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高尾

作者: 空蝉

新宿から電車に揺られること一時間。高尾山口駅で降り、五分ほど川沿いの道を上がると、高尾山山頂へ延びる登山道が三本ある。

彼は毎度、まるで一本道であるかのように、あたかも彼一人しかそこにいないかのように黙々と、一号路登山道を登っていくのであった。

ところで、高尾山は「山」と言っても、五九九米とそこまで高い山ではない。したがって、登るのも比較的容易な山である。

彼は暇があればここに来るのであった。ここに来て、登りながら思案するのが快かった。思案と言っても、「次の休みは何をするか」「将来、なにをしようか」など、平凡な事柄を取り留めも無く思案していると、いつの間にやら頂上に着いているのだった。

彼は学生であった。大学では政治学を専攻していたが、専ら小説や詩を好んだ。そのような面からも、彼が思惑の交錯する都会ではなく、静閑な自然を好むのも首肯できた。


霜月の初旬、彼はふと紅葉狩りを思い立った。午後からの講義を諦めると、西武新宿線で高田馬場から新宿に向かい、京王線高尾山口行に乗り換えたのだった。

高尾山口駅に着いたのは、午後二時前だったが、彼の脚ならば半刻もあれば登頂できたので、相も変わらず飽きもせずに一号路を登り始めた。

時折吹く風の冷たさに秋の深まりを感じながら、一号路の途中にある金毘羅台に差し掛かった時、そこに同年代の女がいるのが見えた。女は眼下に広がる街を寂しそうな眼差しで見つめていた。平日の昼日中、登山道の途中に佇む女を少々訝しみながらも、彼は女の隣に並んだ。「山の秋はいいものですね。」と彼は話し掛けた。登山道ですれ違いざまに挨拶し合う慣習のような自然さを持って話し掛けた事実に、彼自身が驚いていた。女の方も少し驚いたように振り向き、彼の顔をちらと眺めてから街に目を戻すと、「えぇ、街は過ぎ行く余韻すら残しませんもの。」と、物憂げに呟いた。

「お気をつけて。」と別れを告げ、彼が再び登り始めようとすると、「お待ちになって。」と後ろから女が呼び止め、「山頂に連れて行ってくださらない?」と頼んでくる。彼も女のことが気になっていたので、二つ返事で引き受けた。


ふたりは黙々と登山道を登っていく。登っていくと直に、展望台に着いた。高尾山の展望台は山頂ではないが、山頂よりも眺めが良く、関東平野を一望できた。彼らは足を止め、黙ったまま遠景を眺めた。「まるで、違う世界にいるみたい。」と、女は言った。「本当に。自然は正直なので、時折どちらが本物の世界なのかわからなくなります。」と、彼は返した。束の間の沈黙の後、彼は、「山頂に向かいましょう。」と促した。

高尾山には、薬王院という寺がある。山頂の手前にあるこの寺を、彼はいつも素通りしていたが、女が興味深そうに見渡している様を見て、参詣することにした。参詣と言っても、彼は神道や修験道に造詣が深いわけではなかったので、石像や社を眺めたふりをするくらいだった。しかし、女の方はこの寺の天狗信仰に関心を持った風で、やはり少し物憂げな表情をしながら、天狗の像を眺めていた。

寺を抜けると山頂はすぐであった。彼は山頂に着いても、山頂の看板を見向きもせず通り過ぎると、突き当たりまで進んだ。そこから見える富士山が、彼は好きだった。そこまで着いて、ようやく彼は、「お疲れ様でした。」と、労いの言葉を掛けた。「連れてきてくれて有難う。」と、女は礼を述べた。時刻は午後三時をまわっていた。


「一緒に下山しませんか?」と、彼は不意に提案した。「えぇ、案内して下さるかしらん。」と、彼女は言った。秋の山には、もう暮色が迫っていた。索道を利用するのが最善とも思われたが、稲荷山登山道が彼のお気に入りの下山路であったので、ふたりは稲荷山登山道を下り始めた。稲荷山登山道は一号路と異なり、見所というものが無い。だからこそ、山と対話している感覚を彼は愛していた。

山を下りながら、ぽつりぽつりとふたりは話し始めた。ふたりとも同学年であること,自然が好きであること、彼は何の気なしに、山に来ていた理由を尋ねた。女は少し逡巡し、「男に捨てられたの。」と言った。ばつの悪い返答に彼が黙っていると、女は「女性は天狗になれないのね。」と言った。「天狗?」と、彼は聞き返さずにはいられなかった。「えぇ。天狗隠しさながらに天上界を見せたかと思えば、現実に置いてきぼりにして、夢幻の如く目の前からいなくなってしまう。男の人ってずるいわ。」と言う声には、自嘲と感嘆が感ぜられた。「お嬢さん。助平に鼻を伸ばして、赤ら顔になるのが天狗です。」と、彼は思いがけず口走ってしまった。女は「山の秋はいいものね。」と笑った。

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