道楽作戦 あるいは設定屋になろう
日本国自衛隊がその規模を緩やかに縮小していく中で、組織としての質と規模をどう維持していくかという問題が急速に深刻化したのは2030年代のことである。当時の日本の戦略環境としては、同盟国であるアメリカ、領土問題は未解決で同盟国でもないが、それでも敵対すべき要素の比較的少ないロシアという核大国との関係こそ安定していたものの、日本のシーレーンを扼す地政学的要素に加え遅れてきた帝国主義としか形容しようのない積極的膨張政策を採る中国、恨みでしか行動しなかった結果、北朝鮮も含めて中国の影響下に入った韓国という火薬庫が近傍に存在していた。
今後20年程度で総人口が1億人を切るとはいえ、国民一人あたりの所得ではアメリカとほぼ同じ額を維持できる見込みがあり、高齢者の再定義による労働人口の確保もあって、世紀が変わった頃にペシミスティックに喧伝されたような国家が成り立たなくなる人口減、労働力不足、あるいは移民政策への傾倒には程遠い状況であったが、若年人口の構成比率上の低下は如何ともしがたく、若年労働力の確保が必須である自衛隊、こと人員数の多い陸上自衛隊では「いかに殺されず、いかに少人数で国防を果たすか」が懸案となっていた。
歴史を紐解くと軍隊の規模縮小とは予算削減が発端、あるいは目的となるケースがほとんどであるが、自衛隊の人員減の要求は予算規模とは別の次元で発生しており、自衛隊自身がそれに熱心に取り組んだという意味で特異な例であったといえる。
当時の陸上自衛隊の編制・運用であるが、機甲、機械化歩兵、砲兵、野戦防空、兵站、これにヘリなどの航空部隊を加えてネットワーク化し、諸兵科連合としての効率を極限まで高めるという先進国軍隊での常道は果たしていたものの、軍隊として自己完結性を持つ最小単位は(そのために特に編成されたPKO派遣部隊などを除けば)依然数百名から数千名という連隊、師団規模のままであった。これは自衛隊の定員から逆算すれば、展開できる戦術単位が限られることを意味する。
仮想敵のテロやゲリラ・コマンドの巧妙化、同時多発化が予想されるなかで、自衛隊は隊員一人ひとりの高技能化、あるいは万能化を模索していくことになる。これらの成果は戦車が無くても戦車に対抗する歩兵装備や、方面隊や総隊直轄であった航空兵力を一機単位でも派遣する運用の柔軟化、分隊の定数縮小などに現れており、事実、強化倍力服を装備した5名編制の分隊に、中隊規模の兵站と固有の航空兵力を与えられた対ゲリコマ戦部隊がいくつかの政令指定都市で試験運用された。
比較的成功を収めた都市部における普通科の柔軟運用の詳細は別の機会に譲るとして、依然解決できていなかったのが機甲部隊のコンパクト化であった。自衛隊創設期において1個戦車中隊とは5両からなる戦車小隊4個と本部管理小隊2両を加えた22両であったが、74式で小隊の編制が4両に、90式で3両になったことから本部管理小隊を加えても14両、10式ではさらに1個小隊減、中隊長車1両によって10両となっていた。
中隊以下の規模が縮小されたことから経費としては圧縮されたものの、兵站においては師団司令部に属する後方支援連隊に依存することから、運用の実際はあくまで師団に付随する状況を脱しておらず、中隊あるいは小隊規模、場合によっては小隊以下に分割されてでも普通科に密着して支援を行う機動戦闘車に比べると影が薄くなるきらいがあった。
将来の機甲部隊に装備される新戦車には、10式で達成した軽量化による戦略機動性の向上に加え、兵站を劇的に軽くできる整備性が求められた。戦闘損傷を別として、メンテナンスフリーで燃料と弾薬さえ補給すれば行動を継続できる新戦車は、日常的な整備に費やされる人員を大きく圧縮し、結果として運用の柔軟性が向上することが期待された。
以前からその傾向があったものの、単価無視、整備は日本のインフラ前提という奇特なドクトリンを突き進めていったのが38式戦車*1 であった。車検と称された2年ごとの大規模整備以外では消耗品補給と油脂類の注油だけで稼働し、損傷時には部隊修理せずに後送、防衛大綱定数外とされた補用車で穴を埋める運用を確立した。
公式にはサブタイプが存在しないことになっているものの、少数ロットの長期生産における漸次改良と既生産分へのフィードバックが繰り返された38式戦車は、衛星軌道上の工業プラントが操業を始めた60年代には、宇宙工業製品の普及を受けて日常整備すら省略しても問題ないほどの耐久性と字義通りのメンテナンスフリー性を持つに至った。技術的暴走と戦闘分野の人員縮小への度を過ぎた情熱は、別の手段も巻き込んでさらに加速する。
*1 38式戦車。10式の後継として開発されたが、自衛隊装備年鑑や防衛白書で記述される部分ではさしたる性能向上はない。開発費のほとんどは、戦車という手間のかかる機械を、いかに手間をかけずにどれだけ楽に運用するかという部分に費やされた。
マンパワーの削減方法として組織のコンパクト化と平行して注目されたのは、ロボットの活用であった。
自衛隊の無人兵器の運用は無人対潜ヘリコプターDASHや無人標的機ファイアビーなど1960年代まで遡ることができるが(起動に人の手を介さないという意味であれば、地雷や機雷、仕掛け爆弾などは明治期から存在したし、その起動にコンピュータを用いた知性化は80年代に活発に研究されたし、各種誘導弾もまた、ある種の無人兵器と言えたが)、人工知能を搭載された無人兵器が比較的単純な起動条件のみではなくプログラムに従って諸条件を判断し自律的に作戦行動を行うようになったのは2040年代以降となる。他国に比して導入が遅かったのは、無人兵器が自律的に殺傷を伴う行動を行う法整備に時間がかかったためである。
これについては介護用途アンドロイドなどのために立法された民生人工知能搭載機器の製造者ならびに使用者責任法を援用することと、倫理教育の義務化、最終法的責任者を自衛官とすることで決着を見た。後に人工人格の一意な識別が義務化され、さらに倫理教育担当者の資格の厳格化、最終責任者の監督する人工人格数の上限の設定といった戦闘職種人工知能への制限が加わったが、自衛隊の実際の装備体系において完全無人の自律戦闘を行う兵器というものはグローバルホークの流れを汲む無人強行戦闘偵察機*2 くらいで、無人兵器と呼ばれるもののほとんどは人間のコントロール下において戦闘を行っていた。
むしろ自衛隊が力を入れたのは法規制を受けない非武装の業務における無人化であり、最も普及したのはロボット整備員*3 であった。これらは人間サイズで人間と同じ道工具を使って航空機、車両、艦艇のメンテナンスを行い、またダメージコントロールに従事した。
*2 米空軍とボーイング社の調査を航空自衛隊が追試した結果、耐用飛行時間1万8000時間と判明したF-15Jであるが、戦闘機としてのアップデートが行えるのは保有機の半数程度で、100機近いPre-MSIPは寿命が残っていながら戦闘機としては運用できなくなる。これらに対して高価な近代化改修を行っても合理的として付与された任務が、偵察と電子戦であった。RF-15J、あるいはEF-15Jとして制式化されたものの、主力戦闘機がF-35をはじめとするステルス機に移行すると、非ステルスであるF-15ベースでは有人機としての生残性に疑問の目が向けられた。その回答がグローバルホークを補完する無人偵察機案であった。グローバルホークが5万フィート以上の高高度に長時間滞空して情報を収集するのに対し、特定の偵察目標に対して接近、低空より情報を収集することが任務とされた。従来は航空優勢下での運用が意図されていたが、ある意味スペアが数十機あるに等しいことから戦時損耗を許容する方針に変更された。とはいえ情報を回収できずに無為に撃墜されては意味がないことから、自衛能力の強化、さらには自律戦闘能力の付与が行われ、改修が進むにつれて外観も性能も原型機からかけ離れていくことになる。形態1型では射出座席も操縦装置も残された「無人飛行もできる偵察型」という程度であったが、空力加熱への対策としてキャノピーの全廃、一部外板の耐熱化、エンジンのバイパス比の変更を行った形態3型では最高速度マッハ3プラスを達成。ステルス性の向上ならびに機体下面を偵察機材に割り振るためインテークからエンジンまでのダクトを機体上面に再配置し、かつ武装をCFTに収めた形態4型では、4機のフライトが連携して敵迎撃機の排除あるいはSEADによる防空網制圧を行いながら強行偵察を行う能力をも獲得した。Pre-MSIP機のほかF-35への更新にともないMSIP機の補充をうけたことから、延べ改修機数は120機前後に上るが、人工人格規制法による配備数制限をうけるため、同時に飛行できる機数は14機であった。
*3 航空自衛隊、海上自衛隊においてはロボット整備員のジェンダーを男性と設定していたが、陸上自衛隊ではロボット整備員の比率が比較的低く、その一方で調達数の多いロボット衛生要員は女性に設定されることがほとんどであった。ジェンダーに女性を設定したといっても、導入初期のロボット衛生要員は目の位置にステレオカメラの開口部があるだけで、人工呼吸すら腕部に装備されたホースからポンプで送圧するというものだった。マニア向けに出回っていたメイドロボのような愛嬌や色気は全くなかったが、死ぬかもしれない時くらい女の子の声に励まされたいというある意味切実な現場の声を上層部は汲んだ。陸上自衛隊の女性型ヒューマノイドの大量需要は「御国のために働く兵隊さん」の最後を看取るのが自社の製品になるかもしれないことに意気を感じたメーカーの努力を誘い「不気味の壁」を乗り越えるための試行錯誤に貢献することになるが、その結果現出した「美人揃いの看護兵」という字面は一部の反感を買い、国会において質問主意書が出される事態となった。「高価なメイドロボを官費で支給して募集活動をしているのではないか」という悪意の滲むそれに対し陸上自衛隊は「ロボット衛生要員は欠くべからざる装備であるが、基本的には歩く救急箱である」と回答している。
この時期においてもさらなるセンシング技術の高度化、ネットワークの広範囲化、命中精度の向上は陸海空宇宙を問わず行われたが、その一方で陸上兵器の射程そのものの延伸はほとんど行われていなかった。理由はいくつかあったが、その最たるものが陸上兵器としての重量制限と視程にあった。
先進国に対する最初の海外派遣となったカナダはブリティッシュコロンビア州の中国系住民による独立騒乱以降、海外派兵が常態化した自衛隊において装備の戦略機動性の優先順位は上昇し、標準的な道路規格において運行可能であることが強く求められた。これは長射程兵器を砲という重量のかさむシステムに頼らざるを得ない陸上自衛隊において足かせとなりうるものであった。
もうひとつの大きな理由である視程であるが、戦車のセンサーが地上高にして2メートル少々であることは、地平線までの距離が6キロにも満たないことを意味する。もちろん、古来より常道とされてきた高所を確保することによる戦場全体の観測に加え、偵察観測ヘリ、無人偵察機、航空偵察や衛星監視とのデータリンクは行われていたが、実際に敵と対峙し撃ちあう普通科や機甲科の視程を直接的に延伸する方策は存在しなかったことが挙げれる。伏せた普通科隊員は障害物がなくても1キロ先までしか見えず、弾種に多目的榴弾を持ち、仰角をつければ10キロ以上の射程を持ち野砲的運用も可能な戦車砲も、実際の交戦距離は4キロが記録されたのみだった。
無論、陸上自衛隊は優秀な装備と高い練度を持つ特科部隊を保有していたので情報共有による間接攻撃という意味では40キロ先を射撃することもできたが、それは視程の短い陸自部隊が敵の正面に進出して得た情報に基づくものであり、その諸元を得るために戦闘や損失が発生することもままあったことから自衛隊好みな大火力を用いた一方的アウトレンジを行うことができない歯がゆさも含んでいた。
航空自衛隊、海上自衛隊に比べて死傷率の突出した陸上自衛隊だが、絶対数が少ないこともあって志願者の有意な減少という形では顕在化していなかった。しかし航宙自衛隊*4 も含めた四自衛隊のなかで、陸上自衛隊がひときわ目立つことが国会で問題視されたことから、将来の陸戦のありかたもふくめた抜本的対策が指示された。
長らく同盟国との相互運用性と仮想敵に合わせた対処療法的ドクトリンと装備体系の整備に腐心してきた陸上自衛隊は、普通科隊員を殺すなという至上命令に予算が伴うことでアバンギャルドと言って良い回答を導き出すことになる。つまり、視程が短いなら高いところに視点を置けば良い、射程が短いなら武装を高いところに持ち上げれば良い。
高所に置かれたセンサーターレットより陸戦兵器としては破格の12キロ超の直接視程*5 を確保することで、従来の戦車、対戦車ミサイルの射程2~8キロを直射兵器でアウトレンジする。視程を確保する全高12メートルのプラットフォームには、その高さから車両形態ではなく人型のロボット兵器とする。全備重量は車両制限令における軸重を超えない範囲である20トンを目安とし、ガスタービン発電による電気油圧駆動とする。
以上のアウトラインに沿って、防衛省技術研究本部が要素研究に入ったのは2072年のことである。防衛大綱の枠外とされ、期限と予算の定めのないこの計画は、関係者の「まるで道楽だな」という発言から、道楽作戦と通称されることになる。
*4 2040年に滞在人員2名の月面基地を完成させた中華人民共和国が月の領有を宣言したことから宇宙条約の空文化が始まり、軍用ステーションの建造や航宙艦の配備が始まった。月面への拠点建設では出遅れた日本であったが、大量のロボットを月面に送り込み無人基地を建設、資源を集積したのち、12隻の無人宇宙駆逐艦を建造することで宇宙護衛総隊を設立した。
*5 この種の発想には西ドイツ(当時)のジラフ駆逐戦車という前例があった。レオパルド1戦車のシャーシを流用し、対戦車ミサイルHOTのランチャー16基と照準装置をアームで最大14メートルの高さまで持ち上げて稜線や樹林越しに攻撃を行うというものであったが、冷戦の終結によって開発は中止された。
議会という権威と予算という後ろ盾を得たものの、人型兵器は技術上あるいは機械的信頼性の課題もさることながら、何よりもその戦術面における不利、脆弱性の指摘がなくなったわけではない。過大な前面投影面積、自重を二本の脚で支えることに起因する高い接地圧による地盤の制限、射撃プラットフォームとしての安定性の欠如、兵站の増大等々、主戦兵器とするには問題が多いとの批判が行われたのは事実である。
しかし技本はこの兵器をいきなり戦車代わりにする意図はなく、まずは戦場における観測点、歩く望楼として機能させることを目指した。「ウォッチタワー」の開発名が与えられた機動哨塔では、センシング能力の確保と機動性の確立が図られた。
可視光外も含む光学による全周警戒のほか、電波、音、放射能・化学分析から気象観測まで様々なセンサーの搭載や、それらの情報を単独で処理できるだけの演算資産、ならびに各部隊や上級司令部あるいは自衛隊外ネットワークとの連接を行うためのアンテナと通信装置の開発は、熱・振動対策まで含めて順調に進展した。
一方で機動性については歩行機能の成果と限界が同時に確認された。最初の技術実証機の移動速度は毎秒1歩、歩幅5.5メートル、時速にして20キロであり、戦略機動においてはトレーラーによる運搬に頼るとしても、戦場における移動速度としては更なる向上が望まれた。しかし3メートルの超堤能力は、装軌にせよ装輪にせよ車両ではあり得ない数値であり、また装軌車両で履帯長の半分が目安と言われる超壕能力についても、壕の縁の地盤に拠るとは言え4メートル以上となり、壕の深さが3メートル以下であれば、一旦壕に降りてから上がれば良いことからほぼ無制限との評価を受けた。
また、登坂能力は通常歩行状態で装軌車両と同等、堅固な地盤であれば50度以上でもマニピュレータ*6 で姿勢を安定させながら進行可能で、特筆すべきは車両のような傾斜角による横転の危険が無いことであった。この能力は瓦礫やバリケードで道路が封鎖された都市部や、山岳地帯においても普通科に追随できるものとされた。実際、車両であれば車体底面がひっかかり「亀の子」と呼ばれる状態になる軟弱な地盤であっても、機動哨塔は「足元を踏み固めながら」進行することができた。懸念された泥濘地における接地圧についても、試験の結果、脚が抜けなくなる場合の深さは2メートル以上であったことから、深耕が深くても30センチ程度の水田が行動阻害の要因になる可能性についてはほとんど無視された。
*6 試作機と78式機動哨塔の武装は当初の計画と異なり胴体コックピットブロックにマウントされた25ミリ機関砲のみであったため、腕部は単にマニピュレータと呼ばれた。後に腕部で武装を保持、射撃するようになった際にウエポンシステムラックと改称されている。
自衛用の25ミリ機関砲のみを装備し「78式機動哨塔」として制式採用された史上初の「人型大型ロボット兵器」は20機が低率生産され、4年をかけて富士学校での運用研究が行われた。長射程直接射撃の機能こそオミットされたものの、期待された前線での監視能力の向上、戦場ネットワークにおけるノードの能力強化については所期の目的が達成された。
従来は4台のトラックで展開していた戦場情報処理センターが複合装甲で防御されて最前線の普通科隊員の隣にあることは、携行できる機材に限りがあることから戦場ネットワークより取りこぼされることもままあった普通科分隊にとって、情報共有の確実性の向上となって現れていた。また、支援を求めても天候や機材の都合によってはそれを得ることができない航空偵察や、消耗品のために在庫数量によって使用の制限を受けたり、あるいは損耗・減耗して使用ができないこともある戦場監視無人機に比して、直接的な監視手段を継続して利用できることも評価された。
一旦は棚上げされた機動性ではあったが、装輪、装軌の兵員輸送車で乗車移動する普通科に追随できないことが改めて指摘された。技本もこれを認め、武装、防御力を含めた対策に取り組むことになる。
部内から再三指摘されたものの用兵側が順位を下げたことで後回しにされた機動性であるが、夜間観測能力の強化ならびに対機甲を含む本格的な全天候戦闘能力の実装とあわせた改良計画が練られた。計画名を「ナイトウォッチ」とした技本の解決手法はひどく直接的なものであった。すなわち、各部モーター、アクチュエータの高出力化・高レスポンス化による機動性とペイロードの増大である。フレーム素材の変更、搭載人工人格の更なる高度化も合わせて、2080年代初頭には「走る」機能を達成し、この際の実機、シミュレータを含めた膨大な転倒演習の成果を取り入れることで、一見すると理解し難いバランス能力を獲得していた。
数次の改装を経た技術実証機は、ウエポンシステムラックに3トンのバラストを保持して舗装路を時速70キロで走行した状態から意図的に転倒、両膝を着いたまま上体を反らして歩道橋の下をスライドしながらくぐり抜け、再び走行状態に復帰するデモンストレーション*7 を行った。また、120ミリ滑腔砲を手持ちして発砲、3キロ先の不整地を50キロで移動する標的に初弾命中させている。もちろん20トンそこそこの重量と高重心で500KNもの反動を吸収できるわけもなく、バランスを崩しながら上体をよじって復帰する様は、見るものに奇異な印象*8 を与えた。防御力を間接的に構成する機動性であるが、それをもう一歩進め、対砲迫レーダーと画像認識の組み合わせによって飛来する砲弾を避ける機能の実装も試みられた。コックピットブロックに対しての射撃を両脚を地面から離すことなく回避する様*9 は、オートバランサーと駆動系の熟成を示すものとなった。
最終的に主武装には105ミリ低圧砲が選択されたことで10キロ超の狙撃能力を備え、直接防護としてコクピットブロックを始め主要部にセラミック複合装甲を施した第二世代は「85式機動哨塔」として正式採用され、部隊運用効率の向上による自衛官の安全確保という目的は一応の完成を見ることとなる。
*7 「ニースライディング」は駐屯地創立記念行事における人気の出し物であった。
*8 射撃反動を全身で受け止める様は「タコ踊り」と評されたが、ニースライディングと異なり制式装備でないことと、何より危険であることから一般に公開されていない。
*9 映画の1シーンから「マトリックス」と称されたデモは、一度だけ富士総合火力演習で一般公開された。無人状態での運用であったが、現役の国有財産に実弾を射撃したことが野党によって大問題とされたことから、以後は沙汰止みとなった。
当時の防衛大綱によれば、85式機動哨塔は方面隊ごとに定数を24機とし、出動時には3機を1隊として運用、戦場の管制にあたることになっていた。その事情が字義通り吹き飛んだのが米中露の全面核戦争*10 であった。日本は前世紀末に端を発する偏執狂じみたMD構想による多層防御*11 によって本土への着弾こそ防いだものの、先進国都市部工業地域はおろか、世界中の穀倉地帯、資源地帯をも照準に含んだ絶滅戦争によって地球の工業力や食料生産力は10年を経ずして200年ばかり押し戻されることが確定的となった。
日本政府は全国民の宇宙への退避を決意し、残された工業力を総動員して軌道上ならびに月面へのコロニー建設を行う決定を下した。戦前に世界で3基が稼働していた軌道エレベータはすべて戦災によって破壊されていたことから、自国民の輸送のためにはこれの再建を行わねばならなかったし、共産党残党による軌道テロへの対策からも宇宙艦隊の増強が不可欠であった。本土防衛は当然として、日本に資源や食料を輸出する友好国の防衛責任もあらたに発生した。降って湧いた任務の爆発的増大に対して軍用人工知性体の戦闘従事制限を時限立法で解除し自衛隊規模を水増しする方策も採られたが、そもそもこの非常時おいて自衛隊に割り当てるべきマンパワーそのものが払底しており、大量の国債発行によって予算を確保しても部隊や人員を劇的に増備できる状況になかった。
しかし西はアフガニスタンから東はアメリカ西海岸、南はオーストラリアまで部隊派遣の要求は出されおり、とはいえ馬鹿正直に薄く広く部隊をばら撒いた場合、現地の敵対勢力に短期間ですり潰されるのは目に見えていた。その折に人員を極限まで削減しつつ部隊規模を維持する方策として眼をつけられたのが機動哨塔であった。
*10 この時期、世界人口100億人の1/3を中国と中華系国家が占めていた。事実上の植民地であるアフリカ諸国の人口を含めるとその比率は1/2を超えたが、経済力は1/4に届かず、アメリカのGDPを抜くことができないまま詰めたはずの差を再び広げられていた。200年前から人口の持つ潜在的な市場規模で外資を取り込み、時代が下っては人口で常任理事国の座を得て、今世紀においてはアフリカ大陸の各国のうち貧乏な方から7割がたを政治的経済的に支配している中国にとって「世界の半分は中国のもの」という自己認識と、世界を覆う資本主義体制においては経済的商業的文化的技術的片田舎に過ぎないという現実とのギャップは放置できないものであった。20世紀の半ばに大国の威信を求めて始めた核武装は、冷戦終結後の「好き好んで軍事費を増やしたがる国はいない」という競争者不在のなかで、軍隊の強化そのものが目的と化した1世紀を経て米ロと拮抗する規模になった。不幸であったのは、かつての米ソが国が滅ぶ核戦力を集積し相互確実破壊を達成することで互いに「失いたくない現状」を尊重したのに対し、中華人民共和国は核戦争によって現状の支配序列が消えたあとにこそ人口差による早期復興で世界の覇権を握るというドクトリンに傾倒した結果、核戦争とは新世紀の中華秩序形成に至る一過程に過ぎず、他国民はおろか自国民でさえ核の犠牲にすることを躊躇する理由がなくなっていたことである。2088年のミリタリーバランスによれば、各国の保有する戦略核弾頭の総数は22万発であったとされる。
*11 当時の日本のMDは、航宙自衛隊の無人宇宙駆逐艦によるブーストフェイズ、海上自衛隊のイージス艦によるミッドコース、航空自衛隊のSAM、THAAD、ならびに陸上自衛隊の対空レーザー砲塔によるターミナルフェイズという多層防御が組まれていた。無人宇宙駆逐艦は開戦劈頭の奇襲攻撃によって半数が撃沈されたが、残存艦隊はさらなる交戦で全滅するまでの4分間で、日本向けに特に開発された14MIRV'sという重IRBMの8割、弾頭数換算で1万発相当を初期加速段階で狙撃することに成功した。それでも2000発以上の再突入体が投射されたが、同時交戦数3万6000発、備蓄ミサイル数各種合計12万発という本土防空システムの数の暴力によって阻止された。日本は非核三原則によって核兵器を持たないが故に自前の核抑止力を持たず、結果、直接的な核弾頭の迎撃能力の確保に傾倒したが、この方針は日本独自のものであり、ロシアの軍事評論家に「核を持たないためならいくら軍事費がかかっても構わないと考えている」と揶揄されたように、非常にコストのかかる方法であり、世界的には例外中の例外であった。他国は核報復能力あるいは核の傘と呼ばれる拡大抑止によって中国の核攻撃を抑止できると考えていたために万単位での核投射を阻止する手段がないまま中国共産党政府の思惑通りに壮絶な核交換を行うことになった。中国共産党政府は戦略原潜の第二撃能力を以って国家機能を維持する唯一の主要先進国となった日本に降伏を勧告したが、日本政府はこれを無視。種子島より予備の宇宙駆逐艦を打ち上げつつ容赦のない戦略原潜狩りを行い、アメリカ航空宇宙軍残存艦隊と共同で実施された中国本土への軌道爆撃とあわせて中国共産党の戦略核戦力そのものを抹殺した。
既に述べたように機動哨塔は過剰とも言える演算資源と索敵監視能力があり、強力な通信機能で常に本土とのネットワークを維持でき、また無人兵器群との親和性が高かった。本来は小規模な普通科であっても追随、密着して情報や火力を提供するための支援装備であったが、これを戦車やヘリコプターと同種の機動兵器と位置づけ、戦闘従事許可が下された普通科ロボットや無人攻撃機の支援を受ける、従来の想定とは逆の運用が提言された。
次期防衛大綱では定数の半数も調達しない予定だったものが全力生産してなおバックオーダーを抱える予算が組まれ、トレーラー運搬での戦略移動と脚による戦術移動というある意味のどかな機動力は、戦闘機用エンジンと空力デバイスを装備することでホバー移動と簡易な飛行能力まで備えることとなった。
105ミリ砲とチェーンガンのみだった武装は、ふたつの条約を脱退することで再生産が可能となった面制圧兵器のランチャーやSAMパッケージ、果ては対艦ミサイルやTHAAD、対軌道ミサイルまでもがFCSにフィッティングされ、一部の機体は水を太陽電池パネルで電気分解して駆動する水素エンジンと廃鋼材でも適当な寸法の伝導体であれば弾体にして極超音速に加速するレールガンを装備した無補給仕様に設定されて世界の果てで秩序を維持する任務に就いた。
主戦兵器の役割を与えられたそれらは従来の機動哨塔とは別に、全領域有脚地上攻撃機(All-round With-legs Ground Attacker:AWGA)*10 の名称が与えられたが、フレームとしては85式機動哨塔とほぼ同じものであって、AWGAとしての制式名は無かった。
*10 全領域有脚地上攻撃機(All-round With-legs Ground Attacker:AWGA)というネーミングについてはいかにもやっつけ感が強く「まるで高校生が辞書と首っ引きで付けたかのよう」と評されたが、ネイティブの関係者が「とりあえず言いたいことはわかるし、意味が通らないほど間違いというわけでもない」と言ったことと、発音が簡単であることからそのまま膾炙した。
85式機動哨塔は単座であったが、AWGAは85式同様の単座とコクピットブロックを拡大した複座の2タイプを基本とした。派遣部隊におけるAWGAの最小編制は複座1機、単座1機によるAWGA小隊であるが、展開先においては実際問題として24時間運用をせざるを得ないことからマンパワー不足を補うために複座2機、単座2機で2個小隊を編制し、これが事実上の最小編制となった。
このAWGA2個小隊に1個普通科小隊、1個普通科ロボット中隊(ただし普通科ロボットの場合、生身の自衛官による普通科と違い、1個分隊が11体、1個小隊は4個分隊、1個中隊は4個小隊から成る*11)、1個整備小隊(基幹人員3名の他にロボット整備兵64体)を加えて1個派遣AWGA中隊*12 とし、特科、航空支援、兵站については中隊に付属せず上級司令部より割り当てられた。
また、これとは別に単座型AWGA、49機を定数とした第1AWGA大隊が中央即応集団に1個だけ編制されていた。もっともこれは編制上のもので、実際には大隊規模で投入されることはなかった。
*11 AWGAは事実上の海外派遣専用装備で、やはり海外派遣専用装備であった普通科ロボットとの共同交戦能力が付加されていた。これには単なる戦術データリンクの追加のみならず、普通科ロボットをタンクデサントよろしく跨乗させるための把手や装甲化されたピットも含まれる。旧編成で増員された普通科ロボット中隊には歩兵戦闘車の定員外になるロボットが64体あり、AWGAは展開時には1個分隊の普通科ロボットを跨乗させ、周囲の警戒にあたらせた。
*12 本土のAWGA中隊が16機編制で1個中隊であることと比較すると、派遣の二文字が付いた途端に機数が1/4になるなど名前倒れもいいところであるが、6名のパイロットは基本、交代要員なしで派遣期間を過ごさねばならなかった。
短期間で7基の軌道エレベータ*13 を建造し、国民を宇宙に脱出させるにつれて縮小する日本のプレゼンスを当初の計画の範囲に留めるべく奮戦した無数の派遣AWGA中隊であったが、撤退に際して多くは人員のみの脱出となり殆どの機体は放棄された。積極的に機体が回収されなかった理由であるが、人工人格のほとんどが、法を守れ、国民の付託に応えよとの倫理教育と、派遣期間中に従事した戦闘行動とのギャップによって論理破綻を起こしたためであると言われている。
2099年、全国民の宇宙への脱出を宣言した日本政府は、日本領土の放棄を断固拒否した上で、軌道上に首都を移した。同盟国、友好国を含めて2億強の人口*14 が地球を離れたことになる。
その後、数年ほど軌道テロとその報復が続くが、航宙自衛隊宇宙艦隊*15 の拡充に伴って共産党残党の活動は低調になっていく。2110年に軌道進出を目指した共産党残党を出撃前に軌道爆撃で制圧して以降は、地球環境のさらなる悪化によって国家を維持する食料生産が不可能となったこともあって、日本政府にとっての脅威対象から除外された。
新世紀になった直後からNGOによる救難ミッションが行われたが、非武装の民間籍であっても撃墜される事件が続いたこともあり、さしたる成果を挙げられないままに打ち切られた。日本人がもう一度地球に関心を寄せるのは、絶滅したと思われた地球文明が再発見される400年ほど後のことになる。
(この項おわり)
*13 本来、軌道エレベータは赤道付近、かつ重力の弱い場所に建築すべきであり、事実、戦前に建設された軌道エレベータはアフリカのコンゴ、アマゾン川河口、インド洋のモルジブといった重力の弱い場所が選択していた。しかし建設期間短縮と防衛能力の限界から、100mGal以上重力的に不利になることを承知で、日本により近いボルネオ島に7基の軌道エレベータを集中して建築する決定を下した。当初は有力とされた海上プラットフォーム案が選択されなかった理由は、ブラジル沖の軌道エレベータが攻撃原潜の核魚雷で撃沈されたためである。
*14 核戦争後においても、米ロをはじめいくつかの国は宇宙戦力を保持していたが、本国の壊滅と軌道エレベータの喪失にともない、その戦力の再建はおろか維持も困難となっていた。国家を運営する政府機関が失われ、工業力も壊滅し、そもそも国民を養う食料生産さえ数年を経ずして激減する状況では地球上で長期計画に基づき戦前の国家群を再建するなど不可能であった。地球を脱出しても各国の軍用ステーションの収容人員が1000名を超えない以上、宇宙に1000万人単位で生活基盤を建設できるのは日本だけであり、日本主導の脱出計画に相乗りする以外に方策はなかった。同盟国、友好国の生存者は難民として日本政府に認定されたのちに優先的に宇宙に脱出した。生活基盤のある日本人の脱出は日本本土の生産能力を維持する目的からも後回しにされたが、スペースコロニーや月面都市はあくまで日本領土とされた。諸外国民は脱出後5年を経過した時点で「日本領に引き続き5年以上住居を有した」ことを理由に帰化を申請した。日本政府が二重国籍を認めないことから日本の保護を受けるには国籍を放棄せねばならず、日本国外への退去とは地球への送還でしか無い以上、選択の余地は無かったとも言える。
数年を経ずして航宙自衛隊以外の友好国宇宙軍は国家の構成員がいなくなったことから存続理由を失い(あるいは本国からの補給を失って組織装備を維持できず)武装解除された。20年ほど後に小型コロニーを自己資金で建造して国家を復興させようとの運動が始まったこともあったが、死文化していたとはいえ戦時に制定されたコロニー建造諸法が当時の諸外国のコロニー建造の要求を跳ねつけるために日本籍以外のコロニー建造を禁じていたことから、沙汰止みとなった。人口比で言えば日本列島出身者以外が過半であったにも関わらず日本政府の強権が維持されたのは、日本列島出身者以外に対してはなお入国管理法が適用され、帰化していても帰化取り消し、帰化していなければ在留許可取り消しという行政処分が「国外退去」「強制送還」という事実上の死刑として機能したことや、行政コストの節減のために日本語のみを公用語とし、出身母国語と日本語とのバイリンガルを可能とする電脳化手術を義務付けたことにある。その結果、二世以降はムスリムでさえラマダンのあとはクリスマスを祝い、除夜の鐘を聴き、初詣に参拝するようになった。(もっとも、公安関係がもっとも警戒していた原理主義者と呼ばれるイスラム過激派のほとんどは宇宙への退避を拒否していた。宇宙での戒律については21世紀初頭のインドネシア人飛行士に対するファトワが援用された。これはハラルも礼拝の時間もラマダンも当人の判断に委ねるというもので、それまでに出されていた各種ファトワの中で最も基準が緩かったためである)当然、生命を盾にとった文化侵略との批判は出たが、そもそも当初はコロニーを建造するのが最優先であり、どこのコロニーでも基本的に日本をモデルにした同じような生活水準、生活様式で、民族的習慣を継承するべき地理的気候的特色など発揮しようがなかったこともあり、排他的、宗教的、独自色の強い文化ほど日本の生活様式に取り込まれることになった。先の国外退去もコロニー占拠を目論んだ過激派のテロ事件において数千名を対象に実際に行われており、帰化日本人による宗教的民族的動機に基づくテロ犯罪への強力な抑止となったことは事実である。
*15 全面核戦争に付随する軌道上の戦闘において航宙自衛隊無人艦隊は壮絶な討ち死にを果たすが、軌道エレベータの再建に伴うデブリ除去の必要性から停戦直後から掃海艇の大量建造が行われ、軌道テロへの対処から有人の大型戦闘艦も建造された。だが、どんなに大質量であっても主戦装備が異なっていても艦載機を大量に搭載していても、他国とは異なり戦闘艦艇はすべて「宇宙駆逐艦」に類別されていた。