第21話『他人と自分』-3
「で、話というのは?」
ニースが目を閉じ、息をついた。向かい合って座る二人の間には、騒がしい食堂にはあまりに不似合いな重い空気が流れている。ムードメーカー達がいなくなれば当然の結果だが、いつまでたっても用件を言わないメレイに、ニースが切り出した。
「見え透いた話は、ワットに煙たがられるぞ」
ニースの冷めたもの言いに、メレイは「そうね」と鼻で笑った。――しかしその目には、まったく笑みは含まれていない。ワットにどう思われようが、ニースの口調がいきなり冷えこもうが、メレイにとってはどうでもいい事に過ぎないからだ。もっとも、そんな事はニースも気がついているのだが。
「あんたは、あの子達には聞かせたくないと思って」
――私はかまわないけど。そう言いたげに、メレイが目を向けた。
「風の王国で襲われた時の事。……話したいのは例の賊団の件」
「……ルジューエル賊団か」
わずかに見開いたニースの目に、メレイが小さく頷く。「あれから、ずっと考えてた」メレイが腕を組み、身を乗り出した。
「あの時、あいつらは確実にあんたを殺る気だった。相手は二人だったけど、それだけで充分と踏んで。あんただってワットがいなかったらかなりヤバかったでしょ?」
メレイにしては遠まわしな言葉に、ニースが瞼をわずかに下げる。
「……何が言いたい」
「狙われる心当たりは?」
鋭い視線に、ニースは周囲の騒がしさが一瞬遠く感じた。
それはここ数日、ずっとニースの頭の中に繰り返されてきた問いだ。それを見透かすような視線に、ニースは手元のグラスに視線を落とした。
「……彼らと、関りを持った事は一度もない」
その答えに、メレイは期待はずれだったのか椅子の背もたれに身を引いた。
「あんたに心当たりがないのなら、やっぱり名前かしらね」
呟くような声に、ニースが顔を上げる。
「名前?」
「あんたは有名人だもの。東の大陸一の剣の使い手。“ニース=ダークイン”を討ち取ったとなれば、名が上がる」
「……連中の名など、とうに世界中に知られている」
呆れたようなニースの言葉に、メレイは返事をしなかった。――わかっていながら口にしたのか、それともただの嫌味だったのか。
「……しくじったからには、あいつらは必ずまた仕掛けてくる」
メレイは既に中身の無くなったグラスの水滴を爪先で撫でた。「その時も、きっと皆一緒にいる」その目が、見上げるようにニースを見つめた。
「私は戦える。ワットも、もう少しできっと。……でも、シャルロットとパスも一緒にいる。その時がきたら、あんたはどうする気?」
周囲の騒ぎが遠く聞こえる中、ニースは黙って目をそらした。
自分の腕に自信が無いわけではない。しかしあの時は、たった二人の襲撃にワットが殺されかけた。その事実が、確実に胸を蝕む何かを増幅させていた。――次に同じ事態が起きたとき、自分は一人で全員を守りきることができるだろうか。
目を伏せたまま、ニースはメレイの問いには答えられなかった。
「――あー……で!」
寒さに耐えかねた大きなくしゃみの直後、ワットがわき腹を押さえて立ち止まった。帰り道は、既にエディの家の屋根が見え始めた路地に差しかかっている。
突然立ち止まったワットに、シャルロットはその二歩先で「ん?」と振り返った。
「どしたの?」
「……いや、何でもねぇ」
鼻をすすり、ワットは空を仰ぎながらも再びシャルロットを追い越して先に進む。その歩き方に、シャルロットは一瞬で違和感を感じ取った。――何かをかばう歩き方。
「ちょっとまさか……!」
それに気がついた瞬間には、シャルロットは手を伸ばしていた。
「い!」
ワットのわき腹に触れた途端、ワットはそれをかばって身を引いた。途端に、歪めた顔で手を払われる。その視線が重なると、ワットはそれを知られたことが不都合だったかのように顔をそらし、先に歩き出した。
一瞬で、シャルロットは頭に血が上った。
「まだ治ってなかったの?!」
シンナ=イーヴにやられた傷だ。風の王国を出る直前、襲われた時の。すっかりいつも通りにふるまうワットに、シャルロットはてっきり怪我も回復に向かっているものと思っていた。
「ほとんど治ったよ」
「嘘! くしゃみだけで……今だって痛かったんでしょ?! ちゃんと言われたとおり毎日薬塗ってた?!」
後ろからついて回る怒声に、ワットは「うるせーな」と小声で呟き足を速めた。しかし、そんな事では引き下がれない。ワットが人の助言を受けれないのは今に始まった事ではないが、これだけは許せない。
「明日エディのお父さんか誰かに診てもらって……」
「おい、余計な事言うんじゃねーぞ」
ワットがシャルロットを睨むように言葉を遮った。早足の上に大股で進まれると、シャルロットは小走りにならないと追いつけない。
「だってまた傷が開いたらどうすん……あ!」
「おい……!」
ワットの速足に追いつこうとして焦りすぎた。足が地面に引っかかった途端、シャルロットはその浮いた体をワットの片腕に受け止められていた。
一瞬で、体がすくんでしまった。――自分よりもはるかに大きく、暖かい腕に。
「何やってんだよ」
ワットの呆れたような声が、耳のそばで響く。こんなにも近いのに、まるで自分はどこか遠くでそれを聞いているような気がした。――低くて重いが、安心できる声。
顔を上げ、目線が合ってもいつまでも自分の足で立たないシャルロットに、ワットが「何だ?」と間の抜けた顔をした。しかし、それはシャルロットの耳には入っていなかった。
「私……」
腹をぎゅっと締め付ける何かが、そこから胸へとこみ上げた。
「ワットの事が……好き」
喉の奥から、かすれるように声が出た。一瞬、そこだけ時間が止まっているような気がした。冷たい夜風が頬を伝っても、視線が重なったまま指ひとつ動かせない。
かすかに、ワットの見開いたことで、シャルロットは我に返った。――今、何を言った?
弾けるように体を離し、シャルロットは両手で口を覆った。しかし、今更こぼれた言葉は取り返えせなかった。同時に、呆けていたワットの目にも光が戻った。
その目が自分に向くと、シャルロットは顔を下げて後ろに下がった。頭の中が、どんどん熱くなり、何も考えられない。――どうしよう。何で今――。
「わ……私……!」
「な、に言ってんだよ」
わずかに鼻で笑ったような声に、シャルロットは反射的に顔を上げた。
「冗談……、笑えねーし……」
かすかに、口を引きつらせたワットと視線が重なった。
「お前とは……そんなんじゃねえだろ……」
その言葉に、シャルロットは何も考えられなくなった。――わかっていた筈なのに。
両手を口に押し当てたまま、どこに体の重心があるのかもわからなくなった。足がすくみ、手が震える。その歪んだ顔に、冗談を流したようなワットの顔から表情が消えた。
「おい……」
伸ばされた手が触れる前に、シャルロットは体が勝手に後ろに下がっていた。
「……どうかしてる……私……!」
顔が上げられなかった。――ワットの顔なんて見れない。
すくむ足を無理矢理動かし、シャルロットはワットとすれ違うようにそこから逃げだした。
その後ろ姿が見えなくなる頃、シャルロットの腕を掴みそびれた手が、ゆっくりと降りた。――自分の発した言葉。それが、彼女にとってどういう意味だったかを、今頃思い知った。
「くそ……!」
顔を歪め、ワットは唇を噛んだ。
――こんな風に思うようになったのはいつからだっただろう。
ワットの事が大好きで、一緒にいられる事が楽しかった。でも、彼は違う。
エディの家、明かりの無いその部屋に飛び込んだシャルロットは、そこに立っていた人影に驚いて足を止めた。反対に、エディはその強く閉まったドアの音に驚いたようだ。振り返った顔は、大きく目を見開いていた。事前に案内されていた、玄関の真横の大きな部屋には、既に人数分の布団が敷かれていた。
「おかえ……どうしたの?」
言葉の途中で、エディの顔から笑みが消えた。明かりが無くても、窓の外の淡い月明かりで互いの顔ははっきりと見える。エディが言葉を失っているのを見て、シャルロットは初めて気がついた。――とめどないほどに流れる、頬を伝う涙に。
「な、何でもない!」
慌てて涙を拭った。足を進めてエディとすれ違い、背を向けたまま一番端の布団の上に座り込む。
――人がいるとは思わなかった。夜も更けていたし、エディ達に挨拶する気はもとより、誰かと話すつもりなど無かった。
「……疲れたから先に寝るね!」
わざと、明るい声で言った。まだ、涙が止まらない。振り返れなかった。―― 一人になりたかった。
その口調が、エディには通じたようだ。
「もちろんいいけど……あ、パス君、僕の部屋で寝るって……」
部屋を出て行く足音に、シャルロットは「わかった」と無理矢理声を張った。
明かりの無いままの部屋で、全てを遮断するように頭から布団をかぶっても、ワットの言葉が頭から離れなかった。熱くなった目元から、再び涙が流れ落ちる。
――なんて馬鹿だったんだろう。
静寂の部屋に、シャルロットの小さな声だけがずっと響き続けた。