第22話『夢』-3
夢か現実かが分からなくなると、自分が違う世界に飛ばされるような感覚があった。
額に触る、冷くも心地いい水の感触。手には優しい温もり――。
『これを使えば あの子を救えるんでしょう?』
(何を言っているの? エディ……)
問いたくても、息が詰まって声が出ない。体のどこかに感じる怒り。――これは何なのだろう。
手の温もりが離れると、シャルロットの夢も途切れた。
体に温もりを感じる度、いろいろな夢を飛び移り、まるで夢の中を旅しているようだった。
緑地と崖に囲まれた巨大な岩山から、煙が立ち昇っている。それは、シャルロットの知らない場所だ。
『あれが生み出すものをどれだけの人が憎んでも 我らはあれを手放す事などできない』
隣に立って岩山を見つめる、知らない少年がそう言った。
綺麗な服を着た、一目で育ちが良いと分かる少年――。年も近いだろうが、彼のことは知らない。少年は自分を見上げると、そのまま目を伏せてすれ違っていった。
不思議な旅が続く中でも、頭の隅ではそれが何なのか、分かる気がした。
(お兄ちゃん……、私、どうなっちゃったの……?)
「今何周目?!」
「……十二周。……あと八周」
通りの向こうから走りこみ、膝に両手をつけて息を荒げるパスに、ワットは宿屋の玄関口に座って頬杖をつきながら静かに答えた。
シャルロットが寝込んだことで、結局、出発は遅らせざるえなかった。看病には役に立てないワットとパスは暇をもてあますしかない。パスの要望でワットが以前約束したとおり、稽古をつけることになった。
「まだ走んのかよ……!」
抗議の目で、パスがワットを睨んだ。しかし、ワットはそれに見向きもしない。
「しょうがねぇだろ。稽古の前に、お前体力もねぇし」
頼む身分でありながら、パスの苛立ちは爆発寸前だった。しかし頬杖をつきながら別の方角を見ているワットを睨むことはできても、その先の行動に出ないほうが身の為だという事は分かっている。
雪はすっかりやみ、今は空を厚い雲が覆っていた。通りかかる人々は分厚いコートを羽織るほどだというのに、町中を走り回ったせいで、パスは額から汗を流していた。パスはそれを手で拭った。
「なぁ、シャルロットは平気かな」
「……エディが診てんだろ」
興味も無さげなワットの答えに、パスは眉をひそめた。ここ数日、突然二人が話をしなくなった事など、とっくに気がついている。
パスにとって、それは何ともはがゆい事だった。口では何と言っても、この二人が本気で喧嘩をしているのであれば、それは胸を締め付ける要因でしかない。町から離れた土地で家族だけで暮らしていたパスにとって、この旅の仲間は初めてできた――大事な友達だ。もちろん、そんなことは口が裂けても言うつもりはない。
パスの視線に気がついたのか、ワットが顔を上げた。
「何だよ」
「……別に」
ワットを睨み、パスは足を進めた。
「それよりあと八周走ったら絶対稽古に入ってくれよ?!」
再び遠くなっていく背中を見つめてから、ワットは宿屋を振り返った。シャルロット達がいるであろう、その二階の一室の窓を。
日が落ちる頃になってもシャルロットの熱は下がらなかったが、エディの薬が効いたのか、息苦しさは引いたシャルロットはずっと眠っていた。
時間をもてあましたニース達はシャルロットのいる部屋で食事をとることにした。町で購入した食材で、エディとメレイが作った食事をテーブルに並べた。エディのスープは食べれるものだったが、メレイは焼いたパンをほとんど焦がしてしまっていた。食事の席で、パスが焦げたパンを珍しげにつまんだ。
「う、わー。これ、すっげー焦げてんじゃ……」
メレイの視線に気がつくと、その声はだんだんと消え、代わりにその口にパンを運ぶ。――オレが焼けば良かった。
はっきり言ってしまえば、自分が作った方がましだった。家では、父と半々で家事をこなしていたのだから。
メレイは自分で焼いておきながら、パンにはまったく手をつけてなかった。
「おい、続きやろうぜ。走り終わったら稽古の約束だろ?」
「……ああ」
早々に食欲の失せたパスは、隣のワットの腕を叩いた。こういう時は、逃げるのが一番だ。ワットは一瞬面倒に感じたが、他にする事もないので、パスと一緒に部屋から出ることにした。
「私も部屋に戻るわ」
メレイが立ち上がり、部屋を出て行った。部屋の残ったニースは、ほとんど手のつけられない食事と一緒に残されてしまった。当たり前に存在していたシャルロットのありがたみを、今更ながらひしひしと感じた。
(まったく、俺もしっかりしないとな……)
炊事に関して無知もいいところなのは、自覚がある。その思いに、ため息が漏れる。ふいに、シャルロットのそばに座っていたエディが大きく欠伸をしているのが目に入った。
「エディ、昨日から寝ていないだろう。看病を替わるから隣の部屋で少し休め」
「あ、僕は大丈夫です……」
欠伸をかみ殺し、エディが答える。しかしそれは明らかな強がりだった。
「君まで倒れたらしょうがないだろう、大丈夫だから」
立ち上がり、ニースが隣に立つと、エディは断る言葉が見つからなかった。
「……は、はい……、じゃあ……」
エディがそう言った途端、ドアが開いた。
「ニース、メレイが呼んでるぜ。なんか……」
部屋を覗いたワットが、エディを見て一瞬口をつぐんだ。しかし、ニースが振り返るとそちらに視線を移す。
「例の賊団の件で、すぐ来いだと」
「メレイが? ……ああ、分かった」
ニースが、エディを見下ろす。「僕、もう少しここに居ますから」エディは笑顔でそう言った。しかし、そういうわけにもいかない。
「まったく寝ていないだろう。ワット、少しの間変わってくれ」
その言葉に、ワットの視線が黙ってシャルロットに移る。シャルロットは、静かに眠っているようだ。
「ああ、分かった」
ついているだけなら、自分にもできる。無愛想なワットの答えに、エディはわずかに不安を覚えた。――あの日、泣きながら家に帰ってきたシャルロットを、忘れるわけがない。その原因が、きっとワットにあるということも皆の雰囲気から察しがつく。
シャルロットの元気が無かったのもそのせいなら、任せることに不安もある。しかしそれを聞くほどには、エディはワットの事を知らない。
「じゃあ……お願いします」
不安を残し、エディはニースと一緒に部屋を出た。
ドアが閉まり、部屋が静かになると、ワットは息をついた。音を立てないように、ベッドの脇の椅子に腰掛ける。シャルロットは、昨日よりもずっと落ち着いているように見えた。
「……う」
シャルロットが体を動かしたせいで、額にのせてあったタオルが落ちた。手を伸ばし、枕に落ちたタオルを再びシャルロットの額にのせる。その手で、優しく頬を触った。――まだ、熱を帯びている。ワットは目を細めた。
自分とは違う、こんなにも細く小さな体で苦しむシャルロットを見ているのは、心が痛む。その原因の一部が、自分にあることも分かっている。
「……ごめんな」
歪んだ顔で、こぼすように呟いた。
薄い意識の中、シャルロットはその手のぬくもりを感じた気がした。
『俺はもう二度と――』
掴んだその小さな手に、長く柔らかい茶色い髪が触れた。
『いい加減にしろよ お前 ここにいられなくなるぞ』
知らない男が、自分に向かって怒りを込めたような口調で呟いた。
『それ 忠告?』
少年の声がそれに答えた。知らない声。しかし、知っている声――。
『助言だよ 親友としての』
ぬくもりが、手から離れていく――。
「……ト?」
小さな呟きに、ベッドから離れかけたワットが振り返った。シャルロットが顔を傾けたせいか、またタオルが落ちている。わずかに、目が開いていた。
「い……かな……で……」
――行かないで。お願いだから、ここにいて――。朦朧とする意識で視界がかすむ。言いたい言葉も、口から出てこない。そして、なぜだか分からないが、シャルロットはとても悲しかった。――あんなつもりじゃなかったのに。
理由は分からないが、強くそう思った。――あれは、誰の記憶なの?
走馬灯のように走る感覚が、シャルロットの目から涙を落とさせた。――どうして、そんなに悲しんでるの?
その背に手を伸ばしたくても、指先が動く前にシャルロットの意識は再び夢の中に吸い取られた。
その体から力が抜け、ベッドに沈んでいくのが分かると、ワットは再びベッドの脇の椅子に座った。ベッドからはみ出た、シャルロットの手を取った。
「……安心しろ、ここにいるから……」
タオルを拾い、ワットはシャルロットの前髪を上げた。頬に涙を伝わせたまま、シャルロットは再び眠ってしまったようだ。その顔を見つめると、ワットはわずかに身を寄せて、その額にそっとキスをした。
その唇が離れると、ワットは我に返った。とっさに、ベッドから体を離す。まったく変わりなく、シャルロットは眠っていた。ワットは自分の口を押さえた。
「……どうかしてる」
自分を戒めるように呟き、ベッドに背を向けた途端、思わず足を止めた。エディが、ドアを開けたまま唖然とそこに立っていた。その視線が重なった途端、エディは我に返ったように顔を赤くした。
「ご、ごめんなさい……忘れ物を……」
しかし、ワットは顔色一つ変えなかった。何も言わずに目をそらし、エディとすれ違って部屋を出て行った。
翌朝、シャルロットは鳥の声で目を覚ました。まだ体に倦怠感があるものの、誰もいない部屋で起き上がり、ベッドから足を下ろしてもまったく吐き気はない。窓の外から差し込む光が、心地良く感じた。
「やった!」
頭痛も消え、足も動く。窓辺に立つと、外の風景が目に入った。早朝、町の人々は防寒具を纏ってせわしなく歩いている。窓を開けて大きく伸びをした途端、部屋をノックする音が聞こえた。
「はーい」
軽やかに返事をすると、ニースを先頭に、メレイとエディが顔を出した。
「あら、大丈夫なの起き上がって」
「うん、いいみたい!」
「エディの薬のおかげだな」
ニースがエディを振り返ると、エディは褒められるのが苦手なのか、指先で頬をかくだけだった。シャルロットはもう一度大きく伸びてから、ベッドに腰掛けた。
「調子はよさそうね」
メレイが笑った。その目と視線が合うと、シャルロットは目を伏せた。――事情を知っているのは、メレイ一人だから。
「ごめんね、心配かけて……。私、もう大丈夫だから」
視線を、腰掛けた膝に落とした。
「決めたの、もう大丈夫」
「あんた……」
メレイが口を開いた途端、勢いよく開いたドアにそれは遮られた。
「お! シャルロット、良くなったのか?!」
部屋に飛び入るなり、パスはシャルロットに駆け寄った。
「うん! 全然ヘーキ!」
元気よく、パスに腕を上げてみせる。パスの勢いは、いつも元気をくれる。その後ろから、ワットが欠伸をしながら部屋に入ってきたのが見えた。ほぼ同時に、ワットと目が合うと、シャルロットは笑みを見せた。
「おはよ」
「お……、おう」
一瞬、ワットはシャルロットの笑みに欠伸が止まりつつも、すぐに視線はそらされてしまった。あれ以来、初めてまともに交わした言葉だ。
いつも通りに歩いて部屋の隅の椅子に腰掛けるワットを見て、エディは昨夜の事を思い出した。しかし、その目が合うと、思わず目をそらした。
シャルロットは笑顔のまま、ニースを見上げた。
「すみませんでした。もう動けますから」
「……そうか」
その笑顔に返事をしたものの、ニースにはそれが、とても大丈夫には見えなかった。どこか、それは無理をしているように見えたから。それに、今は元気でも昨日まではあれほど体調を崩していたのだし――。
ニースの心配をよそに、シャルロットはベッドから降りて荷の整理をしているエディの隣に座った。
「手伝うわ」
「え? いいよ、まだ寝てなって……」
断られても、シャルロットは勝手に手伝いを始めた。壁側を向き、これなら自然にふるまえる。
荷をバックに詰めながら、シャルロットは笑顔を崩さなかった。
(決めたの。無かった事には出来ないけど、もう、ワットの事は想わないようにするって)