第22話『夢』-2
「いいご家族だな」
揺れる車内で、ニースがエディに微笑んだ。
「僕が末っ子で情けないから……、でも母は特に心配症で……」
家族を想い、エディが笑った。
その反対側で、シャルロットは車内の壁に頭をつけた。当然、エディが一緒にきてくれることになったのは嬉しい。だが、外で馬車を動かしているワットの事を考えると、皆と一緒に話す気分も起きなかった。
「どうしたの?」
エディの心配そうな声で、シャルロットは我に返った。
「う、ううん、……何でもないわ」
笑顔を作って、それに答える。――心配をかけてはいけない。できるだけ平静を装わなくては。エディがユユの持たせたパンを、シャルロットにも差し出した。「ありがと」それを受け取ると、エディは微笑んだ。その笑顔に、わずかに心が落ち着いた。
「……エディは、他の町にはどれくらい行った事があるの?」
「うーん、せいぜいノラマン・ラナくらい。あと、一番上の兄さんが風の王国で診療所を開いてるんだけど、そこにシシル姉さんと時々尋ねるくらいだ」
育ちのいいエディの話し方は、とても心地いい。シャルロットは自然と、口が動いた。
「じゃあ……私と同じだね。私も、あんまり自分の家の周りから出た事なかったから……」
「オレもオレも!」
パスが元気に喋りだすと、シャルロットはまた体を壁につけた。わずかに回復したような気持ちだったが、何となく体がだるい気もした。「ま、仲良くしましょ」と、メレイが笑った。
「こいつは、女だけどすっげぇ強いんだぜ!」
「え、メレイさんが?」
エディはメレイに首をかしげた。確かに自分より背も高いし、背中には剣も持っている。しかし、この緩やかな笑みをした女性が戦う姿など、エディには想像がつかなかった。
「ワットもまぁまぁいけるけどな」
「聞こえてんぞ、パス」
壁の向こうからの背後の声に、パスは口を慌てて塞いだ。
夕刻、馬車はアーカリーから北に位置する隣町に入った。アーカリーを出てから途端に悪くなった天候により、夕方でも空は暗く、周囲には雨がちらついている。
水の王国にある最北端の町だ。そこから伸びる、その町と同じ位の長さをを誇る巨大な橋――。その中間が、さらに北の大陸、雪の王国の入り口でもある。アーカリーからは隣町だというのに、この町の冷え込みは、既にそれを連想させた。
町の小さな宿屋に入る頃には、シャルロット達は凍るような風に、身を震わせた。暖炉を暖めた部屋で、布団にくるまったパスが、寝転びながらようやくシャルロットがいない事に気が付いた。
「……あれ、シャルロットは?」
「先程食事を作ってくるといって台所を借りにに行ったが……」
ニースが荷を整えながら後ろのパスを振り返った。老夫婦が経営するこの宿は、食事が出ない。まともな食事を作れるのはシャルロットだけとあって、先ほどから部屋を外していた。「ふーん」と、パスは布団の温もりに目を閉じた。
「今日あいつなんか変だったよな。馬車ん中でもずーっとボーっとしたし……」
普段、よく喋る者が急に言葉を口にしなくなると、気になるものだ。しかし、今は眠気の方が上回っている。
もちろん、ニースもそれには気がついていた。しかし喧嘩の原因であろうワットは、一人でベッドに寝転び、起きているのかも分からない。メレイはずっと、剣を磨いているだけだ。
「僕、手伝ってきますね」
手持ち無沙汰のエディが立ち上がると、部屋を出て行った。ニースは小くため息をついた。
古びた台所は、一目で普段使用していないものだと分かる。宿の夫婦が自由に使って良いというので、とりあえず手持ちの食材でスープでも作ろうと思っていたが、ここには調味料は塩と砂糖しかないようだ。
息をつき、シャルロットは出来上がりかけたスープを温めながら腹部に違和感を感じ、腹をさすった。
(……お腹痛い)
部屋よりもずっと冷え込む台所で腹が冷えたのだろうか。その上、体も重い気がした。鍋の湯気に手を当て、唯一の調味料の塩で味をつける。ふいに聞こえた小さな足音に、シャルロットは振り返った。
「エディ、どうしたの?」
「何か手伝う事ある?」
一瞬、返答に迷ってしまった。今まで、旅の最中で誰かに食事作りを手伝ってもらったことはない。しかし、それは頼める人がいなかっただけだ。エディなら、それも上手くこなしてくれそうな気がする。
「……そうね。じゃあ、この味見てくれる? ここ、お塩とお砂糖しかなくて」
自分だけの味見よりは、誰かが加わってくれた方が安心感もある。シャルロットはエディと立ち居地を変えた。
(お皿も……無さそう)
周囲を見回しても、使えそうな皿も少ない。
「いつもシャルロットがご飯を作ってるの?」
皿を探しに鍋から遠ざかる前に、エディの声で振り返った。「へ?」と、勢いよく振り返った反動で、わずかにめまいが起こった。
「……野宿の時はね。宿では珍しいわ」
体が、先程よりも重い。指先が、わずかに震えるのを感じた。
「……大丈夫?」
変化が顔色に達していたのか、動きに違和感のあるシャルロットに、エディが眉をひそめた。シャルロットは身を抱きしめた。
「何か寒くて……。お皿と一緒に上着も持ってこなきゃね」
すると、エディが自分の羽織っていた布をシャルロットに放った。「わ!」と、突然のそれを慌てて受け取る。
「廊下はもっと冷えてるから」
「ありがと」
礼と同時に、シャルロットは再び廊下に足を向けた。
「お願いだから……。これで自由になれるんだ」
「え?」
足を進めた途端のエディの声に、シャルロットは振り返った。しかし、エディはシャルロットの声に振り返ったようだ。
「今何か言……」
エディに言葉を向けた途端、シャルロットの視界が一瞬にして真っ暗になった。
「シャルロット!?」
エディの声と同時に大きな音が聞こえ、シャルロットの体に痛みが走った。足の力が抜け、どうやら床に倒れたらしいという事は頭のどこかで分かった。しかし、エディに体を支えられる頃には、意識を冷たい床に吸い取られていた。
(ここは……どこ?)
周囲の闇に飲まれるように、息が苦しかった。
ゆっくりと、膝をついて立ち上がる。
そこは、一面の荒野だった。荒れ果てた地、焼け落ちたテント、崩れ落ちた小屋――。しかし、それよりはるかに目に付くのは、闇と同化した一面の赤黒い色だ。
それは、見渡す限りの血の海だった。数え切れないほどの人が倒れている。武器を持ったまま、体中から血を流して。
シャルロットは吐き気がした。そう、自分はこの倒れている男達を知っている。顔すらも見たことが無いというのに、古びた服と血を全身に纏った彼らを見ると、吐き気と同時に悲しみがこみ上げるのだ。
足元にも、男が倒れていた。例外無く、彼も体中が血にまみれている。一目で死んでいるとわかった。その男には、首から上が無かったから。
『う……』
顔が分からないのに、それが自分にとってとても愛しい人だということが分かった。男は大きな剣を握り締めたまま、ただそこに倒れている。膝をつき、シャルロットはその剣を一緒に握り、男の胸に顔を伏せた。押し寄せる悲しみで、気が狂ってしまいそうだ。しかし、頭のどこかでは分かっている。――これは悪い夢だ――。
「は……!」
電流のように走った寒気にシャルロットは目を開けた。
同時に額にぬくもりを感じた。それは先程までの恐怖とは違う、とても暖かい手だ。
「……気がついた?」
一番最初に目には入ったのは、自分の顔を覗き込むメレイの顔だった。
「良かった……。ビックリしたわ、急に苦しみだすんだもの」
「……メ、レイ……?」
「台所で倒れたんだよ。覚えてる?」
エディが、メレイの横から顔を出した。次第に、シャルロットは現実に戻ってきた。自分がいるのはベッドの中だ。だんだんと視界が広がると、傍らにニースが立っているのも見えた。
「私……」
――そうだ。先程まで、エディと一緒に台所に立っていたのに。思わず体を起こしたが、メレイに肩を抑えて止められた。
「熱があるのよ。寝てなさい」
「……熱?」
その言葉に、初めて体の異変に気がついた。ベッドの中の体は熱く、汗ばんでいる。重い体を再び寝かせると、エディが冷やしたタオルを額にのせてくれた。
「急激な気候の変化に体がついていかなかったんだね。ずっと、砂の王国で暮らしていたんでしょ?」
返事をしようとしても、頭が働かずにその顔を見つめ返すことしかできなかった。エディの後ろのニースが視界に入った。
「ごめんなさいニース様……ご迷惑を……」
「無理して喋るな。……心配しなくていいから」
いつもと変わりないやさしい言葉に、シャルロットは目の奥が熱くなった。――自分が情けない。布団で、目元まで顔を覆った。熱など、前にいつ出したか覚えていないほどなのに、何で今――。
「熱はひどいですけど……。これ以上は上がらないとは思います」
エディがニースを振り返った。
「平気なのか? シャルロットは……」
寝ているシャルロットの視界に入りきらない場所から、パスの声がした。布団から顔を出すと、壁の反対側のベッドにパスが腰掛けているのが見えた。同じベッドに、ワットも座っている。一瞬、目が合った気がしたが勘違いだろう。ワットはパスと何か話していた。
「もう少し眠るといいよ。僕達は外にいるから」
エディが優しく言ってベッドを離れると、メレイ達もそれに続いて部屋から出て行った。
ドアが閉まると、部屋は静寂に包まれた。――泣いてしまいたかった。
吐き気を伴う息苦しさに加え、体も重い。何て情けないんだろう。こんな時に熱だなんて。誰もいなくなった部屋で、シャルロットは頭まで布団をかぶって身を丸めた。
「ちょっと、大丈夫なの?」
廊下に出ると、メレイが不満の声をあげた。
「心配ありません。特別も症状はありませんし……二、三日安静にして、ゆっくり休めば大丈夫です。熱が上がりきるまでは辛いかもしれませんが、それが過ぎれば後は下がるだけですから……」
「あら、早速頼りになるわね」
ワットがエディの隣に立った。
「もうすぐ夜明けだ。薬とか、必要な物があれば買ってくる」
「じゃあ、お願いします。今、薬のメモを……」
エディが先程から持っていたメモに、ペンで走り書きをする。
「部屋をもう一つとろう。なるべく、静かに寝かせた方がいいだろう。パス、部屋の荷を廊下に出しておいてくれないか」
ニースの言葉に、パスは慌しく「おう」と言ってしずかに部屋に戻った。
ニースが廊下の先の階段を下りていくと、部屋を見つめるワットにエディがメモを渡した。
「この分だけお願いします」
「あ? ……ああ」
我に返ったようにメモを受け取り、ワットは腰に巻いた防寒用のローブを肩から羽織り直した。
「知恵熱かしらね」
メレイの言葉に、ワットは顔を向けた。
「あんたの事で、悩んでるのよ」
ワットの目が、メレイを見つめ返す。エディは、どことなくその間に口を挟む事はできず、ただ二人を交互に見上げた。
「……関係ねぇだろ」
そう呟くと、ワットは階段に足を向けた。廊下の窓の外では、夜の闇が薄まり始めた空に、白く細かな斑点が、はらはらと舞い落ちている。
「雪か……」
ワットの言葉に、メレイとエディが窓の外に顔を向けた。
「すぐ戻る」
ワットはそのまま階段を下りていった。