第22話『夢』-4
「おい、早く行こうぜ! いよいよ雪の国境だ!」
宿の外に用意した馬車の窓から、パスが身を乗り出して声を上げた。宿の入り口で、エディは自分の分だけではない重い荷を運びながら、よろよろと馬車に向かっている。
「うん! 今行くよ」
厚いコートのせいか、わずかに動きづらい。パスは大人用のローブに身を包み、体をすっかり覆われている。昨日までは寒さに震えていたが、いまやすっかり体も慣れたのか、今日は誰よりも元気がある。そんなパスを笑っていると、突然エディの手が軽くなった。追い越しざま、ワットの片手がその荷を持っていったのだ。
「あ、ありがとう」
「昨夜の、誰にも言うんじゃねぇぞ」
小声で呟き、ワットはエディが返事をする前に先に行ってしまった。その背を見つめ、それが何を指しているのかなど考えなくても分かる。――言われなくても、言えるわけがない。
「エディー、早くしろよー」
パスの待ちきれない声が飛んでくると、エディは我に返った。ワットも、既に馬車に乗り込んでいる。
「ごめんごめん!」
走って馬車に乗ると、自分が最後だった。ワットは馬車を動かすために外に座っている。隅に座るシャルロットは、笑顔でメレイと何か話していた。シャルロットは、髪を結わないままだった。
「行くぞ」
車外からワットの声と同時に、馬車が動き始めた。エディの視線に気がついたのか、シャルロットが顔を向ける。
「どうしたの?」
エディの頭に、先程のワットの言葉が蘇った。
「……あ……ううん、病み上がりなんだから、安静に……ね」
エディが微笑むと、シャルロットは笑顔を返した。しかしそれも、自ら作った笑みだ。メレイとの会話も終わり、シャルロットは窓に頭を寄りかからせた。外の景色がゆっくりと揺れながら通過する。エディの優しさも、今はわずかに心に残るだけだ。
――ワットの事は考えるのをやめよう。自分には、やらなくてはならない事ある。確かめねばならない事が。
昨日、一日中夢の中をさまよい続け、確信した。――それは、認めざる得ない事実だ。
向き合わなければならない時がやってきたのだ。この身に起こる不思議な現象は、この体に流れる血のせいだと。兄と同じ占いの力を持った血が、この体には流れている。
一度や二度ではない。そして、ただの夢でもない。
まして、こんな気味の悪い能力など、皆にだけは絶対に知られたくはなかった。
(……一人で、何とかしなきゃ)
膝の上に置いた手に、力が入った。
馬車が町の一番北まで来ると、外は一面、海が広がっていた。濃い霧につつまれたその景色の中に、一筋、見えない向こう岸に向かって巨大な橋が伸びている。その中腹では、城の城壁のような巨大な門が橋を塞いでいた。
見えるのは一面の白い霧と、その巨大で、芸術的な造りをした門だけだ。
「……綺麗だね」
落とすように呟いた。吐いた息が、白く残る。ニースが馬車の進む先を見つめた。
「雪の王国の入り口だ」
橋の中腹、真っ白で一面に彫刻の彫られた巨大な門の足元まで来ると、そこには何人もの兵士が待ち構えていた。見覚えのある服装は、水の王国の兵士だ。兵士が二人、馬車に駆け寄ってきた。
「通行証を!」
近くにいるというのに、風の強い橋の上では声を張り上げなければ聞き取れない。ニースが馬車のドアを開けて降り、書状を兵士に見せた。
「火の王国のニース=ダークインだ! 雪の王国への入国を、許可して貰いたい! ルビー女王からの書状がここにある!連れは五人、全員身分も保障できる!」
兵士の一人それを受け取り、広げて確認した。
「……世界視察か! 久しぶりだな!」
もうひとりの兵士も、それを覗き込む。
「前は一年近く前だったよな、あの時は確か……風の王国だったか」
「よし! 通っていいぞ!」
兵士が門の上を見上げ高く指笛を吹いた。
すると、巨大な門の一部、右の隅が扉になっていたようで、そこを別の兵士が開けた。
「何だ、この門が開くわけじゃねぇのか!」
パスが拍子抜けをしたように言うのを聞いて、メレイが笑った。
「あんなでかい門、開けたら半日かかるわよ」
馬車を小さな扉からくぐらせると、まるでそこが境だったかのように、霧が薄くなっていた。今まで見えなかった、巨大な大陸の影が、わずかに見える。そしてその大陸を覆うように一面に見えるのは――。
「すっげえ! 雪だ!」
一面を覆う白さは霧ではない。雪だ。そして窓の外にも、背後の門を境に雪が散らつき始めている。パスと一緒に、シャルロットも窓に貼りついた。
「う、わぁ……! 私雪って初めて!」
ずっと砂の王国で暮らしてきたシャルロットにとって、それはまさに現実とはかけ離れたものだった。白く小さな粒が空から無限に舞い落ちるそれは、何と幻想的で美しいものか。こんなものが、この世にあるなんて――。
「そっか、南国育ちには驚きよね」
寒さも忘れて窓に貼りつく二人に、メレイが笑った。シャルロットが振り返ると、メレイを初め、ニース達は窓の外にさほどの興味も無いように見えた。「メレイは見たことあんのか?」パスが、羨ましい、という口調で言った。
「昔、嫌ってほど見てるわ」
返事を背に、パスはまた窓に張り付いた。パスとシャルロットが窓に貼り付くほど、馬車の窓は二人の息で白く曇る。
「綺麗ね……」
「そのうち嫌になるわよ」
メレイのからかうような口調に、「ならないわよ」とシャルロットは頬を膨らませた。
「私は遠征で雪には何度も苦労させられたから苦手だな」
「僕も、雪だと雪下ろしが大変だから、苦手です」
ニースとエディは苦笑いでメレイに同意した。
「それにしても寒いわね……。凍えそう」
メレイがローブを羽織った上から体をさすった。
「ワットさん、大丈夫かな」
エディの呟きに、シャルロットははっとした。しかしその途端、小さく目をつぶる。――だめよ。
「あと十分もしないで橋を抜ける、町に着いたら宿に入って暖まれるだろう」
ニースも、窓の外を眺めた。
橋を抜けるとそこはすぐに町になっていた。地面は雪に覆われ、馬車で通行するには困難を極める。仕方なく、シャルロット達は馬車を店に預けて歩く事にした。
見渡す限りの銀世界だ。足元から石造りの家々の屋根の上まで、一面が白い。行き交う人々も、分厚いコートとフードで、どこに顔があるのかも分からなくなっている。色白で黒い髪の子供達が、木板の上に乗って道の隅にできた雪山から滑って遊んでいるのが見えた。
「な、何かすごいね」
物珍しさでシャルロットは隣のメレイの腕を引いたが、メレイは寒さで口を開く気分でもないのか、返事はなかった。
宿を見つけ、ニースがドアを開けると宿の中はとても暖かかった。しばらく触れていなかった暖かい空気に、シャルロットは体の力が抜けて、目元までローブにうずめていた顔を出した。
「いらっしゃい、寒かったろうお客さん、すごい荷物だね! 旅の方かい?」
宿のおじさんは調子よく近くのパスのローブに付いた雪を払った。「部屋は開いていますか?」ニースの言葉にも、「はいはい」と答える。パスは勢いよく払われたせいで、足をよろけさせていた。
空は厚い雲に覆われ、これ以上どこにも雪など積もれそうにないのに、一向にやむ気配もない。一部屋だけ取った宿の一室で、シャルロットは相変わらず窓に貼り付いて息で窓を白くしていた。いくら見ても飽きないほどに、美しい。
「雪の王国を超えたら、次は東の大陸……やっと……」
暖まった部屋でのニースの呟きに、シャルロットは振り返った。テーブルで地図を書き足しながら、思わず口走ったようだ。他の皆は各々に過ごしていたが、シャルロットが振り返ったことに気がつくと、ニースは再び作業に戻った。
――そう、ついに雪の王国に入ったのだ。ニースの旅は五王国を回る事。
火の王国から、砂に始まり、風、水、そして今、最後の王家となるこのミラスニー王家の治める雪の王国にいる。あとは東の大陸に渡り、その最南にある火の王国を目指すだけだ。
そうすれば、シャルロットの旅も終わる。
砂の王国に戻れば、再び日々の忙しさに流される毎日が始まる。そうすれば、占いの血について調べることなどまず出来ないだろう。親友達にだって絶対にこんな事は知られたくはない。人の心を覗く力など、気色が悪いと思われるだろう。――それまでに、何とかしなくては。
(ここには資料館とか……無いのかな)
「シャルロット、夕方まで暇だろ? 防寒着でも買いに行こうか!」
「……え?」
エディの明るい声で、シャルロットは我に返った。言われて見れば、これだけの寒さだ。防寒用のローブ一枚でも、過ごせる温度ではなくなっている。
「そ、そうね、行こう!」
「オレも!」
暇をもてあましていたのか、パスも立候補してきた。
「あんた達お金ないでしょ、これ持ってきな」
メレイが、荷から金の袋をシャルロットに投げた。受け取った袋は、ずしりと重さがある。
「ついでに私のも買ってきてよ」
お金の出所が気にはかかったが、メレイはそんな事には触れもしなかった。パスは「ラッキー!」と、金をもらえた事に素直に喜んでいる
「ワット、あんたは?」
メレイがベッドに寝転ぶワットを振り返った。
「ああ、俺のも頼む」
ワットはそれ以上動くそぶりもなく、目を閉じた。
「じゃあ全部で五着ね。ニースは持ってるからいらないし……」
「じゃあ行こうか」
エディが自分のコートを羽織って部屋を出ると、パスとシャルロットもそれに続いた。
外は凍えるほどに寒く、あっという間に寒さで足が痛くなった。その上、凍った雪で少しでも油断すれば転んでしまいそうになる。
「ね、この町に資料館ってあるかな?」
「資料館? ……んー、どの町にもあるとは思うけど……、何か調べたいの?」
「……ちょっとね」
そうは思っても、凍える体は先にコートを買う事を求めていた。
店に入って適当に五人分のコートを購入すると、外はいつの間にか夜の闇に包まれ始めていた。太陽の見えない分厚い雲の下では、夕方も夜と同じようなものだ。結局、シャルロットはこの町での調べものは諦めざるえなかった。