずなのに、僕にはあの日がつい昨日のように思えてならない。
……あの日も確か、今日と同じ雪の降る日だった。
息が凍るような、寒い日だったっけ。
気のおもむくままに、僕は遠い過去へと思いを巡らせた……。
気付けばそこは、薄暗い部屋の中だったんだ。
誰もいないその空間に存在するのは、テレビや家具、窓やドア、そして冷たい空気のみ。
でもそのときの僕には、床の冷たさも、ひとりぼっちの寂しさも、分からなかったな。
感情というものを、持ち合わせていなかったんだと思う。
もちろん、自分が今どこにいるのかなんて興味も微塵も抱いていなかった。
僕には感情がなければ自我もなかった。
あるのは、ただぼんやりとした意識だけ。
物心のついていない赤ん坊が持っているのも、こんな感じなの意識なのかもしれない。
でも僕は赤ん坊とは違って、モノだ。
モノなのに意識がある、それはおかしなことなのかもしれない。
でも僕にはぼんやりと言えども意識があった。
モノなのか、生きているのか、それははっきりとした意識を持つ今の僕でもよく分からない。
ただ1つ言えることは、僕はそんなことを疑問に思うことも出来ない存在だったってこと。
その存在は、ただそこで時間が過ぎるのを待ち続けていた。
どのくらい経った頃だろうか。
人の気配がして、僕はふと意識を覚醒させる。
そこに立っていたのは、目を見開いて僕を見つめる、小さな少年だった。
そう、君だ。
君はつぶらな瞳を夜空に浮かぶ星の様に輝かせ、僕を見つめていた。
僕はただ無表情に、急に現れた少年が次に何をするのか眺める。
「プレゼントだあ……!」
君は興奮したように小さな声で言うと、相変わらずぼうっとしたままの僕をそっと持ち上げた。
そして穴が空くほど見つめたかと思えば、次の瞬間抱きしめる。
つよく、それでいて、やさしく。
幸せは目に見えないけど、もし幸せに形があるのなら、きっとこのように抱きしめられるのだろう。そう思えるような抱き方だった。
僕の体は、君の温かい腕にふわりと包み込まれる。
その瞬間だった。
ぬくもりの中、僕は生まれた。
まるでろうそくに火が灯るかのように、ぽっ、と。
冷え切っていたその心には、感情が生まれた。
生きているかも微妙だったその存在は、そのとき、自我を持った。
ぬくもりの中、僕が初めて感じた感情は、喜びだ。
僕を必要としてくれる人がいる、僕を抱きしめてくれる人がいる。
それを知って、僕の胸は言い知れぬ喜びでいっぱいになった。
喜びに背を押され、僕は思う。
この子について行きたい。
それは僕が持った初めての意志。
そして、今も変わらない意志。
あの頃の小さな君の腕には、僕は大きすぎたよね。
ツリーを見ると、今でもあの日を思い出す。
桜が咲くころになると、君は僕を背負って学校に行き始めた。
学校にはたくさんの子ども達や先生がいて、僕は彼らからたくさんのことを学んだ。
教室が笑い声に包まれれば、楽しい気持ちを知った。
君が先生に褒められたときは、誇らしさというものを知った。
君が恵子ちゃんにフラれてしまったときは悲しみの感情、君が急に教室の机の上で踊りだしたときは恥ずかしさと不安。
ちょっと嫌な感情も知った。
でも、1つ、また1つと、理解できる感情が増える度に、君に近付けたような気がして嬉しかったな。
ただ、いくら複雑な自我があって、いくら感情が理解できても、僕はモノだ。
どんなに頑張っても、人間でないことに変わりはなかった。
それを自覚する度に、僕は人間でない自分を恨んだ。
人間じゃないからこそ、できないことがたくさんあったから。
たとえばほら、君は時々、自分の部屋でひとり泣いていたよね。
大好きな友達と喧嘩したとき、母さんに大目玉をくらったとき。
そんなとき僕は、君が僕にしてくれたように、抱きしめてあげたいと思っていた。
でも、腕のない僕にはそんな簡単なことさえできない。
何もできなくて、ごめんね。
何度そう思ったことか。
僕が君と同じ、人間だったら。
何度そう歯を食いしばったか。
でも君は、強かった。
僕が何もしなくっても、涙をぬぐって前を向いた。
泣く度に君は強くなった。
泣いている君を見るのは辛かったけれど、凛々しくなっていく君の横顔を眺めるのは、大好きだったよ。
それからも僕は、何年も何年も、君の温かい背中に寄り添い続けた。
年を重ねるにつれて、君の小さかった背中は、大きく、たくましくなって。
僕の黒い体は、どんどん色あせ、くたびれて。
色あせて、くたびれてしまった僕でも、君は家に帰ると、やさしく床に置いてくれたね。
君は誰よりも優しい子だった。
僕は知っていたよ。
そんな幸せな日々が続いていたある日。
その日は突然やってきた。
幸せな日々は永遠には続かない。
それは誰だってわかっているつもりでも、ふとした瞬間に忘れてしまうものだ。
実際僕も心のどこかで、こんな幸せな日々に終わりが来るなんてありえないと思ってた……。
……その日の朝、教室はとてもにぎやかだった。
クラスのみんなは、制服の胸元に変な花をつけていて、僕は不思議に思ったのを覚えている。
君は僕をロッカーに置くと、クラスのみんなと一緒にどこかへ行ってしまった。
教室はがらんとしたまま、君たちは長い間帰って来なかった。
やっと帰ってきたと思えば、君と、みんなは泣いていて。
あのこわーいおばさん先生も泣いていて。
びっくりしたけど、君が友達と喋りながら笑っているのが見えて、僕は安心した。
そのあと僕の中には、黒い筒やら、分厚い本やら、手紙やら、たくさんのものが詰め込まれた。
何かを詰め込むたびに、君は嬉しそうに顔をほころばせていたね。
君の笑顔が何よりの幸せだったから、僕の中にあるものの重さも、心地よく感じる程だった。
それから始まったのは、おばさん先生の長いお話。
僕は大抵先生の話を聞かずにぼうっとしてるんだけど、一体なぜみんなが泣いているのかが気になったから、その日は珍しく先生の話に耳を傾けた。
「今日でみなさんは卒業です」
先生の凛々しい声が教室に響きわたる。
「そつぎょう」ってなんだろうか。
僕にはその言葉の意味が分からなかった。
「みなさんの小学校生活はこれで終わりです」
その言葉は、衝撃を伴って僕の耳に届いた。
……今、先生はなんと言った?
思わず自分の耳を疑う。その言葉にはそれ程の威力があった。
「春からは中学生です」
先生のその言葉は、もはや言の葉ではなく言の刃だった。
彼女の紡いだ言葉の意味を理解した瞬間、僕は心臓を刃物で刺されたような錯覚に陥る。
いくら世間知らずの僕でも、中学生は小学生と同じものを背負わないということぐらい知っていたんだ。
今までも何度か、君が中学生になったら自分はどうなるのか考えたことはあった。
でもそれは僕にとって、ふとした瞬間に頭をよぎる残酷な疑問。
その残酷な問いが頭の中をちらつく度に、僕は必死でそれを頭から振り払ったものだ。
だけど結局それは、問題を先送りにしていただけだったんだ。
先生がまた何かを話し、それから君が僕を背負い小学校生活最後のさようならを言うときも、僕は上の空だった。
今思えば、ちゃんと目に焼き付けとけばよかったな。あの最後の景色を。
僕は今でも後悔してる。
帰るときは、後輩たちが道を作って、僕らを見送ってくれたね。
広がっていたのは、みんなが僕らに笑いかけ、手を振ってくれるという素晴らしい景色だった。
普段の僕ならそれを楽しんだのかもしれない。でもそのときの僕にそんな余裕はなかった。
用無しとなった僕はどうなるのか、ただそれだけが気がかりで、後輩たちなんか目に入らなかった。
先程まで心地よく感じていた体の中の重みは、おもしとなって僕の心にのしかかる。
上の空の僕が認識できたのは、後輩たちに手を振り返す君の胸の高鳴りだけ。
いつもなら頼もしく思う君の力強い鼓動を感じているのに、僕の胸は悲しみでいっぱいになる。
だって、この鼓動を感じられるのは、今日で最後なのだから。
それから僕らは、父さんと母さんの車に乗って家に帰った。
僕の胸を満たすのは、相変わらず氷のように冷たいものだった。
僕は今まで先送りにしていた残酷な問いの答えを見つけてしまったんだ。
君が中学生になったら、僕はどうなるかっていう疑問。
結論。僕は捨てられる。
帰ったらすぐにとはいかないが、僕はじきにごみ処理場で燃やされるゴミと化すのだ。
君のぬくもりを感じることは、もう二度とできなくなる。
君も、君の父さんも母さんも、僕のことなんて先週の晩ご飯と同じように忘れてしまうんだ。
そして僕がいない中、誰も捨てられたごみのことを思い出すことなく、地球は回り続ける。
ずっとずっと、永遠に。
僕はそんな地球を見ることさえ許されない。
そして自分が生きていないことさえも分からない。
僕の胸はどうしようもない絶望感でいっぱいになった。
家に近付く度に、着かないでくれと幾度も願った。
でももう捨てられるだけのゴミの願いなんて届く訳がなくて。
すぐに車は家に到着してしまう。
僕の目には、赤い屋根の可愛らしい家がとても恐ろしいものに映った。
気持ちというのは、時に見方さえ歪めてしまうのだ。
怯える僕を背負ったまま君は家に入ると、自分の部屋を通り過ぎて、3階へと続く階段を昇り始めた。
すぐに捨てられるのではなく、3階に置かれるのか。
僕は悟った。
自分が捨てられるまでの時間が延びて、少し安心した。
でも心に居座る絶望感は、どうにもならなかった。
そんな僕を背負って階段をたどる君の足取りも、なんだか重そうだ。
このときは僕らの心が通じ合っていた気がする。
君も悲しんでくれていたんだ。僕との別れを。
君の悲しみに気付いた僕は、一瞬だけ自分を取り囲む絶望的な状況なんて気にならなくなった。
単純な嬉しさに心が温められたんだ。
しかし儚い喜びは、すぐに絶望へと変わる。
屋根裏部屋にたどり着いたのだ。
君はしばらくその木製のドアを見つめていたけど、ついに意を決したようにゆっくりとそのドアを開けた。
ギイッと、不気味な音が狭い空間に響きわたる。
君はそんな音に怯まずに、部屋に足を踏み入れた。
ここが僕のこれからの住処になる。直感的にそう理解した。
中は薄暗かった。
そして君が歩くたびに、床が上げるミシという悲鳴が、じめりとした空気を震わせた。
この部屋がずっと使われていないということを僕が理解するのには、それだけで十分だった。
君の進む先には、君が小さい頃に使っていたベビーベッドやおもちゃ、母さんの着なくなった服とかのガラクタが散乱していた。
僕の目にそれらのガラクタがひどく寂しく映ったのは、彼らに自分を重ねてしまったからなのかもしれない。
部屋の奥へと進んだ君は、僕を手に持ち替え、出会ったあの日のようにつよくやさしく抱きしめる。
君のぬくもりはあの日と変わらず、太陽のように僕の心をあたためた。
あの日ぶりだ。こんな風に抱きしめられたのは。
僕の心は歓喜に打ち震えた。
でも心のどこかでは分かっていた。これが最後の抱擁となることが。
分かっていたのに。
僕はずっとこの時が続けばいいのにと虚しく願った。
当然僕の願いは天には届かず、永遠にも感じられた数秒はすぐに終わりを告げる。
君は名残惜しそうな表情で僕から体を離すと、僕を部屋の隅っこにそっと置いた。
「ありがとう」
君は目を細めて僕を撫でると、ゆっくりと手を離し、僕を見つめる。
そしておもむろに立ち上がり、僕に背を向けた。
もう行ってしまうの……。
僕の問いかけが聞こえるはずもなく、君の背中はどんどん僕から遠ざかる。
待って、と思いかけて僕はやめた。
前へ進もうとする君を止める資格は、僕にない。そう気付いたから。
それに、僕には口がないから、どうせ君を止めることはできないんだ。
それよりも僕は、僕が君のためにできる精一杯のことを考えようと思った。
そして思い付く。
「幸せになってね」
それは、ただ君の幸せを祈ることだった。
僕の祈りが天に届いたかどうかは分からない。
ただ僕にはドアの外、君の進む先が、幸せに満ち溢れているように見えた。
それは、自己満足の創り出した幻覚だったのかもしれない。
でも僕は、ただただ満たされた気持ちで遠ざかる君の背中を眺めた。
ガタンと音を立てて、屋根裏部屋のドアが閉まる。
部屋の中は冷たい静寂に包まれた。
小さな窓から差し込む日の光だけが、ただ暖かく、僕の体に降りそそぐ。
あっという間の出来事だった。
それっきり僕は、君の背中に寄り添うことはできなくなった。
僕はずっと、ずっとひとりで、そこに居た。
いや、ひとりではなかったかも。
ガラクタの先輩たちは、いつも僕のそばにいた。
でも彼らは微動だにしないし、僕の心にぽっかりと空いた穴を塞ぐ存在にはなり得なかった。
それは当然のことなんだけど、そんな馬鹿らしいことを期待するくらい、僕は孤独に蝕まれていたんだ。
窓から見える桜の花が、その美しい花弁を散らすのを見た。
生命力あふれるみずみずしい葉っぱを、枝いっぱいにしげらせるのを見た。
優しい赤色にその葉を染め、風にのせてそれらを散らすのを見た。
真っ白な雪に枝を埋もらせ、それでもつぼみを付けるのを見た。
そして暖かくなると、桜はそのつぼみを、ふわりと開いた。
もちろん、君が僕のもとへ来ることはなかった。
君にはもう、僕が必要なくなったから。
ようやく、僕は現実をすんなりと受け入れられるようになっていた。
時間は全てを解決してくれるとはよく言うけど、それは本当のことなのだと思う。
僕は現実を寂しいことではなく、嬉しいこととして受け入れるようになっていた。
僕がいらなくなったということは、君が成長した証、そう考えるように努力した結果だった。
だから僕は、自分がそこにいることが、ただ誇らしかった。
それからまたいくつもの月日が流れ、僕は埃にまみれた。
相変わらず床は冷たい。
君は僕の前に現れない。
でも僕は、それで良かった。
君がガラクタなんか気にかけないで、生きることを楽しんでいるのなら、それで良かった。
君は、元気かなあ。
また部屋でひとり、泣いていないかな。
お腹の底から、笑ってくれているかな。
そんなことを考えながら窓の外を眺めることは、いつしか僕の日課となっていた。
さらに季節を重ね、どのくらいたったのかも、分からなかくなったころ。
窓の外を見るのにも飽きて、思い出に浸るのにも飽きて。
床の冷たさも、分からなかくなったころ。
僕は窓から差し込む夕陽のぬくもりに、うとうとし始めていた。
そんなときだった。
ギイッと音がして、部屋のドアが開いた。
君と別れて以来、久しぶり聞いたその音は、僕の意識を一気に覚醒させた。
続けて床が誰かの歩みに合わせて、ギシッ、ギシッと音を立てる。
胸の高鳴りに音があるのならば、きっとそのときの僕の胸は、とても大きな音を立てていただろう。
そんな僕の前に、誰かが膝をつく。
高ぶる感情を抑え込んで、僕はその誰かの顔を覗き込んだ。
そこに居たのは……君だった。
最後に見たときよりもずっと、大きくなっていて、どこか疲れていて、やつれていて。
それでも僕には分かった。
そこに居るのは、君だってことが。
君は僕をしばらく見つめると、目にいっぱい涙をためて、僕を抱きしめた。
あの日よりも弱々しく。
あの日よりも頼りなく。
でも僕を包む温かさはあの日と同じで。
僕の心は喜びに震えた。
ずっと待っていたよ。
信じていたよ。
僕を見つけてくれて、ありがとう。
「なあ、聞いてくれよ」
ほうっと、温かい息が僕の体にかかった。
同時に、ぽつりと温かい雫が僕の頭に落ちる。
「父さんも、母さんも、俺を置いていってさ」
僕は一瞬面食らった。
君が留守番も出来ないような寂しがりやだったという記憶は、僕の頭になかった。
両親に置いて行かれて泣くような、君はそんな子ではなかったはずだ。
ましてや成長した君は。
……もしかして。
僕はある疑念に思い至った。
君の着ている全身真っ黒の服を見て、それは疑いから確信に変わる。
「俺、高校やめて働かなきゃなんだ」
君の体は震えていた。
何かに怯えるかのように。
「みんな哀れみの目で俺を見る」
またぽつりと、僕の頭に雫が落ちた。
「かわいそうな子だって、言うだけ言って」
僕を抱きしめる君の力は、強くなって。
「なんなんだよ……」
僕はまた、泣いてる君を見ているだけで、何もできない。
「なんなんだよ……!」
僕の胸は、締め付けられる。
「なあ、なんか言えよ……!」
何も言えなくて、ごめん。
「くそっ……。俺は何をしてるんだ」
僕に話しかけてくれてる、ただそれだけ。
「聞いてくれ……!」
聞いてるよ。
「俺はひとりぼっちになったんだ」
違う。僕がいる。
「父さんも、母さんも、もう、帰って、こない……」
君は、僕の元に帰って来てくれた。
「俺は……」
誰よりも優しくて、誰よりも強い子。
「俺はひとりなんだ!」
君はそう叫ぶと床にこぶしをついた。
大切な人の悲痛をともなった叫びは、僕の心に棘となって勢いよく突き刺さる。
ショックだった。何もかもが。
でも僕は、君に伝えたかった。
それは、君を独りにしてしまった僕が言えることではなかったけれど。
君は、ひとりなんかじゃない。
「……。」
しばらくの沈黙の後、君は涙に濡れた顔を上げた。
その顔には、もうあの頃のような幼さは残っていなくて。
君と離れていた時間の長さを痛感した。そしてそれは、長すぎた。
君を孤独にするには十分な時間だったんだ。
「違う。俺にはお前がいる」
僕は一瞬、君が何を言っているのか分からなかった。
でもすぐに、君の呟いた言葉の意味が頭に染み込む。
信じられなかった。
僕の心が、伝わったんだ。
それは、初めてのことだった。僕は一瞬、自分がモノであることを忘れてしまいそうになる。
君は体を起こすとすぐ、あの日と同じようにまた僕をつよく、やさしく抱きしめた。
「ありがとう」
穏やかな沈黙のあと、君の優しい声が部屋にこだました。
そして僕を包み込んでいたぬくもりは、すぐにその姿をくらます。
僕の目に君の澄んだ瞳が映った。
その瞳に宿る強い光は、僕にあることを理解させる。
君は、ひとつ強くなったんだ。
僕は君の成長を再び見れたことが、嬉しくて仕方がなかった。
もう二度と見れないだろうと思っていたのに。
君がその横顔を凛々しくする瞬間を、また僕はこうして目の当たりにしている。
僕は世界で一番幸せなガラクタだと思った。
幸せには必ず終わりが訪れる。それは確実なことだ。
原因は誰かとの別れであったり、死であったり、時には自分の身勝手さだったり。
幸せの続く長さは自分次第でどうにでもなるけど、終わりの訪れはどうしようも出来ない。
でも、1つの幸せが去っただけで、落ち込んではいけないんだ。
きっとまた、違う幸せが訪れてくるだろうから。
そして幸せは、自分次第で引き寄せられるものだから。
……あれからまたいくつもの月日が流れ、今、僕はここにいる。
君の住む小さなアパートの一室に。
君は毎日どこかに出掛けては、夜遅くに疲れきって帰ってくる。
でもそんな君の目は、いきいきとしていて、とても楽しそう。
君が元気になってくれて、僕は嬉しいよ。
君はよく、壁に掛けられた僕を見上げて言うね。
「俺はな、いつか教科書に載るような大物になるんだ」
そしてにかっと笑うんだ。
「いつの日かお前は、博物館に展示されるようになる」
次の言葉は、いつも僕の魂を震わせる。
「俺、新島 颯人が背負った、相棒としてな」
僕はその日を、楽しみに待っているよ。
読んでくださりありがとうございます。