雨の国道を一台のオートバイが走っている
雨の国道を一台のオートバイが走っている
バック・シートのキャリアには、キャンプ・ツーリングに必要な最低限の荷物が違和感無く積載してある。ライダーはレインウェアは着用しておらず、ずぶ濡れでこそあったが、この雨をまったく無視しているかのように淡々とオートバイを走らせていた。ヘルメットの内部まですっかり雨に濡れていた。雨足が強くなるとシールドの隙間から入り込んだ雨が頬をつたい口の中に入ってくる、妙な味ではあるが夏の焼けたアスファルトに夕立が降り注いだ時のような”どこか懐かしい風味だ”とライダーは感じていた。
五月下旬のこの雨は、梅雨入りを告げる雨に違いない事を日本中の誰もが感じていた。週末の午後の国道は、交通量は多いものの貨物トラックはまばらである。大型ダンプの横を並んで走るとき、ミスト状のしぶきをうけ視界がいちじるしくさえぎられる。ライダーはヘルメットシールドをグラブの手のひらでかるくぬぐい、すこしアクセルを開け大型ダンプの前方に進路を移した。無駄の無い流れるようなライディングであった。
小さな15インチのテレビから、15年ほど昔の歌謡曲が流れている。遅めの昼食を摂るために長谷部真也は雨の国道沿いのトラック運転手向けの食堂にはいった。店内は昭和の時代からまるで変化してないことが直感的に読み取れる。しかし”いい具合”に寂れつつも休憩や食事に訪れるトラック・ドライバー達の活気で満ち溢れていた。まるで昭和40年代にタイム・スリップしたような錯覚に陥ったが、不快ではなかった。むしろ長距離の旅の帰りにふさわしい懐かしさが真也をつつんだ。
「兄ちゃん このクソ雨のなか単車かい?ずぶ濡れじゃないかよ 」
頭にタオルではちまきをしたトラック乗りの男が陽気に声をかける。真也は380円のきつねうどんをすすりながら”コクリ”とうなずいただけでなにも答えなかった。
「雨が降ってちゃぁ せっかくの単車も価値がねぇなぁ...あれ舶来のバイクなんだろ?エンジンは何ccなんだよ?」
男は丼飯をかき込みながらやたら話しかけてくる。真也はうどんを食べ終えショート・ホープに火をつけながらすこし鬱陶しく感じていた。深くショート・ホープを吸い込み、深いため息を吐くように煙を吐き出しながら男に答えた。
「250cc ですよ。」
男は箸をとめたまま真也に向き直った
「ん?んなこたぁ ないだろう?ありゃ何てゆうのかわかんねぇけど、ディビットソンだかダビッドソンとかゆう舶来の単車ってことくらい俺にも判るよ。250ccってこたぁないだろう・・・」
真也は心の中で少しだけ愉快な気分に浸りながらショート・ホープを灰皿に消した。男は拍子抜けをくらい釈然としないまま、ぶつぶついいながら丼飯をかき込んでいた。小さなテレビの安っぽいプラスチックに反響したニュースキャスターの声が梅雨入り宣言している。
ざわざわと騒がしかった食堂が
ほんの一瞬だけ静かになった。
食堂の外へ出て真也は空を仰いだ。空は重くグレーな雲に覆われていたが、雨はやんでいた。長距離のツーリングの帰り道600kmほど雨にやられながら真也はこのオートバイで走り続けた。彼の住む町まで残り50kmほどではあるがことのほか疲労で体中が痛む。おまけに昨夜から降り続く雨のせいで、普段のロング・ツーリングよりもくたびれていたキャリアにパッキングされている荷物を点検し終えて、1340ccのエンジンを搭載した大柄なオートバイに跨る。燃料コックをオンにして、アクセルを2〜3回手首のスナップを効かせ開閉してやる。重量のある車体をたてなおし、セルボタン一発でエンジンに火を入れた。
暴力的にも感じるエキゾーストは次第に冷静さを取り戻し 独特なアイドリングを打ち始めた。
国道を西に2kmほど走り交差点で右折する。田園地帯をぬけ彼の住む町へ続く県道を真也は家路を急いだ。疲れている上に日没が訪れるのは今の真也にとって遠慮したいところであった。毎度のことではあるが、ロング・ツーリングに出かけてはほとほと”嫌気”がさす。忘れた頃に、テントやシュラフ、携帯コンロを積み込んではオートバイで出かける。”なぜ繰り返すのか”真也本人も解らないでいるしそれについて考えてみたことなどなかった。
日本中、何処でも見られるような住宅街に築15年ほどの古い分譲マンションが建っている。1階の一番西側が、真也の部屋である。もともとの部屋の持ち主が転勤になった為、借家になっているのを真也が駅前の不動産屋で見つけ気に入って住んでいる。南に面したリビングの窓側には、ちょっとした庭になっているのでオートバイを停めておくには都合がよかった。南の窓は一般的なものより大きく西の窓に取り付けられた黄色のブラインドは午後の西日が反射してリビング全体をやわらかなオレンジに染める。とくに西日の射す時間帯のこの部屋を真也は好きであった。
パッキングした荷物をキャリアからほどき終えた真也はツーリングバックを肩に引っ掛けトボトボと我が家の玄関まで歩いた。右腕の時計はすでに午後6時を回っている。ずぶ濡れのライダース・ジャケットとジーンズ下着の全てを玄関ではぎ取り、シャワーに向かった。雨の中の長距離をオートバイで走ると体温は流されるためひどく疲れる。指先はしびれて感覚がまるで無かった。体が芯まで冷えていて思うように動くことが出来なかった。まるで壊れた出来の悪いロボットのような動作で熱めのシャワーを浴びた。徐々に体中に再び血液が巡るのを感じるのと同時に指先はジンジンと熱く感覚を取り戻す”助かった・・・”という不可解な気持ちがこみ上げてくるのを真也は楽しんだ。 コットンのトランクスいっちょうで濡れた髪をバスタオルでくしゃくしゃ拭きながらリビングに入る。無造作に散らばった旅の荷物に目をやりながらツーリングバックの中からキャンベルのトマトスープを一つ取り出しキッチンへ歩いた。キャンベルのトマトスープの缶を小さめの鍋にあけ火にかける。空になった缶に、ミルクをいっぱいにそそぎキャンベルのトマトスープがあたたまるのを待った。
なれた無駄の無い手つきで、あたたまったトマトスープにミルクを注いだ。キャンベルのトマトスープ一缶とキャンベルの缶いっぱいのミルク。
1対1である。
かき混ぜながらスープをさらにあたためて大きめなファイアーキングのグリーンのマグカップに注いだ。真也のキッチンにはこの”キャンベルのトマトスープ”が常に大量に買い込んである。キャンプツーリングに出かける際もかならずもって行くのである。
あたたかいトマトスープをすすりながらチョコレート色のソファーに腰をおろす。体全体がぼんやりとまるで宙を浮いているような感覚のなかで、先ほどまでの冷えきった体の自分がまるで遠い昔の思い出のように感じている。
夕べはそのまま、ソファーで眠ってしまった。ミニ・コンポーネント・ステレオのタイマーのスイッチがはいり”雨にぬれても”で目がさめる。
外は昨日に引き続き 雨。
今日は月曜。決まってロング・ツーリングの翌日は有給休暇を取ってあり予定は何もない。トースト一枚とコーヒーだけの簡単な朝食を済ませ旅の荷物を片付ける。無理にでもやっておかないと次回まで道具がそのままになりかねない。洗面所で荷物の入ったツーリング・バックをあける携帯コンロ、ランタン、コッヘル、ホワイトガソリン、汚れた下着など・・・
用具の汚れを着古したTシャツでふき取り、スプレー式のオイルを軽く塗布しておく。衣類は2層式の洗濯機にほおりこんで洗っている。今時、2層式の洗濯機はめずらしいが・・・なぜか真也はあえて2層式の洗濯機を好んでいる。雨に濡れた、テントやシュラフはバス・ルームに干しておいた。いずれにせよ、今日は外には干せない。
リヴィングのミニ・コンポーネント・ステレオからキャロル・キングの"Too Late"が流れている。かすかに電話のコール音が彼女の唄を邪魔しないように鳴っていた。真也は濡れた手をジーンズでぬぐいながらリヴイングにむかい受話器を取り上げた。
「はい。」
「私!私!裕実よ。」
「あぁ。」
「”あぁ。”じゃないでしょ?無事なの?」
「無事生還したよ。」
「そぉ。ま、ぶじならいいわ。一緒にランチでもどお?ご馳走してよ。」
「なんで?俺がご馳走するんだよ?」
「はははは、まぁたまには私がご馳走しなくちゃね 適当にこっちに来てちょうだい。」
「あぁ。」
「じゃぁ。まってるから。」
「あぁ。」
”ふっ”とすこし笑顔を浮かべて小さな溜息をもらしながら受話器をおいた。リヴイングの掛け時計は午前10時を半分ほど過ぎたところだ。ごく簡単な身支度をして出かけるには”ちょうどよい”と真也は思った。
平日の雨の街はいつに無く静かだった。通りに面したレスト・パブで真也は裕実と待ち合わせることになっている。普段は歩道に面してオープン・カフェテラスになっているのだが、あいにく雨でテラスはしめている。店内は人はまばらであったが、厨房の雑音とBGM、人の会話、全ての音がバランスよく混ざり合い心地よい。真也は一番奥のテーブル席につきショート・ホープを吸っている。裕実はまだ来ていない。