第22話『夢』-1
「あら、エディちゃんじゃないの」
玄関を通りかかったところで、見知らぬ老婆に声をかけられた。診療所を兼ねている実家では、見知らぬ人間がいるのは珍しいことではない。エディはいつものように、笑顔を見せた。
「こんにちは」
にこやかに挨拶すると、老婆がその顔の皺を広げてゆったりと微笑んだ。
「おやおや、大きくなったて……。お兄ちゃん達にそっくりだねぇ」
老婆がエディの手を取ると、笑顔とは裏腹に、エディの内面には複雑な感情が渦巻いた。兄や姉に似ていると言われることは嫌ではない。しかし、医師として独立して働く兄達の光は、自分には眩しすぎるから――。
「おばあさん、今日はどうしたんです?」
「うん? いやいや、どこも悪くはないんだよ。ただユユさんとお話がしたくてね。まだ忙しそうかね?」
母親の名に、エディは家の中を振り返った。確か、母親は別の患者の往診中だ。
「すみません、今は患者さんにかかっていて……。こちらで待っていてもらえますか」
「ありがとうね。エディちゃん」
老婆の手を引いて廊下を案内すると、後ろから小走りに走るスリッパの足音が響いた。
「まあ! お婆ちゃん、来てたの?」
驚いたような甲高い声は、エディの母親、ユユだ。往診を終えたばかりなのか、わずかに汗ばんでいる。ユユは老婆に駆け寄ると、その目線に合わせて身をかがめた。
「いらっしゃい。ちょっと待って下さいね」
ユユが笑うと、老婆はエディを見上げてからもう一度にっこりと微笑んだ。
「ユユさん。エディちゃんはいつのまにこんなに立派になって……。エディちゃんを最後に見たのはもうだいぶ前だったけど、こんな優しい子……」
「あら! 嫌ですわ、お婆ちゃんったら! お婆ちゃんにも最近可愛いお孫さんが生まれたばかりじゃないの! 確か四人目でしたよね?」
エディを残し、ユユは笑って老婆の手を引きながら、客間に案内していった。その背を見つめながら、エディは今日ユユが忙しいといっていた事を思い出していた。それでも、わざわざ駆けつけたからにはしばらく老婆と話す時間を設けるつもりだろう。
エディは自分の手のひらに視線を落とした。たった今までつないでいた、老婆の笑顔がそこに浮かぶ。
(今の僕がニースさん達について行っても、できる事なんて何も無い……。でも……)
ユユ達の消えた廊下の先を見つめ、エディは一人、そこに立っていた。
夕方、ユユが用意してくれた夕食で、ニース達は再びキッチンのテーブルを囲っていた。エディの一家、リーリスト家はエディ以外の全員が患者を抱え、食事に家族がそろう事はほとんど無いらしい。夕食時だというのに、勉強中のエディを含め、食卓にはニース達しかいなかった。加えて、シャルロットも部屋にこもりっきりだった。
「シャルロットは、まだ具合が良くないのか?」
一人分の空席を見つめ、ニースが呟いた。
「ええ、でも体調不良ってわけじゃないから」
その言葉に、ニースが首をかしげる。
「ま、誰かさんのせいだろうけど」
メレイの食事を続けながらの嫌味にも、ワットは反応すら見せなかった。その言い回しに、ニースもパスも何となく察しがついた。――また喧嘩か。
「……シャルロットが大丈夫なら、明朝に出発するとしよう。ワットもシシルさんに見てもらったことだし……。これからは、ちゃんと毎日傷に気を使え」
「……はいはい」
前面に嫌味のこもった返事に、ニースが息を漏らした。ワットが人に干渉されるのを極端に嫌うのは、ニースもとっくに気がついている。それ以上の追求をやめ、ニースは話を切り替えた。
「明日の夜には、雪の王国への国境に続く北の町に入る」
「エディは?」
パスが顔を上げた。あれから、エディからはまったく何も言ってこない。それどころか、使用人のモニから部屋にこもったエディの勉強の邪魔をしないように言われてしまった。
「エディには、来てもらえなくて当然だと思ってる。明朝までに気が変わらないようなら、諦めるよ」
その時、キッチンのドアから長い髪の人影が入ってきた。金に近い腰までの茶髪を結っていないせいで、顔が見えていない。
「シャルロット?」
ニースの声にも、シャルロットは顔も上げずに作った笑顔で「ごめんなさい」とメレイの隣の空席に着いた。
「勝手に寝こんじゃって……」
「もう平気なのか?」
「はい、すっかり! ちょっと寝不足だったので!」
できるだけ顔を下げたまま、シャルロットは用意されたフォークを取った。――いつまでも部屋にいることはできない。できるだけ、目元を冷やして見れる顔にしてきたが、まだ完全には治っていない。
斜め前のワットが視界に入らぬよう、シャルロットは髪で横顔を隠した。――顔を見ることなどできない。それに、今の自分を見られたくなかった。もっとも、ワットもシャルロットに視線を向けてはいなかった。
夜も更け、シャルロット達が布団に入り始めた頃、ニースは窓の外にエディの姿を見つけた。一人、庭のベンチに腰掛けて空を見上げている。
「寝ないのか?」
庭に出ると、エディが驚いたように振り返った。庭先の空気は夜ともなると冷え込んでいる。澄んだ空気に、星空が一層頭上に近く見えた。
「……ニースさん。ちょっと……考え事を」
明らかに、それは自分の発言が原因だろう。ニースは小さく自嘲の笑みを浮かべた。自分よりもはるかに歳の若い青年を悩ますなど、馬鹿げている。
「無理を言って、すまないね」
隣に腰掛けたニースに、エディは何も言えなかった。ニースはそのまま空を見上げた。
「それに俺達の旅が危険なことも事実だ。だから……もう来て欲しいと言えない」
その言葉に、エディが顔を向けた。「だが」ニースが静かに口を開く。
「君は俺達と一緒に来なくても、一刻も早く医師の資格を得るべきだ。人の命を救う知識のある者は、世界にもまだわずか……。もちろん、君が来てくれればありがたいし、皆も喜ぶだろう。……もちろん俺も」
ニースの微笑みに、エディは目をそらした。ニースがベンチを立った。
「俺達は明朝立つ。世話になったな。……ありがとう」
エディの肩を叩き、ニースは部屋に戻った。エディは一人、再び星の散らばる夜空を見上げた。
翌朝、シャルロット達は朝食は取らずに支度を始めた。シャルロットは髪を結うのをやめた。これなら、視界も狭くなってワットの事を見ないですむ。シャルロットが動くたび、腰まで伸ばした長い髪が揺れた。早朝の為にまだ比較的手の開いているユユとエディの姉のシシルが、片づけを手伝ってくれていた。
「ニース様、馬車に荷を積んできますね」
「重いだろう、俺が持っていくよ」
シャルロットが立ち上がると、ニースが部屋の奥から呼び止めた。その間に座っていたパスはニースより、ワットの方がシャルロットの近くにいるのが目に入った。
「ワット、持ってけよ」
シャルロットは心臓がびくりとなった。ワットが、遠くで低く「ああ」と言ったのが聞こえた。その足音が近づいてくると、シャルロットが顔を向ける前に、ワットはシャルロットの手の荷を勝手に持ち、部屋を出て行った。
「何だよ、まだケンカしてんの?」
ドアが閉まると、一言も言葉を交わさなかった二人に、パスが呟いた。
その時、再び開いたドアの音に、メレイが振り返った。
「ワット、ついでにこれも……エディ」
そこに立っていたのは、ワットではなくエディだった。その声に、シャルロットは顔を上げた。シシルがエディに歩き寄っている。
「どうしたの? 今日は先生のところに行くんでしょ?」
「……姉さん、母さん、ごめん」
顔をしかめ、エディがユユとシシルを見返した。そのまま、部屋の奥のニースに移す。
「僕、皆と一緒に行きます……!」
その言葉に、ニースが目を見開いた。だが、驚いたのは一人ではない。
「な、何言ってるの!」
ユユがエディの腕を掴んだ。ユユの目を、エディが見下ろす。
「ニースさんから、お話を頂いたんだ。ちゃんと考えた。……僕は一緒に行きたい」
シシルがユユと反対側からエディに詰め寄った。
「考えたって……何言ってるの! だいたいこの方達、火の王国まで行くんでしょう!? 滅多に旅行もしたことないあなたが、旅なんて出来るわけないじゃない!」
「皆さんにご迷惑よ、エディ。無茶言わないの!」
ユユの言葉に、ニースが立ち上がった。
「リーリストさん、お話はこちらから持ちかけた事です」
同時に、ユユとシシルから鋭い目線が返ってきた。その視線は、受けるだけで辛いものがあった。彼女達がどれだけ末弟のエディを大事に思っているか、見ていれば充分すぎるほどにわかるから――。
「息子さんは素晴らしい知識を持っていらっしゃる。勝手ながらお話を……」
「勝手です!」
ユユがヒステリックな声を上げた。その声に静まり返った部屋に、ワットが戻ってきた。「……何だ?」異様な静けさに部屋を見回すワットの言葉にも、誰も答えなかった。
「この子は……この子に医師として一緒に連れ立って欲しいと言うのなら、それは見当違いですわ……! この子には、まだそんなことは出来ませんもの……! ね、エディ?」
ユユが再びエディの腕を掴んで揺らした。
「実際に往診をしたことだってほとんどありませんし、それに……」
「リーリストさん、それは違います」
ニースに言葉を遮られると、ユユはこれ以上何を言うのかという目でニースを見上げた。唇を噛んだその潤んだ目に、ニースは一瞬言葉が途切れた。隣で、エディはユユが握る手に力が入ったのが分かった。
「……あなた方から見れば息子さんはいつまでも子供かもしれませんが、彼はもう充分に医師として働いていける知識があるでしょう。彼はそのほとんどない経験と、持てる知識で、この国の王の命を救ったんです。……さすがは、あなた方一家のご子息です」
ユユの目が、ニースをとらえたまま動かなくなった。一瞬、言葉の意味を理解しきれなかったようだ。
「……王?」
「ええ。私達が瀕死の女王を連れて、初めてこの家を訪れた時。……彼がしてくれたことです」
理解はできずとも、意味が分からなかったわけではない。ユユはあっという間に体の力を抜かした。
「母さん!」
とっさに、エディがその体を支えたが、ユユはそんな事にすら気がついていなかった。片手で顔を抑え、その顔は青ざめている。それは、初めてエディがルビーの事を知ったときとまったく同じだった。シシルも、倒れこそしなかったものの、目を見開いたままだった。「変だと思ったのよ」ユユが、エディに支えられながら呟いた。
「あの火の王国のダークイン様が連れてきた患者さんだなんて……。……まさかルビー女王を……」
「母さん……」
エディの声に、ユユが顔を上げた。
「勉強はもっとしたいけど、このままここにいても僕は誰の力にもなれない。こんな僕でも誰かの役に立てることがあるのなら……。一人でも多くの人を助ける事ができるなら、……僕は行く。そういう医者になるのが、昔からの夢だった」
「エディ……」
やっとの思いで、ユユが声を絞り出した。その時、部屋のドアが開いた。その目の前にいたワットが振り返ると、そこに立っていたのはエディの父親だった。
「父さん……!」
顔色を伺うように、エディが父親を見つめた。
「……父さん、僕は反対されても……」
「話は聞いていた」
言葉の途中で、父親がそれを遮った。口を開いたまま次の言葉を言わないエディに、父親は笑顔を見せた。
「行ってこい」
「あなた!」
ユユが声を上げた。しかしそれに目を向けることなく、父親が続ける。
「上に行って、支度をしてこい」
「父さん、ありがとう……!」
吹き飛ばされた不安と一緒に、エディの顔が明るく晴れた。その顔に、ユユの手が自然と離れる。エディはそのまま、父親を通り越して部屋から飛び出して行った。
「エディ!」
「お母様……!」
エディを追って部屋を出ようとしたユユの腕を、シシルが掴んだ。振り返ると、諦めきれていない自分と違う、意思を決めたシシルの顔がそこにはあった。エディの父親が、ユユに歩きよる。
「あの子が、初めて自分の考えを言ってくれたんだ。……行かせてやろう。お前が日頃から望んでいた事じゃないか」
「……あなた」
部屋の中が静まり返った。シャルロット達は、口を出せる立場ではなかった。自然とシシルの手が離れると、ユユは顔を伏せて部屋を出て行った。シシルが、ニースに歩き寄った。
「大丈夫なのですか? 本当に……安全は保障できるんでしょうね?」
その言葉に、パスがシシルを見上げた。
「大丈夫だって、こいつらすっげえ強ぇんだぜ。今までだって何回助けられた事か……もが!」
言いかけで、メレイに後ろから口を塞がれて下がらされた。「はにすんはよ!(何すんだよ!)」言葉になっていない声で、パスがメレイを睨み上げる。
「(ばかね、あんたそれじゃ危ない目に合ってますって言ってるようなもんじゃない)」
「あ、そっか……」
メレイの小声に、パスはもう余計な事は言うまいと、口を押さえた。
本当は、エディは既に荷を造り終えていた。昨夜のうちに心を決めたエディは、旅に必要な荷は全て大きなバックに詰めこんだ。それを斜めに背負い、ハンガーにかかった首周りにファーのある膝までの茶色いコートを羽織り、部屋のドアを開けた。
「母さん!」
ドアの正面には、悲しみを含んだ顔のユユが腕を組んで立っていた。エディは心が痛んだ。――この決意が、母を悲しませることを知っていたから。だからこそ、昨夜のうちには言い出せなかった。
「ごめんね……」
その顔から、エディは目をそらした。だが、次に聞こえたのはわずかに笑みを含んだユユのため息だった。
「……謝る事じゃないでしょ。あなたの人生だもの」
いつものユユの優しい声に、エディは顔を上げた。エディにとっては、驚くべき答えだった。
「あなたには、自分が思うように生きてほしい。いつもそう思ってた。兄さんや姉さん達に遠慮して、皆の言うことを素直に聞いて……。いつも自分の意見は言わなかったでしょ? それがやっと本当の事を言ってくれたと思えばこんな事になって……。動揺もするわ」
ユユが、自分よりも背の高いエディを抱きしめた。
「危ない事はしないで。それと、帰ってきたらちゃんと医師の資格試験を受ける事。それまでに勉強も忘れちゃだめよ」
わずかに揺れるユユの声に、エディは目を閉じた。
「分ってる。ありがとう……母さん」
エディの家先では、既にシャルロット達が馬車を用意して待っていた。エディとユユが、小走りに家から歩いてくるのが目に入ると、それを振り返る。エディはその細い体には似合わない、大きなバックを背負っていた。
「何もってんだよ、そんなに」
呆れたように、パスがそれに叩いた。
「ご、ごめんね。本を入れ始めたらどれも手放せなくて……」
「あの、火の王国からはちゃんと帰ってこれるんでしょうか?」
シシルの質問は、先程から途切れ途切れだがニースから離れられないほどに続いている。いいかげん、シャルロット達も話の内容には興味はなくなっていた。
「それなら俺が責任持って送りますよ」
近くにいたワットが、シシルを視界にも入れずに言い落とし、馬車を動かす荷台の前に座って手綱をとった。シシルが小さく安堵の息を漏らすのも、何度目だろうか。シシルは馬車に乗り込むエディの腕を掴んだ。
「いい? 危ない真似しないでよ?」
「姉さんも、仕事がんばってね」
エディが笑って頷くと、シシルは涙ぐんだ。全員馬車に乗り終えると、エディは窓から顔を出した。エディの父親が、馬車を見上げる。
「忘れるな、どこにいたって、お前は私達の息子だ。リーリストの名に恥じない行いをしろ」
「……はい」
エディがしっかりと頷く。
「出すぞ」
ワットが馬を動かすと、エディの家族は馬車から離れた。馬車が家を離れて道を曲がり、姿が見えなくなるまで、エディの家族はそこにいた。