第25話『願い』-1
路地に入る前、アイリーンが振り返っても、パスは道の真ん中にいた。
いつまでも動かないパスに、アイリーンは口を曲げた。そこに駆け寄り、その足をパスの背に向かって蹴り上げる。
「うお! 何すんだよ!」
「お前ドジだな!」
ミスを小ばかにした言葉に、パスは「悪かったな!」と、背中をさすりながらさっさと路地に入った。
この町の家々は、密集しているせいか、家々の間が狭い。シャルロットとエディがその路地で馬の手綱を柱に結んでいる間、アイリーンは路地の入り口で、手持ち無沙汰に雪を踏んでいた。さすがに、アイリーンが一番寒さに慣れている。
寒さでうまく動かない指先で、何とか手綱を結びつけた。
「へぇ、ガキがずいぶんいい指輪持ってんじゃねぇか」
突然、知らない声が割って入った。吹雪の中でもしっかりと聞き取れた男の声。振り返ると、路地の入り口で、アイリーンがコートにフードをかぶった見知らぬ男達に腕を引かれていた。男とわかったのは、その体格からだ。三人、路地の入り口をふさぐようにしてそこに立っていた。アイリーンの手を引く男が、その親指の指輪を、品定めするように見つめている。「お前らこの辺のもんじゃねぇな。異国のもんか?」
「……え? ええ……」
わずかな警戒心とともに、シャルロットは答えた。若い男――といっても、自分よりは年上だろう。その風貌は、充分警戒するに値する。
「お、おい、離せよ!」
アイリーンが暴れるも、男の力は強かった。手は、振り解けない。
「その子を離してあげて……下さい」
手綱を結び終えた手を離し、シャルロットはアイリーン達に足を向けた。しかし、男達にはその指輪しか目に入っていないようだ。
「まぁ待てよ、見せてみろって……」
「汚い手で触んじゃねえよ!」
弾けるように叫び、アイリーンが思いっきり手を払った。男達が驚いている間に、アイリーンはエディの後ろまで走り、その背に隠れて男を睨んだ。
「……威勢がいいな」
そんなアイリーンに、男達が顔を見合わせて笑った。
「私達に……何の用?」
一番前になったシャルロットは手を握り締めた。人通りのほとんどない町だ。その質問の答えは、予測はついている。
「まあそんな怖い顔すんなってお譲ちゃん。下手に騒がなきゃ、手出しはしねぇ。持ってる荷物全部よこしな」
――物取り。シャルロットは唇を噛んだ。
「お金は持ってないわ……! どっか行って!」
勢いに任せて声を張るも、内心はそんなに強気なわけではない。今は、ニース達が一緒にいるわけではないのだ。
「旅人が手持ちなしってワケねぇだろ」
「ホントだって! さっきこのバカが財布落としたんだから!」
アイリーンがパスを指差すと、パスは余計な事を言うなとばかりに口を開いたが、声を出すわけではなかった。
改めて、男達がシャルロット達を見回した。旅人にしては、馬も二頭。少ない荷と、高価とは思えない防寒着。その貧相な風貌に、男達もわずかにその言葉を信じたらしい。内輪で、顔を見合わせている。
「……ならその指輪と……そうだな、お前でも異国の女なら、少しは値になるか。この地じゃその毛色は珍しい」
「な……っ!」
口を開けたまま、シャルロットは次の言葉が出てこなかった。男の一人が近づいてくる。しかし、あまりにあっけにとられたシャルロットは、一歩も動けなかった。
「……離れて下さい!」
エディの声に、シャルロットは我に返った。男と自分の間に割って入ったエディが、落ちていた棒を片手に、その先を相手に向けていた。男が足を止めるのと、パスがポケットからヌンチャクを取り出すのは同時だった。――説得が通じる相手ではない。
「男に用はねぇよ」
男がエディの棒に手を伸ばすと、エディは一歩下がり、棒を突きつけなおした。
「シャルロット! 逃げ……」
「エディ!」
骨を打つ音に、シャルロットとアイリーンは、同時に悲鳴をあげた。エディが振り返った途端、男がエディの顔を殴ったのだ。その勢いで、エディの体は軽々と後ろに飛ばされた。すぐに、アイリーンがそれに駆け寄る。頬を抑え、エディは何とか体を起こした。口から、血が流れている。
「何すんのよ!」
シャルロットはエディの落とした棒で、全力の両手でそれを振りかぶった。――が。
「あ!」
男の反応が早かったのか、シャルロットの攻撃が遅すぎたのか。振り下ろした棒が男の体に入る前に、男がシャルロットの手首を掴んだ。男がその手を振ると、シャルロットはあっという間に雪の上に倒れこんだ。
「つっ……!」
「言ったろ? 騒ぐと怪我するぜ」
馬鹿にしたように、男がシャルロットを見下ろす。
「待て!」
割って入ったエディの声に、男が振り返った。しかし、エディがそこに歩ききる前に、別の男がエディを殴った。
「……は!」
膝をつき、エディは腹を押さえてむせこんだ。呼吸ができない。周りなどまったく見えなかった。
気を保つ事さえやっとのエディを見て、パスは、腹の奥から怒が湧き上がった。
「野郎……!」
ヌンチャクを構え、足を踏ん張った。燃えるような目で男達を睨み上げても、彼らは微塵も余裕を崩さない。自分達よりもはるかに体も小さい子供に、感じる事などあるはずが無かった。
「何だ、やろうってのか?」
男の嘲笑に、パスは片手からヌンチャクを離して回転させ始めた。数回振り回せば、それは水平な円を描き出すように線となる。手元をひねると、わずかな反動で、それは男の顔面に飛んだ。
「おわ!」
意表をつく攻撃に、男が反射的にそれを避ける。しかし、バランスを崩したそんな好機を見逃す手はなかった。パスが手元を引くと、その振動の伝わった先は、男の横っ面を勢い良く弾いた。
「が…!」
割れるような音と同時に、男が壁にぶつかった。横顔を抑え、線のようにしたたり落ちる赤い血で足元の雪を染めながら、憎悪の目でパスを睨みつけた。
「……のガキ!」
倒れるに至らないその攻撃は、男の怒りに火をつけただけだった。鋭く伸びる手から、パスは慌てて逃げ出した。
「エディ……! パス!」
シャルロットはすぐに起き上がり、パスを追う男を後ろから捕まえた。
「やめてよ!」
しかし、男の力のほうがはるかに強かった。振り返った男に、シャルロットはいとも簡単に壁に押し付けられてしまった。
「きゃあ!」
背に、強烈な痛みが走った。寒さで忘れていた感覚が急速に蘇る。数百本の針が同時に刺さったような痛みに、シャルロットは頭の奥がぐらついた。男の手が、首を絞めつけた。
「黙ってりゃあつけ上がりやがって……! 売る前にお前はたっぷりいたぶってやるよ!」
「……は、離して……!」
――びくともしない。掴まれたそこから、体が前に出なかった。首を絞める男の腕に、思い切り爪を立てた。その瞬間、視界が暗転した。
――フードの三人の男が、闇に浮いていた。
(こいつらの――)
――記憶。この町のはずれで、旅人を狙った恐喝と盗みを繰り返す姿。同じ場所で、倒れる老夫婦や女性が見えた。
それを笑う男達。力のない人間を次々と狙って――。
「い……!」
男の声に、シャルロットは我に返った。さすがに、服の上からでも食い込んだ爪に、男の力が緩んだ。目を開けると同時に飛び込んだものは、男の背後に飛びついたアイリーンだった。
「シャルロットを離せ!」
しかし、今度は男に手加減はなかった。男が腕を払うと、アイリーンの小さな体は軽々と吹っ飛んだ。
「キャアッ!」
反対側の家の壁に叩きつけられ、アイリーンはうつぶせのまま雪の上に倒れた。
「アイリー……あ!」
叫び終える前に、振り返った男の腕が一瞬視界に入った瞬間――。
「シャルロット!」
エディの声が、聞こえた気がした。払われるように横顔に入った手の甲で、シャルロットの体のバランスは崩れ、ひっくり返った視界に最後に映ったのは、真っ白い雪だけだった。
雪がクッションになった音とは違う異音に、パスが振り返った。
近くの木箱で頭を強打したシャルロットは、動かないまま、そこに倒れている。パスの声にも、指一本動かさなかった。そこからゆっくりと、雪の上に鮮血が広がり始めた。
パスはエディとアイリーンを振り返った。エディは腹を押さえたまま立ち上がれていない。アイリーンには、意識があるのかもわからない。
一瞬で、視界は倒れる仲間の姿だけになった。その憎悪の相手が、一点に絞られる。
「……てめぇ!」
腹の奥から湧き上がる怒りにまかせ、ヌンチャクを握り締めた。一気に走り出し、それを男に向けて弾く。シャルロットを殴り飛ばした男は、パスに意識が向いていなかった。反応が遅れ、それをまともに食らった。
割れるような音と一緒に、男が雪の上に倒れた。音もなく、男にぶつけたヌンチャクの先端が雪の上に落ちる。
自分の息が、いやに耳についた。しかし、あまりに上昇したその集中力は、あろうことか、他の男たちの存在を完全に消し去ってしまっていた。自分の真後ろで足音がした瞬間、パスは全身でそれを思い出した。しかし、それはあまりに遅すぎた。
――骨が割れるような異音。殴られる事を確信して振り返ったものの、同時に腰が抜け、尻餅をついてしまった。真後ろにいたであろう男が横に蹴飛ばされる瞬間が、その目の先を通り過ぎた。
男が壁に衝突し、そのまま動かなくなる。しかし、パスはそれを見ることができなかった。尻餅をついたまま、目の前の男から目が離せなかった。――こんな顔は、初めて見る。
「……ワッ……ト」
周囲を見回す目は、彼とは思えなかった。――表情が無い。いつもの、笑みや怒りを表すそれが、まったく抜け落ちている。パスは、そのまま立ち上がれなかった。エディとアイリーンが、視界の隅で顔を上げているのがわかった。
「な、何だてめぇ……!」
突然現れたワットに男の一人が足を向けたが、手が届く前に、男はあごをワットの足で打ち上げられた。
「ぐあ!」
男は離れた場所に転がり、それ以上動かなかった。残った一人は、わずかに足を引いた。今のを見れば、自分の進む道は考えなくても分かる。しかし、ワットは男の腕を掴んで引き寄せ、男の腕を持ったまま、その肩にこぶしを入れた。
「ぐわあ!」
鈍い音に、エディとアイリーンは思わず目をつぶった。耳を塞ぐ暇があれば、塞ぎたかった音だった。
「……ぁあ!」
声にならない悲鳴と共に、男が倒れこむ。
パスが我に返った頃には、周囲は吹雪の音と、うめく男たちの声、そして、立っているのはワットだけだった。立ち上がりたいのに、足に力が入らなかった。今身を包んでいるのは、恐怖だということはわかっている。しかし、それは男達に対してではない。視界の中で、ワットがシャルロットに駆け寄った。
「おい! しっかりしろ!」
ワットがシャルロットを抱き起こしても、その体にはひとつも反応はない。力なく、腕が雪の上に落ちた。
「エディ!」
鋭く、ワットが、エディを振り返る。そのいつもの顔に、エディは我に返った。
「は、はい……!」
腹を押さえ、エディは何とか起き上がり、二人に駆け寄った。