この世にたったひとつだけ
「店長、もう袋に入れ始めても良いですか?」
厨房の奥から、おう、という声を聞いて、私はビニール袋の束と結束テープを足元の棚から引っ張り出して、カウンターに乗せた。
もう夕方近いこの時間のパン屋の厨房には、神妙な面持ちで帳簿をつけているこの店の店長しかおらず、朝の出勤が異様に早いパン職人は皆、早々に片付けをして帰ってしまっている。
最近ではパン職人のことを「ブーランジェ」、パン屋のことを「ブーランジェリー」と言うらしいが、ひなびた商店街の一角にあるこの店『リンドウ』は、古臭い店構えからしてどこからどう見てもただの「パン屋」に間違いはない。
看板は一昔前のレトロな文字で『リンドウ』と、どこからか懐かしさを呼んでくるロゴで書いてあるし、バゲットだって「フランスパン 三百円」と殴り書きにしてある値札が色褪せたまま貼りつけてある。
漢数字表記の値段なんて、ここでしか披露できませんよ、との体だ。
もう少しオシャレな感じにした方が良いのではと、ちょっとだけ提案してみたことがある。
「え、そう? ってか、何で?」
キョトンとした顔で声を合わせて言う店長の榊さんとパン職人の古株、旦崎さんに、新たな風、新たな変革を求めるのが間違いなのである。
その旦崎さんの腕に惚れ込んで最近弟子入りした、壇さんもすでに四十路に片足を突っ込んでいて、オシャレに関してはその服のセンスから言ってもあまり当てにはならない。
ここ数年、このパン屋『リンドウ』で雇ってもらっている私、鈴波 鏡花は無駄な努力をしない主義である。
客がまちまちで常連さんばっかりなのに、オシャレにする意味なし‼︎
早い段階でそれを悟ってからは、自分の立ち位置を大切にしつつ、忠実に「パン屋の店員」という職務を全うしてきたわけである。
私は手早く残っているパンを、手袋をした手でビニール袋に入れていった。
縦に入らない商品は少し斜めに入れながら向きを直して、慣れた手つきで袋の口を結束テープで閉じていく。
そして、閉店まであと数時間の来客用にと、再度売り場用のトレーへと戻して、棚へと移していく。
大方の商品は、この時間には売れてしまっているし、袋に入れる数はそんなに残っていない。
この仕事量が、「パン屋の店員」が私一人で回っている所以でもある。
トレーを棚に並べ終わると、今度は簡単な片付けと店番。
私はカウンターの上で頬づえをつくと、人通りの少ない通りをぼんやりと眺めた。それが、このパン屋『リンドウ』と私の、いつもの日常だった。
✳︎✳︎✳︎
ぼんやりと店の前の路地を店内から見ていると、にわかに店の前が賑やかになった。
ガヤガヤと野太い男性の話し声がしたかと思うと、途端にそれが音量を増していく。
「おう、あったぞ!」
「ここじゃねえか?」
口々に何かを言っているようで、店内からははっきりとは聞こえないけれど、私はそんな集団の様子をいつもの頬づえスタイルで眺めていた。
長袖の作業着風のシャツにダブっとした太いズボン。
(何だっけ、あの、よく工事現場とかで見る……)
店の前に集合しつつある、そんな集団の足元を見ていたら、ふとそこで目が止まった。
皆、同じクツを履いている。
(ええっ、ってか何で同じ? あれ、何ていうんだっけ?)
今度はクツの名前を思い出そうとして、一括りにされ頭の片隅に追いやられているオシャレワードをヒモ解いていく。
キャメル色の履きやすそうなシンプルな形。
そして、ヒモがほどかれて、バラバラとワードたちが転げ散らばると、そこで唐突に思い出した。
「そうそう、スリッポン! しかも、全員、お揃いだあ」
そう声に出してからの数秒後、店のドアについたカウベルがカランカランと音をさせて、ぞろぞろとその男たちが入ってきた。
私は頬づえをつくのをやめて、背筋を伸ばし始める。
そうして、起立、の姿が完成した頃、店内は同じスリッポンでいっぱいになった。
「あ、あんまり数がねえぞ。こりゃあ、早いもん勝ちだな」
誰かの声が聞こえてくる。
「何だよ、ハラ減ったべ」
「とにかく、俺はこのクリームパンな」
普段は静かな『リンドウ』の店内が、大音量に飲み込まれそうだった。
ガヤガヤと太い話し声と、お揃いのスリッポンが奏でるドタバタと騒々しい足音。
金を貸せやら、足を踏むんじゃねえやら、俺アンパン食うから取るなよ、など様々な種類の言葉が、人でごった返して狭くなった店内を飛び交っている。
誰かが販売用のトレーを持ち、誰かがトングを持って振り回している。
店の中にギュンギュンに詰め込まれた男たちを前にして、私は呆気に取られていたし、その状態からやっと抜け出すことが出来ても、その人数の多さに降参のポーズを取ることしか出来ずにいた。
「なあ、ねえちゃん。パンって、もうこんだけしかねえの?」
唐突に振られて、私は我に返り、目を見開いた。
皆が一様にこちらを見ている。
たくさんの眼。
たくさんの顔。
そこには、ヒゲだったり、汚れだったり、メガネだったり、一重だったり、絆創膏だったりがある。
私は固まって、はい、と頷くことしかできなかった。
そして、また下を見る。
上の部分はそうやって色々なものがあるのに、下を見ると同じキャメル色のスリッポン。
その対比の滑稽さがするりと私の中へと入ってきて、私の中の混乱をさらにグルグルと掻き混ぜる。
「何だよ、足りねえじゃん」
私の視線はスリッポンの間を彷徨っていた。
不思議なほど静かに混乱して。
それはこんなにも大人数の来客が、今までに一度としてなかったことに起因しているのではなく、全てはこのスリッポンが原因だと、私には分かり過ぎるほど分かっていた。
このお揃いのスリッポンが、私を陥れたんだ、そう思った。
けれど、そんなたくさんのスリッポンの波に一瞬、何かの違和感を感じた。
視線を床に這わせてその理由を探し出す。
そして、それを見つけ出した瞬間、私はカウンターから乗り出して叫んだ。
「ひとつだけ、違うっ」
その言葉で、全員がこちらを見た。
その視線の存在の一つ一つを体感し始めると、私の体温は一気に駆け上り、カッと熱くなった。
針の筵とはよく言ったもんだ。
今、それを実感している。
私は慌てて、両手で顔を覆う。
その途端、どっと笑いが起こった。
小さな『リンドウ』の店内を埋め尽くしているその体格の良い男たちが、一斉に笑い始めると、それはまるで爆弾でも落としたような、そんな衝撃。
「ねえちゃん、おもしれえ」
「おい、おまえご指名だぞ、ツバキ」
「え、俺っすか」
皆の逞しい太い腕にドンッと押されてカウンターの前に押し出されてきたのは、黒髪を短く刈り上げた、若い男性。
私は顔を覆っている両手の指の隙間から、その人を見、そして足元を見た。
ヒモのついたスニーカー。
ホワイトにグリーンのライン。
とても清々しく気持ちの良いデザイン。
なぜか、その時の混乱の中の私には、そのスニーカーがそんな私を落ち着かせ、優しく宥めてくれるような、特別なもののように思えたのだ。
そして、そのスニーカーによって落ち着きを取り戻した私は、両手で覆っていた顔をその手でパシッと軽く叩くと、笑顔で言った。
「いらっしゃいませ」
男たちが、花のような顔で笑った。
✳︎✳︎✳︎
奥から慌てて出てきた店長と二人で、二十人超ものお客さんをさばいてから、そんな怒涛の時間を何とか乗り気った自分を褒める間もなく、あっという間に閉店時間は訪れていた。
レジを閉め、最後に残ったパンをコンテナに詰めて『リンドウ』の一日は終わりなのだが、今日ばかりは一つとしてパンは残らず、全て売り切れという近年稀に見る快挙を成し遂げていた。
菓子パン、惣菜パンはもちろん、それらが無くなると食パンまでもが売れていった。
ガタイのいい男たちにとっては、一人で三個、四個が当たり前のようだったし、お腹を空かせた猛獣は食パンにもそのままでかぶりつくという、驚きのスタイルを持ち合わせていることを確認した。
それは、食パン一斤半をカウンターに置かれた時、「カットしましょうか」と言った私の問いに、「このまま食べるんでいいっす」との返事によるものだ。
そして、フランスパンもまた然り。
丸かじり、というやつ。
「凄かったですねえ」
閉店の締めを終えてから、やっと一息ついて、私は店長に言った。
「ああ、そういやあ、近所で何かの工事があるって、酒屋の息子が言ってたなあ。あれ多分、夕飯前のおやつだぞ」
「ひえぇぇ。食パン一斤半がですか」
「肉体労働は違うねえ」
「……店長、あのズボンって」
ずっと気になっていたことを私が聞くと、店長も記憶の中を探してくれた。
「サッと出てこんなあ。何だっけ、あれだよ、あれあれ」
そして思い出したというようにして、手を叩くと、
「そう、ニッカボッカってやつだ」
それでやっとスッキリして、私は家路に着いた。
(ニッカボッカとお揃いのスリッポンと……あと、ツバキさん)
私は帰り道、それだけで楽しくなって足取りも軽く、いつものように夜空を見上げながら帰った。
✳︎✳︎✳︎
工事期間が当分の間続き、その度に旦崎さんと壇さんが菓子パンと惣菜パンの製造量を増やし、それでも売れ残りは数えるほどという日を過ごしていた私は、夕方に訪れる一瞬のめまぐるしい忙しさにも慣れてきた頃、ようやく自分の名前が彼らに浸透しているらしいということに気がついた。
誰もが、鏡花ちゃん、と声を掛けていってくれる。
そしてもちろん、私も彼らが土建屋の下請け、真島工務店の職人であることと、その工務店の社長と繋がりがある個人経営の職人が集まって、大々的に工事を行っていることを知ったりしていた。
「ちわっす」
「うーっす」
それぞれに挨拶をしながら、入ってくる。
「鏡花ちゃん、俺のメロンパンとっといてくれた?」
すぐにレジ横のカウンターへと来て、声を掛けてくれる人もいる。
私がカウンターの棚から、取り置きのパンを出そうと屈んでトレーに手を掛けていると、前面がガラスで出来たカウンターの向こうに、たくさんのお揃いのスリッポンの中を掻き分けて、あのスニーカーが近づいてくるのを認めた。
トレーを持って、ひょいっと頭を出す。
すると、ツバキさんがワッというように、少しだけ後ろに仰け反った。
「いらっしゃいませ」
「……ちっす」
頭を掻きながら、更に近づいてくる。
「あの、か、カレーパン、」
「はい、取ってあります」
「あの、えっと……」
「鏡花ちゃん、今日も可愛いなあ」
ツバキさんをぐいっと横へと押し出して現れたのは、チャラ男オーラ満載のタナカさんだ。
私は髪を茶色にも栗色にもせず黒髪のままにしているし、短くショートにして前髪もギザギザにしている。
自分でも男みたいだと思うのだから、タナカさんの言う「可愛い」が、決して本心でないことを、私は知っていた。
このチャラ男は、ほら、髪を伸ばしてみたらもう少し色気が出てくるんじゃねえ、などとセクハラまがいなことを平気で言ってくる。
けれど最近は私の方も、タナカさん、自分の好みを相手に押しつけると嫌われますよなどと、軽くいなせるようになっていた。
皆んな、私を妹だとか犬っころだとかと勘違いしている節がある。
頭に手を乗せて、ぐりぐりして帰っていく。
けれど、その着ている作業着はあちこちが泥にまみれて汚れているのに、いつも私の頭は汚れないし、床も綺麗なままなのだ。
お揃いのスリッポンは、彼らなりのマナーだとタナカさんが言った。
「まあ、作業が作業だから全身泥まみれになるけどよ、作業靴で店ん中歩き回って汚すわけにゃいかねえだろ。だから、作業が終わったら履き替えてんだ。なあ、それより腹減ったんだけど、この前のチョコのヤツ、ねえ?」
「今日は売り切れちゃって。明日は取っておきましょうか?」
私がエプロンのポケットからメモとペンを取り出すと、顔を上げて聞いた。
タナカさんが妙な顔をしてツバキさんを見、そして私を見る。
ん? と顔をかしいで先を促すと、タナカさんがニッコリと笑って頭に手を乗せた。
「うん、うん、2個ね。それより、今日も可愛いなあ」
私は構わずに、メモにチョコデニッシュの「チョコデ」の後に「2個 タナカさん」と記入した。
そして、忘れ去られそうになっていたツバキさんのカレーパンをビニール袋に詰めて、ぼんやりしているツバキさんに渡すと、お金を受け取ってからレジを叩いた。
✳︎✳︎✳︎
「カレーパン、取り置きしていますよ」
ツバキさんに言葉を投げると、直ぐにも反応がある。
カウンターに来て、「ありがとう」と小さく言う。
「他にもあったら、どうぞ」
「あ、あります」
即答だったので、他のパンを取りに行くのだろうと思って、待った。
けれど、ツバキさんはその場から動こうとしない。
しかも、他の職人さんたちが遠巻きにこちらをチラチラと見ているのが気になった。
もう一度、訊こうとして、視線を戻す。
「他にもあったら、」
どうぞ、と言う前に、ツバキさんが慌てて言った。
「あの、俺と」
よく見ると、顔と唇がカチカチに固まっている。
黒髪が短髪なのは、前からもちろん知っていた。
その髪がツンツンしているのは、今知った。
背が高くて、体躯もがっしり、筋肉が見え隠れしている細マッチョだ。
その割に指は長く繊細そうで、いつもその指でパンを優しく包み込んで、持っていく。
「お、俺とつ、付き合ってもらえませんか」
ヤタッ!
ツバキがやりやがった!
周りからあふれるようにして声が聞こえてくる。
視線を周りに移すと、今度は皆がニヤニヤしているように見えてくるのが不思議だ。
私にとって、ツバキさんは特別だ。
お揃いのたくさんのスリッポンの中、たった一人見つけたスニーカー。
確かにそれは特別で、私にとっては大切なことだった。
そして、ツバキさんも。
この清々しいスニーカーと同じく、気持ちの良い真っ直ぐな人。
けれど、私は。
私は、貧乏すぎるから。
そう思い至って出た言葉。
「全部、おごりなら」
周りがさあっと引いていったのが分かった。
当の本人は、ぽかんの顔。
私はそれが悲しくておかしくて、堪らなかった。
けれど、泣かなかったし笑わなかった。
✳︎✳︎✳︎
私が赤貧と呼ばれる部類の貧しさに徐々に沈められていっていることは、愚かな若さしか持ち合わさずに高校生活を過ごしていた大多数の若者と同じの、自分であっても、直ぐにそれを察することが出来た。
高二の夏休み、大学への受験勉強のために図書館で勉強をしていた時、家が火事にあって全焼した。
信じられないかもしれないけれど、その時にたまたま仕事が休みで家にいた両親二人ともが、その火事で死んでしまったのだ。
大人二人の呆気ない死に疑問の声を上げたかったけれど、原因は仏壇で使うロウソクからの失火という、自分を納得させられるのかどうかがよく分からないオチがつき、私はそこから、この世にたった独りきりとなった。
両親が遺してくれた財産は、するすると信じられないスピードで一方的に消えていき、大学どころではなくなってしまった。
少しの蓄えを持って、私は働くことになったのだ。
「悪いけど、私ものすごく貧乏で。デートとか、できないから。ごめん」
店の前のガラスの壁に二人、背をもたせ掛けて話す。
私は背が低いけれど、ツバキさんは背が高いから、きっと店内からは、パンを並べる棚に隠れて、彼の頭しか見えていないだろう。
私はもうこの歳で、恋をすることも、忘れてしまっていた。
生活していくのに必死で、必死で、必死で。
やっとのことで、この『リンドウ』で、心の平穏だけは、取り戻したのだ。
きっと真島工務店の皆んなは、私のことを最低最悪な嫌な女だと思っているだろう。
デートの交換条件が、お金だって、言っているようなもので。
そう、最低な女だよ、私は。
隣に立つツバキさんの身体が揺れたような気がした。
きっと、ツバキさんも呆れてる。
好きとか嫌いとか以前に、人間としてダメだろって、私自身が思う以上に彼も思っているだろう。
ツバキさんの身体が再度、ぐらりと揺れた。
そして、手が。
その指先が。
私の頬に、そっと触れた。
「泣かないで」
そう言われて。
私は自分が泣いていることに気がついて、驚いた。
ずっと、ツバキさんのスニーカーのグリーンのラインを見ていたから、気づけなかった。
何とも私は、私が思ってるより自分の中でこじらせた、ややこやしい部分があるらしいことを、この見知らぬ涙で知ったのだった。
ポケットからハンカチを取り出して、ツバキさんは私の頬に押しつけて涙を拭いてくれながら、けれど彼は一歩後ろに下がった。
私はそのスニーカーの足先が、二十センチ遠ざかったのを、何故なのか、哀れに思いながら見ていた。
そうやって離れていった、そのスニーカーと私との距離は、永遠に埋まることはない。
哀れに思ったのは、ツバキさんのスニーカーには届かない、そんな自分自身だったのかも知れない。
✳︎✳︎✳︎
「なあなあ、鏡花ちゃん、告られたんだろ。いいよって、言えば良かったのに」
厨房と店を繋ぐ小窓から、背後に焼きたてのパンの芳しい香りを漂わせて、旦崎さんが猫なで声で言ってくる。
「一応、いいよ的なこと、言ったんですけど」
「あんな言い方、了承の意味じゃねえだろ。そりゃあ逃げられても文句の一つも言えねえなあ」
店長の榊さんが割り込んでくる。
「デートの金は全部お前もちだぞってなあ、それはねえわ。それは、ねえ」
「そんな言い方、」
してないじゃないですかと、抗議しようとして、壇さんに遮られる。
「それは、ヤバい。それは、ウケる」
もうおじさんなんだから、無理して若者言葉(?)を使わなくても良いのになと心で思いながら、更なる攻撃に耐えうるべく、バリアを作る。
「結構、かっこいい子だったのになあ。もったいねえ」
「優しくて純朴そうな子だって、店長言ってましたもんね」
「可哀想になあ。きっと意を決して告白したのに、予想外の玉砕の仕方だな、これ」
店長と旦崎さんに責められて、反撃はおろか、もう白旗を上げるしかないと心が決まる。
そんな言葉をやいのやいのと背中に浴びながら、私はトングを片手に持つと、トレーの後ろに引っ込んでいたブリオッシュを手前へと引き寄せたり、西陽が入り込む窓のロールカーテンを下ろしたりと、店内を一巡してからカウンターに戻った。
本当は、ツバキさんに聞きたいことがある。
どうして、あなただけスニーカーなの、とか。
(気になるけど、もう、聞けない)
そして、店の外が次第にオレンジに染められていくのを、いつも通りの頬づえで、じっと見ていた。
✳︎✳︎✳︎
騒々しい店内を苦痛に思いながら、私はせかせかとレジを打ちながら、パンを買い物袋に入れていく。
店内のあちこちで、コソコソ話。
ふうん、これがあのツバキのねえ、そんな声が聞こえてくる。
「あんな女とは思わなかったな」
「ホントホント、どこが良いんだかなあ。ツバキには似合わねえ」
あからさまな私への罵詈雑言で、ツバキさんが仲間に可愛がられ、大切にされていることを知る。
バシッと音をさせてトレーをカウンターに置いていく行為も、私に対して、ツバキさんを傷つけた私を許さないという気持ちが滲み出していて、それが痛みを伴って、この身に返ってくる。
私は手元を頑固にも見続けながら、パンを袋に入れていった。
自分みたいな女、ツバキさんには釣り合わない、そんなことは分かっている。
悲しさ、惨めさ、情けなさ、黒々とした気持ちが胸の内にとぐろを巻いて、どかっと居座っている。
それは私が貧乏すぎるのが悪いんだという、けれど変えられないその事実が、私を責めたり、宥めすかしたり、諌めたり、怒ったりしながら、私自身をどんどんと萎縮させていくのだ。
そして、私は。
それを黙って見ているしかなくて。
いつも、私の中は、空っぽで。
おまけに財布の中も、空っぽで。
涙が出そうになって、厨房で帳簿をつけている店長を呼ぼうと思った。
けれど、口を開けばきっと「店長」という言葉とともに、全てが溢れ出て、手がつけられなくなるだろう。
次から次へと、トレーがバシッと大仰な音を立てて置かれていく。
私は唇を噛んで耐えた。
下唇に、じんっと痛みが走る。
その時、人を掻き分けて、にゅっと大きな手が伸びてきた。
突然のことで頬を叩かれる、そう思った瞬間、もう一本の手が伸びてきて、両頬を手のひらで包まれた。
「泣かないで」
ツバキさんがカウンターの前に立っていた二、三人の身体を押し退けて、カウンターの前へと出てきた。
私はずっと俯いていた顔をようやく上げて、その拍子で眼からぽろぽろと涙が落ち、ツバキさんの指へと伝っていくのを、目の縁でぼんやりと見ていた。
「今日、給料貰ったから。金なら、たくさん持ってきたから。デートでもどこでも、連れてってあげる。何でも欲しいもの、買ってあげるから」
その言葉で、私は自分が貧乏すぎるのを、実は誰かに助けて貰いたかったのだという、内なる自分を認めたのだった。
何故ならそのツバキさんの一言で、「これで私は救われるかも」と、そう思ってしまったから。
結局は、お金なのか。
呆れて、私は自分を自分で殴りたくなった。
ひっそりと息を潜めるようにして、ギリギリのところを私は生きてきた。
明るく生きること=お金がかかるの図式。
だから暗く質素に生きなきゃいけない。
周りの同年代を見て、私と彼らの生活ぶりの一目瞭然なる差を見て、そんな風に思い込んでしまって。
実際、そうしないと生きていけなくて。
外野が何かを言っている。
うまく耳には入ってこないけど、きっと、お前バカだな、そんな金金言う女やめておけ、そんなような内容だと思う。
けれど、頬は暖かかった。
いつも家では独り、涙は冷たく冷えているのに。
私は、一生懸命、笑ってみた。
笑い顔を、何としても作らなければならなかった。
無理矢理、作った笑顔は信じられない言葉を連れてきた。
「じゃあ、あなたのスニーカー、ちょうだい」
その私の愚かでどうしようもない、けれど容赦のない言葉に、外野のさらなる罵声が飛んだ。
「この女、いい加減に……」
けれど、ツバキさんが笑って言った。
「うん、いいよ、あげる」
そう言って私の頬から手を離すと、その場にさっと、しゃがみ込んだ。
カウンターの向こう側で、突然ツバキさんが消えて居なくなり、私は、あっと声を上げた。
ツバキさんが居なくなったと考えるだけで、ぞくっと背中が凍りついた。
「つ、ツバキさんっ」
焦ってしまって、慌ててしまって、カウンターにガバッと覆いかぶさると、涙がその衝撃で散って落ちた。
ツバキさんが、川面を漂う泡沫のように、一瞬にして儚く消え去ってしまうような気がして、もう一度、震える声で名前を呼んだ。
「ツバキさん、ツバキさんっ、」
涙を手の甲で拭いながら、私はカウンターに身を乗り出して、下を覗き込んだ。
けれど、直ぐにもツバキさんは立ち上がって、
「はい、どうぞ」
差し出された両手には、たくさんのキャメル色のスリッポンの中、私が見つけて好きになった、グリーンのラインの白いスニーカーが包まれている。
店内のあちこちで、息をのむ音。
そんな中、タナカさんが声を出した。
「お、おい、そりゃあ、お前が就職祝いだっつって、母ちゃんに貰ったやつだろ。親方に貰った俺らのヤツを突っ返してまで、それ大事にしてたじゃねえか。それなのに、」
良いのかよ、呟くように言ったのが聞こえた。
それを耳に入れながら、私は恐る恐る、そのスニーカーに両手を伸ばした。
そして、そっと触れた瞬間、世界が変わった。
こんなにも暖かい世界が、この世にはあるのだ、と。
ぶわっと、涙腺が切れて、涙が迸る。
生温かいスニーカーの、グリーンのラインがぐにゃりと曲がる。
「あ、あり、がと、う」
私はそう一言、やっとのことで言い終えると、スニーカーをぐいっとツバキさんの方へと押しやった。
そして、うわあああんとマンガにでも出てくる主人公のように、おおいに泣いたのだった。
✳︎✳︎✳︎
私の泣き声を聞いて、厨房の奥から店長が慌てて飛び出してきて、声を荒げた。
「おい、何やってくれた‼︎」
私の腕を引っ張って、カウンターから連れ出す。
「こいつは確かにめちゃくちゃ貧乏だけどよ、それなのにちっとも拗ねねえで、すっげえ頑張って生きてんだぞっ‼︎ 泣かせたヤツは誰だっ、出てこい‼︎」
店長は顔を真っ赤にして、叫んでいる。
私は、抱え込まれた頭を振って、店長違うんです、私が悪いって、何度も繰り返し言った。
けれど、店長の剣幕に押されて、ツバキさんも顔を真っ青にして、くつ下のまま立ち尽くしている。
すると、タナカさんが、「おい、ツバキ、それ貸せっ‼︎」と言って、手に握りしめていたスニーカーを取り上げた。
「お前、これ履け、早くっ‼︎」
ツバキさんが、慌ててスニーカーを履くと、タナカさんがツバキさんの背中をどんっと押しながら、声を上げて言った。
「鏡花ちゃんっ、スニーカーだけじゃなくて、コイツも一緒に貰ってやってください‼︎」
一瞬の空気。
それから、どっと『リンドウ』の店内が湧いた。
皆が大笑いして、そして最初は憤慨していた店長も事情を察してか、直ぐに笑い出した。
そして最後に私とツバキさんが、そろそろと顔を見合わせて、笑った。
この世にたったひとつだけのスニーカーと、そしてツバキさん。
私はその笑いに、涙はすっかり流れ落ちて空っぽになったことを知った。