第25話『願い』-2
「……で、大丈夫だったの?」
二時間後、暖まった宿の一室で、メレイが言った。
頭に包帯を巻いたシャルロットが、ベッドの中から体を起こして小さく頷いた。横目で見るも、ワットとエディ、パス、アイリーンも、座っているというのに、誰一人、口を開こうとしない。
「ワットが早く戻ってきたから……」
包帯を巻いて大げさになってしまったが、頭は軽く切っただけだった。どちらかというと、殴打した方が重く、あざが出るだろうとえディが言っていた。
「見た目より酷くないわ」
「すみません。……周囲には気をつけていたつもりだったんですが……」
そう言ってうつむくエディにも、口元に殴られた跡が赤紫に残っている。
「お前が謝ることじゃねぇよ」
窓辺に座ったままのワットが、顔も向けずに言った。
「そうね、これからはワットかニースがちゃんと一緒に入ればいいことだし……」
途端に、パスが立ち上がり、メレイは言葉をとめた。しかし、何も言うわけでもなく、パスは黙って部屋を出て行った。
「……何だ? あいつ……」
ドアが閉まると、アイリーンがドアに目を向けて呟く。
「腹、減ったな」
ワットは立ち上がり、パスと同じく部屋の外に向かった。シャルロットは慌てて顔を上げた。
「ワ、ワット!」
瞬間、振り返ったワットと目が合った。それと同時に、体が萎縮する。シャルロットはすぐに目をそらしてしまった。まだ、正面から話すのは――怖い。
「ごめん……。ありがと……」
「……お前が謝る事じゃねえだろ。それより、もう俺達のいない間に無茶すんなよ」
ワットは、そのまま部屋から出て行った。自分に向けられた言葉が、酷く久しぶりな気がした。胸が詰り、布団を握る力が強まった。
ドアが閉まったところで、アイリーンは息をついた。ワットが出て行ったことで、緊張の糸が切れたかのように。
「……にしても、さっきのワットは怖かったよな」
同意を求められたエディが、小さく呟く。「ワットってもっとただの軽い奴だと思ってた」口を尖らせ、アイリーンが続けた。
「しかもすっげー強いし。……ビックリした」
「ワットさんがあんなに怒ってるのは、初めて見た」
二人の視線が、同時にシャルロットに戻ってくる。しかし、シャルロットは気絶していた為にそれを見ていなかった。
「シャルロットが血ぃ流して倒れてたからな」
アイリーンの言葉に、シャルロットは「え?」と返した。
「じゃああの時と同じくらいかしらね」
思い出したように、メレイが言った。「あの時?」アイリーンが、首をかしげる。
「ええ、前に砂漠で……」
言いかけで、メレイは言葉を止めた。
「……ま、この話はいいけど。とにかく皆無事でよかったわ。ニースの奴、早く帰ってこないかしら」
メレイは窓の外を眺めた。
――私を見て、怒ってくれた。
その言葉に、シャルロットはいつの間にか目の奥が熱くなっていた。
廊下を曲がったところで、ワットは手を抱えて苦痛に耐えているパスに遭遇した。
「……何してんだ?」
直前にした大きな物音は、どうやらパスが壁を叩いた音らしい。おまけに、涙目になった顔を見られぬように、パスはすぐに顔をそらした。「おい?」と足を向けた途端、パスが背を向けたまま顔を上げた。
「……オレ。また、役に立たなかった」
その手は、硬く握り締められている。
「お前らみたいに、強くなるって決めたのに……! 結局、お前に助けられて……いつまでたっても変わんねぇ!」
再び、その手が壁を全力で叩く。同時に、その痛みでパスはそれをもう一方の手で押さえた。
ワットは息をついた。
「……お前なあ。まだガキなんだからそんなに気張んなくたってそのうち……」
「今強くなきゃ意味ねえじゃねぇか!」
遮って言い捨てると、パスはそのまま廊下の先に消えた。
「……ったく、どいつもこいつも……!」
静かな廊下に残されたワットは、行き場のない思いに髪をぐしゃぐしゃにした。
ニースが宿に戻ってきたのは、雪も弱くなった夕方だった。空は厚い雪雲に覆われたまま、静かに夜の闇へと入り込む。
「遅かったわね。出国状は貰えたの?」
体についた雪を払うニースに、部屋のシャルロットとメレイ、アイリーンが振り返った。「ああ、これでも急いだんだが……」メレイと話しつつも、ニースはすぐシャルロットの包帯が目に入った。
「どうしたんだ……?! その怪我……」
「ちょっとトラブってね」
まるで何事もなかったかのように、メレイが答えた。心配の色を含んだニースの目に、シャルロットは慌てて笑顔を作った。
「み、見た目ほど酷くありませんから……」
「誰にやられた」
作り笑いは、ニースには通用しなかったようだ。眉をひそめた顔に、アイリーンが手の指輪を見せた。
「この辺の連中。コレ、狙ったみたい」
ニースはメレイを振り返った。
「お前がついていながら……」
「ごめんなさいニース様、メレイとワット、いない時で……。でも、ホントに大丈夫ですから。ワットが……助けに来てくれたので……」
うつむくシャルロットに、ニースはそれ以上問い詰めるのをやめた。
「大丈夫ならいいのだが……」
ニースの視線が、再びメレイに向く。その目が何を言いたいのかは、無言でも充分に伝わってくる。目をそらし、メレイが息をついた。
「わかってる。一緒にいれば、私だってこの子達に手なんか出させないわよ」
重くなった空気に、ニースが話題を変えた。
「ワットとパスは?」
「大きな部屋がなくて、部屋を二つ取ったの。あんたもあっちよ」
メレイが、壁の向こうを指差した。
「わかった。……ミラスニー家から出国許可証を貰った。明日はミラスニー・ノラを出て、港町に向かえる」
「なーんだ、あたし達は雪の城には入れないのか」
アイリーンが口を尖らせると、ニースは小さく笑って部屋を出て行った。ドアが閉まった途端、シャルロットは自分の事を思い出した。
(やだ私……!)
思わず、両手で口を押さえた。今更、気がついた。――ワットの事で頭がいっぱいで、ニースの付き人としての役目も果たしていなかった事に。
一体、何をしているのだろう。想いの届かない人を想い続け、怪我をして皆に心配をかけ、その上仕事すら満足にこなせていないなんて。
こみ上げる情けなさに、涙で視界が揺れた。ベッドの上で膝を抱え、顔を埋める。「どうしたんだ?」急に肩を落としたシャルロットに、アイリーンがそのベッドに乗った。
「……何でもない」
シャルロットは顔を上げられなかった。
「まだ頭痛いのか?」
腕を撫でる手から、心配が伝わってくる。優しくされると、余計に涙が止まらなかった。
「ワットとの事、考えてたんでしょ」
メレイの声に、シャルロットは思わず顔を上げた。涙が、頬からこぼれて布団に落ちる。シャルロットの顔に、メレイは、やっぱり、と言わんばかりの顔をした。
「顔に、そう書いてある」
「え……うそ! シャルロットってば、あんな野郎のどこがいいん……」
アイリーンの声は、シャルロットが再び膝に顔を埋めたことで消えていった。
「私……最悪。ワットの事が気になって、仕事も忘れて……、今日だって足手まといで……。もう、ニース様と一緒に旅なんて出来ないよ……。……ワットと一緒になんて……いられない」
涙で、布団がじんわりと濡れていく。――自分がこんなに嫌だと思った事は無い。何一つ満足にできず、どうしたらいいのかも分からない。アイリーンが隣で優しく肩を撫でてくれても、顔を上げられなかった。
その時、ドアをノックする音に、アイリーンが振り返った。
「入るよ」
同時に、エディの声。「ち、ちょっと待った!」即座に立ち上がり、アイリーンがドアを少しだけ開けた。その様子に、エディが首をかしげる。
「どうかした?」
「い、今ちょっと込み入ってんだ。何?」
「このリュック。アイリーンのだろ? ワットさんが持ったままだったから」
「あ、ホントだ! ありがとね」
部屋の空気を読み取られないように、アイリーンは勤めて明るい声でそれを受け取った。
「あと夕飯をあっちの部屋に用意してもらったから皆も……」
途中で、エディはアイリーンの頭の上から、部屋の奥のシャルロットが目に入ってしまった。同時に、「あ」とアイリーンがそれに気がついた。
「(……シャルロット、どうかしたの?)」
「(あー……んーっと……。何か、色々あんみたいだな。あいつらも)」
小声で、目をそらしながらも、アイリーンはそれ以上ごまかしきれないと悟ったのか、エディとすれ違って隣の部屋へと歩いて行った。
シャルロットはベッドから降りた。いつまでも、ここでこうしているわけにはいかない。皆に心配をかけるだけだ。
「……ちょっと外出てくる」
――頭を冷やそう。一人になりたい。一瞬、エディと目が合ったが、すぐにそらした。
「でも、外は危ない……」
エディの声に、「屋上出るだけだから」と言い残し、シャルロットは部屋を出た。
ドアが閉まると、残されたメレイとエディは顔を合わせた。
「……シャルロット、どうかしたんですか?」
エディの言葉に、メレイは息をついた。「何とも言えないわね」そう言いながら、エディの後ろのドアを開ける。廊下に出ても、既にシャルロットの姿はなかった。
「……ワットさんとの……事ですか?」
メレイが、わずかに目を開いた。
「何でそう思うの?」
エディが、言いにくそうに顔を上げる。
「旅に出たばかりの時、あの二人は、恋人だと思ってました」
思わず、メレイは笑ってしまった。
「あの頃、そんなに仲良くしてたかしら」
「シャルロットが倒れたとき……。ワットさん、ずっとシャルロットの事を気にしていました。あまり他人に関心を持つ人だとは思ってなかったし……」
――あの宿で、ワットはシャルロットにキスをしていた。
言いかけた言葉を、エディは飲み込んだ。「でも、シャルロットをとても大事そうにしてて、それで……」
その時、隣の部屋のドアが開いた。出てきたのは、不思議な取り合わせに瞬きをするワットだった。
「何してんだ? ニースがメシだって呼んでるぜ」
「ちょうどいいわ、ちょっと来なさい」
メレイが、ワットに自分達の部屋をあごで指した。「何だよ?」ワットが眉をひそめる。
「いいから来な」
命令口調を残し、メレイが自分達の部屋に戻ると、ワットは首をかしげてエディの横を通り過ぎた。エディも一緒に部屋に入り、戸を閉めた。
「……何だよ」
楽しげとはいえない雰囲気に、ワットが頭をかく。メレイが腕を組んで振り返った。
「何だよじゃないわよ。あんた、シャルロットが今どうしてるか知ってる?」
「知るわけねぇだろ……って、どこ行ったんだ?」
――言われてみれば。この二部屋にもいないとなると、今更首をかしげる。しかし、メレイは答えなかった。代わりにワットの視線がエディに向くと、エディは視線を床に落とした。
「ワットさん、……以前、僕に口止めしましたよね。あの時は、どういう意味か分らなかったけど……」
その先に続く言葉が、ワットにはすぐに察しがついた。「……ああ、あれ」その目が、エディから自分を睨むメレイに戻る。
「こいつに言ったのか?」
エディは首を横に振った。
「……じゃあそのまま忘れてくれ。どうかしてたんだ」
「僕には黙っていられません!」
エディが顔を上げた。ワットを睨む目など、初めてだろう。
「シャルロットを見てると……無理して笑ってるようにしか見えない! シャルロットがいつもあなたの事を見てるのは、見れば分かります! あなただって……!」
言葉の途中で、ワットの手がエディの頭に乗った。
「お前は……ホント優しいよな」
その顔は、わずかに微笑んでいた。しかし、そんな事を言って欲しいわけではない。エディはその手を払った。「ワットさん、僕は真面目に……」
「お前には関係のない事だ」
ワットがそのままエディを通り越して部屋から出ようと足を向ける。
「関係ないとは言ったものね」
メレイの言葉に、ワットが足を止めた。
「皆一緒に行動してるのよ。あんた達の影響が、全くないとでも思ってんの? あの子、旅をやめたいんですって。あんたと一緒にいるのが辛いから」
ワットの目がわずかに見開いたが、それも一瞬の事だった。
「最近のあんた、少しおかしいわよ。前は、毎日あの子と一緒に笑ってたのに、今は自分から離れてる」
「それは……」
「あの子があんたの事を好きだって言ったから? それだけには見えないけど」
まるで責めるようなメレイの口調に、ワットは舌を打つような顔で目をそらした。
「……お前らに話す事は何もねぇよ」
「私に話せなんて言ってない。シャルロットに、よ」
執拗な言葉は、ワットの胸の奥を逆撫でた。「……は」息をつくように、鼻で笑って顔を上げた。
「お前からそんな説教されるなんてな。人の事に口出すような奴だとは思ってなかったけど?」
棘の含んだ挑発に、メレイは冷めた目を返すだけだった。
「そうね、確かにガラじゃないけど。……私は、あの子を放っておけないの」
メレイが一歩ずつ歩き出し、ワットの真横についた。
「どっちにしろ、あの子とは一度話しなおしなさい。あんたが曖昧だと、あの子は余計に傷つくだけよ」
「俺はそんな態度とってねえ」
ワットとすれ違い、メレイがドアを開けた。
「気づいてないんなら、あんたは相当バカよ」
メレイはそのまま部屋を出て行った。一人たたずむワットにかける言葉もなく、エディもそのまま部屋を出た。