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今までの僕の人生の中で、これほど強烈な平手打ちを受けたことがあっただろうか。
いや、ないはずだ。
平手打ちを受けた左頬から反対側である右頬にまでその刺激が波動しただけではなく、平手打ちを受けた顔面の左半分は瞬く間に痺れを覚えた。確かに平手打ちは刺激の余韻が残ることが多いが、しかし通常ここまでの威力は有り得ないだろう。
その上、その人物の正体は張り手に長けた相撲取りでもなく、厳つい容姿をした元格闘家のような者でもなく、ただの長身女性なのだ――と、ただ、というのはあくまで容姿についてだけを述べたものであり、彼女の纏う絶対的で圧倒的な雰囲気については一切触れていない説明である。
省いたそれを含めて総合的に見た結果、彼女は明らかにただの長身女性ではなかった。
「よう、目ぇ醒めたみたいだな」
やっと気付いたか、というようなニュアンスが読み取れる口調だった。僕に対する心配は微塵も感じ取ることが出来ない。罪悪感とかないのだろうか。
「ええ、目は――醒めましたよ。見知らぬお姉さん、ありがとうございます」
頬を摩りながらも僕は律儀に浅くお辞儀した。
「ふむ、若いのにしては随分と礼儀正しいじゃないか――だが、その見知らぬお姉さんという呼び方は少々頂けないな。それはそれでミステリアスで隠しキャラを彷彿させるような一種のロマンがあるが、生憎今はそんなロマンに浸っているときではないんだ。残念ながらな――まあこんなところで名前を教えてやろう。私の名前は神谷聖呂という。ゴッドに谷にクリスマスに麻呂。そしてアラツーだ」
「アラツーですか。具体的には?」
「二五だな」
「じゃあそれアラサー――じゃないですよね、うん、アラツーですアラツー。だからまた平手打ちの準備をしないでください。力を溜めに入らないでください」
「ん? そうか? はっはー、いや私もまだまだ若いねぇ」
見た目とはかけ離れた単純な人だった。存外扱いやすいのかもしれない。
兎にも角にも、この神谷聖呂さんは美人である。美的感覚は人それぞれだけれど、こればっかりは譲れない。逆にこの人を美人ではないという奇特な人がいたらお目に掛かりたいものだ。今さっき二五という歳が判明したが、にわかには信じられなかったのだ――弱冠二五歳で、ここまで大人の美人の風格を放っているとは。良い意味で大人びている容姿をしていた。無論本人としては不服なんだろうが、僕としては背一杯称えたい。
ではそんな、実年齢の二五歳よりも大人びた(本人に言ったら何をされるか分かったもんじゃない)、神谷聖呂さんの容姿の特徴説明に移るが、先程言った通り長身である。確実に高校生標準身長を誇る僕よりも高い。アッシュカラーのパーマがかかったショートボブに、端正な顔立ち。唇のやや下部にある黒子が彼女という存在を演出している。十月中旬ということもあり、ダークカラーのモッズコートを着ている――そのせいもあるが体の凹凸は小さく、全体的にすらっとしていた。スリムな体つきをしていた。
「……どうした、急に黙り込んで。というかなんだよその目は。私を観察するように見やがって、ってまあ分からなくもないか。いいぞ、見て。ほれ見ろどんどん見ろ」
大袈裟に万歳。
その発言から神谷さんにはそういう性癖があるのかと思われたが、まあそういうわけではないらしい。単純に軽かっただけだろう……多分。
「もう観察し終ったのでいいですよ、万歳やめても」
「早いな。もしかして仕事を早く終わらせることに生きがいを感じる人間か?」
「そんなんじゃないですよ」
いきがいは感じてないにせよ、夏休みにしろ冬休みにしろ平日にしろ、宿題を後回しにするのが大嫌いなのは事実だった。例えば僕は長期休暇の宿題は必ず十日以内に終わらせている。絵日記は捏造、一行日記も捏造。嘘の思い出を書いていた嫌な小学生だった。
「それはどうでもいいんだけどさ、少年……と、君の名前も聞いておこうか」
「樫耶野七伍です。樫の木の樫、有耶無耶の耶、野原の野が苗字で、名前は漢数字の七に、軍隊の階級の伍長の伍です」
「そりゃご丁寧に。まあ知ってたんだけど」
あなたも言ったじゃないですか。大分分かりにくかったですけど。クリスマスってなんじゃい。麻呂ってなんじゃい。
っていうか知ってたなら聞くなよ。
「まあ半分無駄な自己紹介も終わったし……」
帯を引き締め直すように神谷さんは言う。
「今日中に君を助けることができてよかった。目を醒ますことができてよかった」
「はぁ……まあそうですかね」
「そりゃそうだろ。このまま気付かなかったら――どっぷりとここに浸かっていたら取り返しのつかないことになる。つっても、ここの異常具合に気付かないほど、君は鈍感でも、愚かでもないだろう……いや、君に限らないか。誰にも言える」
幾らなんでもこんな変化に気付かないはずがない。
要するに言いたいことはこういうことだろう。
その通りの言葉だった、だから僕も続けて言う。
「幾らなんでもこんな変化に気付かないはずがないじゃないですか」
「ああ、そうだよな。よかった。ここで君が鈍ったような、的外れなことを言うようならこいつでもう一発、君を」
神谷さんは自分の右手に視線を落とす。
さっきもそいつにやられた。武器でも兵器でもないただの手なのだけれど、あくまでそれは見てくれだけであって、そいつに秘められた潜在能力は規格外だ。
あんなビンタ、もう二度と喰らいたくない。
「まあ」
神谷さんはパンパンと注目せよと言わんばかりに手を打った。
「とりあえず軽く、君のいる状況をもう確認しておこうか。君の理解に間違いがあったらいけないからね。まあ身を以て体験した通り、ここは君がいた世界ではない。君にとって似て非なる世界、ほんの少しだけズレている世界だ。俗に言うパラレルワールドとか平行世界。ディストピアとかそんな物騒なところではないからひとまずは安心しな」
僕は相槌として首肯した。
そりゃディストピアじゃないことくらい一見しただけで分かる。
やはりこの世界はパラレルワルードだったか。理由は今現在では分からないが、まあこっちに飛ばされたのには何かしらの理由が必ずあるはずだ。あるいは単純に手違いというのもありそうだが……この人の様子を見る限り、それはないだろう。
「んーまあ君の前の世界がどんなもんだったかは知らないけど――今日一日、色んなことがあったろう」
「そうですね、いっぱいありました」
例えば表面張力は意味を成さず、役目を果たさず、コップに注がれた水はただただ溢れ続けた。
収束がつかない。
僕のCPUの処理速度が追いつかない。
それが、今日一日を過ごしての感想だった。
「転校生がやってきて、クラスの秀才が天才になっていて、友達の性格が少しばかりですが改変されていて――その他もわずかな変更が成されていました」
「うむ……その辺は私も知っているさ。そういうことがあった、というのは知っている。何がどのように変更されたのかは知らないけどな」
「と言うと……大方、つけられていたんでしょうかね。監視。悪く言えばストーカー」
「その通りだが、ストーカーというのは不服だ。君の為を思っての行動をそうマイナス的に受け取られるのは、まあ君の立場に立てばそう考えるのかもしょうがないのかもしれないがね」
実を言うと、全くそのストーカーに気付いていなかったわけではない。僕にそれを察知するようなスキルが備わっているから――ではなく、人間としての本能が当たり前に働いただけだ。背後に視線を感じているような気がするというのは気ではなくて、実際に感じているのだ。
しかしこの人の、神谷さんのストーカーは相当優秀だったろう。
人間の本能を以てしても、ストーキングされていることに、背に視線を受けていることに気付くことができたのは何を隠そうこの帰り道なのだから。
つまり学校にいる間は微塵も気付いていなかったのだ。それは僕が人間として欠如しているところがあるからとかではなく、やっぱりこの人が規格外だからなんだと思う。
正体不明の規格外とでも言い表そうか。