第25話『願い』-3
宿の屋上は、テラスになっていた。
一部屋分ほどの広さに、一面に雪が積もっている。それでも、雪下ろしをして間もないのか、歩けるほどにしか積雪はない。白い地面に足跡をつけながら、シャルロットはテラスのてすりに手をかけた。既に日も落ちているというのに、降り積もる雪の明かりで、町の景色はよく見えた。
はらはらと舞い落ちる雪、その宙に向かって手を伸ばした。限りなく舞い落ちる純白のそれは、いつ見ても美しい。胸にうずまくこの気持ちを吸い出して、一緒に地面に落としてくれそうだ。――そう。全部、全部、洗い落としてくれればいい。この怪我も、体を流れる忌まわしい血も、ワットへの想いも。
手のひらに落ちた雪をそっと握り、また広げる。
「……クシャン!」
さすがの冷え込みに、くしゃみが出た。逃げるように出てきたので、上着すら着ていない。当然といえば当然――。
「風邪引くぞ」
身を抱きしめた途端の声に、シャルロットは振り返った。ワットが、テラスの入り口で自分のコートを差し出して立っている。
「ワッ……」
言いかけで、ワットの放ったコートが腕の中に入り、言葉が途切れた。
「ワットが寒いよ……」
まだ温かみのあるそれに、シャルロットは目をそらした。
「俺は大丈夫だ。お前より、寒さに慣れてる」
シャルロットは唇を噛んだ。――何で。何でそんなに優しくする。もう、放っておいて欲しいのに。
それでも、その優しさを心のどこかで嬉しく思ってしまう。それを制御できない自分が、また嫌だった。
「私、もう中に戻るから……!」
ワットにコートをつき返し、シャルロットはテラスの入り口に手をかけた。しかしすれ違う前に、ワットがその腕を掴んだ。
「待て、少し……」
その瞬間、シャルロットの全身がそれを拒絶した。
「やだ!」
弾かれるように手を払った。思わず重なった視線に、シャルロットは我に返った。――今、何を?
「ごめ……!」
シャルロットは口を覆った。あまりの反応に、ワットは目を見開いている。しかし、それよりもはるかに、シャルロットはショックだった。――いつから、こんなに人に触れられるのが怖くなったのだろうか。人の温もりが、大好きだったはずなのに。
自分の両手を見下ろした。それは、まるで自分の手ではないようだった。――忌まわしい体。シャルロットの視界が、涙で揺れた。
「私……!」
――もうだめだ。何も分からない。涙がこぼれ落ちても、それすらもどうでもよかった。
「……もうやだっ……! やだよ! こんなっ……!」
「おい?!」
「触らないで!」
触れられた手を、全力で払った。――嫌だ! 怖い!
「どうしたんだよ!?」
「私変なの! おかしいんだよ! この手も……、私のなのに……私のじゃない……! 誰かに触ると、心が見えるの!」
ワットの目が、大きく見開く。対照的に、シャルロットの細めた目からは涙が溢れた。
「……怖い! もうやだ! 私は……」
「おい!」
泣き叫ぶシャルロットの両腕を、ワットが掴んだ。
「いや! 触んないで!」
「しっかりしろ!」
耳元の怒鳴り声で、シャルロットは我に返った。体が、動かなかった。
「お前はお前だ! 何か見えるってんなら声に出して言ってみろ!」
ワットに、抱かれていた。その温もりに、シャルロットは頭が真っ白になった。何も、浮かばない。
「……まだ見えるか?!」
ワットの胸の中で、視界は真っ暗だった。
「……見え……ない……」
体の中で、急速に何かが溶け出した。なぜ何も見えないのかも分からない。何も、考えられない――。
張り詰めた糸が急速に緩み、それが地に落ちるように。シャルロットはそのまま、何もわからなくなった。
シャルロットが目を覚ましたのは、暖かい部屋のベッドの中だった。
(……宿の……部屋?)
わずかに覚えのある景色に顔を傾けると、ベッドの向こうの窓辺に、ワットが座っているのが見えた。
「……気がついたか」
ワットが窓辺からベッドに近づいた。同時に、寝起きの頭に記憶が蘇る。
「私、気……失って……」
言いかけで、シャルロットは布団を頭までかぶった。――知られた。あわせる顔なんて、無い。
ベッド脇の椅子に、ワットが腰掛けた。
「いつからだ。いつからお前……」
ワットの低い声に、シャルロットは答えたくなかった。自分でも、いつからこんな体になってしまったかなど、わからない。
「……何で一人で抱えてた? 誰にも言わねぇで……」
(言わなかったんじゃ……ない)
――言えなかっただけだ。皆に気味悪がられて、嫌われるのが怖かった。本当は、ワットにだって知られたくなかったのに。
シャルロットは布団の中で目をつぶったまま、返事ができなかった。
ワットが、小さく息をついた。
「……俺なんかとは、話したくもねぇか……」
――違う。そう言いたくても、声は出なかった。
「じゃあ、そのままでいいから、少し……聞いてくれるか?」
その声は、いつもとは違っていた。豪快な声とは違う、か細い声。シャルロットはわずかに布団から顔を出した。しかし、ワットはうつむいたまま、気がついていない。
「お前と旅を始めてしばらく経つのに、俺の事は……あんま話した事なかったよな。いつもお前の話ばっか聞かせてもらって……。兄貴の事、友達の事、宮殿の事……。俺が住んでたんじゃないかって錯覚するぐらい……」
――いつも? シャルロットは、いつもワットと何を話していたかなど、思い出せなかった。あまりに遠い、昔のような気がした。あの頃、どうしてあんなに笑っていたかなんて。
「俺が今まで自分の事を言わなかったのは、……俺にはお前みてえに自慢できる家族も、ダチもいなかったからだ。……家族は、俺がガキの頃に……全員死んだ」
ワットが顔を上げると、シャルロットは目をそらせなかった。
故郷の村を失っているという事は知っていた。だが実際、ワットの口から聞いたわけではない。改めて聞くと、ショックで言葉が出てこなかった。シャルロットから目をそらし、ワットが続けた。
「生まれは、ウェイの村のすぐそばのエトゥーラ。お前も……ニース達だって知らねぇような小さな村だ」
「……エトゥーラ」
本当は、知っている。ウェイ達との会話を、あの時聞いてしまったから。
「あの辺の村の話は聞いたろ? 死んだのは……殺されたからだ」
低い声に、シャルロットは胸が締め付けられた。
「村が襲われた時……母親は俺を小さな箱の中に隠した。どんなに悲鳴が聞こえても……俺はただ震えてそこに隠れてただけで……」
なぜそんな話を自分にするのか、シャルロットには分からなかった。だがそれ以上に、こんなに弱々しく話すワットは、初めてだった。そのこぶしが、強く握られるのが見えた。
「俺は……あの時の自分が許せねぇんだ……! ただ隠れて……殺されたって、なんであそこから出て家族を助けようとしなかったのか……ってな!」
「そんな!」
思わず起き上がると、ワットが驚いたように顔を上げた。シャルロットは目を細めた。
「そんな事……言わないで……!」
自分を責め想う姿は、まるで自分を締め付け、傷つけているかのようだ。ワットが目を伏せ、立ち上がった。
「俺は……お前が思ってるような奴じゃねぇ……」
窓辺に立ち、ワットはシャルロットに背を向けた。窓に映る景色は、もう真夜中だった。それでも、まだ雪は振り続けている。
「どんだけ外の世界を回っても……俺は、あの頃のままなんだ」
その背に、かける言葉が見つからない。
「結局、そんなガキが一人で残っても、砂漠で生きていけるはずもねぇ。どっかの賊団に入って生きる道もあっただろうけど……それだけは死んでも嫌だった。俺は、近くの村にいた旅人に頼み込んで、東の大陸に渡ったんだ」
「……東の……土の国?」
以前、どこかで聞いた言葉だ。土の国に住んでいたことがあると。「……ああ」ワットが答えた。
「その後は……人の協力もあって何とか生きていけた。いい町だったからな。そこでずいぶん長い間暮らしたよ。ちゃんと働いて……恋人もいた」
ワットが振り返っても、シャルロットは何も言えなかった。
それを聞いてショックだったのか、それとも、自分の知らない話が聞けて安心しているのか。シャルロットはただワットを見つめる事しかできなかった。ワットが、小さく笑った。再び、窓の外に視線が戻る。
「俺はまだガキだったから、周りが見えてなかった。結局、利用されてただけってのにも……気づけなかった」
とても、寂しげな声に聞こえた。
「長い事暮らして……考え方も変わった。十七であの大陸を出る頃には、誰も信用できなくなってたよ。もう二度と、誰も信用しない。そう決めて、西の大陸に戻った」
「……何で?」
その言葉は、とても悲しく思えた。――たった一人で。兄や友人達に囲まれて育ったシャルロットには、考えがたい言葉だ。しかし、その声はあまりに小さく、ワットには届かなかった。
「……盗賊になって……自分の保証は自分で作った。誰かとつるんで騙されるのも……騙すのも……もうごめんだった。裏切られるのは……嫌だったんだ」
シャルロットは胸が詰まった。目の奥が熱くなり、いつのまにか、涙がこぼれ落ちていた。
「何で……何でそんな話……するの」
そんな風に一人で生きて、どれだけ自分を傷つけてきたのか。そして、それを癒してくれる人もいない。
「お前らと会ったのは……そんな生活がだいぶ長く続いた頃だ。最初は、気の強いガキだって思ったけど……驚いた。何の保証も無しに、何の気負いもなく人を信用できるお前が……羨ましかった。こんな時が、俺にもあったのかって……そう、思ったよ」
シャルロットは手を握り締めた。――ワットが羨ましかったのは、自分の方なのに。
(私だって……、強くて……いつも自信があるワットに……憧れたわ)
「兄貴に借りを返したかったのは本当だ。でも、それより……俺はもっとお前と話してみたかった。消えちまった何かを……見つけられそうな気がしたんだ……。だから俺はお前とニースと一緒にここまで来た。……結局、なんも変わっちゃいねぇけど」
「そんな事……!」
嘲笑を含んだ言葉に、シャルロットはベッドから降りた。
「そんな事ないじゃない! いつも私達を助けてくれて……! 大怪我しても……私を助けてくれたじゃない! ワットは……私なんかよりもずっとずっと……強くて……優しいよ……!」
口走ったシャルロットの言葉に、ワットが小さく笑った。
「そりゃ、買いかぶりだ。偉そうな事言ったって……俺は、あの頃の臆病なガキのままなんだよ。だから……。自分が傷つくよりも、俺はお前を傷つけた」
一瞬、シャルロットは唇を噛んだ。
――傷つかなかったと言えば、それは嘘だ。どれだけ痛みに耐え、涙を流したか。どれだけ心に嘘をつき、忘れようとしたか――。
「……最悪だよな。お前の笑った顔を見てたかったから……守ろうと思ったのに……。俺が、お前を傷つけてるんだからな」
シャルロットは顔を上げた。いつも見ていたワットの背は、こんなに寂しい背だっただろうか。自分は今まで、一体何を見ていたのだろうか。
手を伸ばし、シャルロットはその背を抱きしめた。
「……それでも……私はワットが好き……」
涙が頬を伝うのがわかった。
「ワットが誰も信じられなくても……。強くたって、弱くたって関係ない……。私はワットが好きなの。私だって……ワットに、ずっと笑っててほしいの……」
ワットから見下ろされる目に迷いがあっても、その目が何を言わんとしているのか、シャルロットには分からなかった。
それでも、シャルロットの中で溢れる感情は、何よりこの人に笑ってくれることを望んでいた。
「……忘れるなんてできない。そばにいたいの。好きでいさせてほしい……!」
一瞬、ワットの顔が歪んだ気がしたが、それはすぐに見えなくなった。ワットに抱かれると、暖かさが体を包み、何見えなくなった。
「お前は……ホント強いよな……。俺なんかより……ずっと」
消え入るような声で、ワットがささやいた。
「……そんなこと無い」
――こうしている今も、怖い。また、拒絶されるかと思うと。
それでもシャルロットは、そうせずにはいられなかった。
「ワットは……一人じゃないんだよ」
シャルロットは目を閉じた。そう、もう悲しまないで欲しい。自分が、いつだって一緒にいるから――。
ふいに、額の濡れた感触に、シャルロットは顔を上げた。ワットの頬に、涙が伝っていた。それでもワットは、それを拭おうともせず、ただ、自分を見下ろしていた。
「……ごめんな」
ワットが、落とすように呟いた。その両腕が、強くシャルロットを抱きしめる。その腕は、とても暖かかった。
「俺には、お前を受け止めきれないかもしれない……。でも、俺はお前を守りたい……。それでも、許してくれるか……?」
シャルロットは、言葉が出なかった。ワットが自身を責めるのをやめてくれた事で、心に安堵が広がった。それからゆっくりと言葉が頭に入ってくると、その腕の中で、小さく頷いた。