第18話『仮面の女王』-4
蛇口から水を汲むと、シャルロットはコップを持って水場のふちに腰掛けた。バルコニーでもあるこの場所は、白色の石の外壁と同じ材質で作られており、月明かりを吸収して夜でも明るさを保っていた。
水を一気に飲みほし、「そういえば」と隣のワットを見上げる。ここなら、目を細めなくても互いの顔がわかる。
「クルーの友達ってお城の人だったみたいよ。夕食前にもう会ったって言ってた」
「へぇ、じゃあクルーの奴はもう帰っちまうのか」
あごを上げ、ワットもそれを一気に飲みほす。その言葉に、シャルロットは忘れていた事実を思い出した。――そうだった。
友人に会ったらすぐ帰る。それが、ニースと交わしていた約束だったから。
「……そっか。そうだよね……」
クルーが会いたがっていた友人に会えた事を一緒に喜んではいたが、そこまで考えてはいなかった。明るく屈託の無いクルーの事は大好きだ。きっとワットも、ニース達だって同じ考えだろう。その彼ともうすぐ別れなければならないと思うと、シャルロットは気持ちが落ち込んだ。
「……あの女王」
ワットの言葉に、シャルロットは我に返った。それを見越してか「あの女王。十五には見えねぇよな」と、ワットが繰り返しを含めて言った。
「……あ、うん、ホントすっごく綺麗な子よね。四つも年下だなんて驚き」
頭を切り替え、ルビーの事を思い出す。その美しさは、すぐにでも思い出せた。――まるで、子供の頃に持っていた異国の人形のような。陶器のような白い肌、輝くような金髪――。
同時に、その表情が頭に浮かんだ。彼女は、話すときですらわずかに口を動かすだけだった。まるで、その顔の下には何も届いていないかのように。あのまっすぐなガラス玉のような瞳も、本当は何も映し出していないのではないか。
「聞いた話じゃ、美人なだけじゃなくてとんでもなく頭がいいらしいぜ。何ヶ国語もいけるんだと」
ワットの言葉に、シャルロットは思わず笑いがこぼれた。
「あんなに綺麗な上に頭もいいなんて」
羨ましいね、と。その上、女王様だなんて。自分と比較すれば、笑うしかない。
「そう言うなって、お前も十分可愛いじゃねーか」
冗談めいた言葉に、シャルロットは一瞬心臓が揺れた。――次の瞬間。
静寂を切り裂く高音に、シャルロットは悲鳴が漏れた。いつの間にかコップから意識が離れてしまっていたらしい。視線を落とすと、足元には無残に散ったコップの破片が転がっている。
「おいおい……」
しっかりしろよ、と言わんばかりにワットが自分の方まで飛んできていた破片から足をどかす。「ご、ごめん!」シャルロットは慌てて身をかがめた。
――ワットが、いきなりあんなことを言うから。冗談だと分かっていても、頬が熱を帯びるのは止められない。顔を伏せたまま、シャルロットは焦って散った破片をかき集めた。
「イタ!」
「おい、何やってんだよ……!」
手を切ったシャルロットに、今度は慌ててワットが身をかがめる。しかし、恥ずかしさで、そんな言葉すら耳に入らなかった。指から血が流れようと関係ない。早く拾って、ここから出よう。「焦って触んな」と、ワットがその手を遮った。
「だって……」
――恥ずかしい。言葉一つでこんなに動揺するなんて。わずかでも、顔色が見えにくい場所で助かった。白色に反射する外壁が、赤く染まった顔色を少しは白く見せてくれるかもしれない。
「早く片付けないと……」
顔を上げると同時に、シャルロットの言葉は止まった。いつの間にか、ワットとの距離が目の前、ほんの数センチに近づいていた。その目が合うと、体を動かす事はおろか、目をそらす事さえできなかった。ワットがシャルロットに顔を近づけても、それはまったく変わることはなく――。
小さな物音でシャルロットは我に返った。二人のすぐ真横の壁、その足元にある窓からの物音だ。とっさに振り返ると、その薄暗い部屋から、ランプのような明かりもれている。その瞬間、シャルロットは後ろから口を塞がれていた。
「隠れろ」
言葉にならない驚きの声を発する前に、ワットがシャルロットを抱え込み、室内から見えない位置、窓の真横の壁に背をつけた。そのまま身をかがめ、中を覗き見る。口を塞がれたまま、シャルロットもそれにつられた。
部屋は、シャルロット達から見て足元に位置する場所が天窓らしい。わずかな明かりと共に、小さな話し声が聞こえた。
口元の手をはがし、シャルロットはあごを上げて背中のワットを見上げた。
「(な、何で隠れるの……?)」
思わず小声になるシャルロットに、ワットは間の抜けた顔を向けた。
「……だよな」
別に忍び込んだわけでもあるまいし。小さく呟く姿に、どうやら盗賊時代の癖が出たらしいとわかった。もっとも、隠れたのも無意味な事だったが、わざわざそれを報せる事もない。
興味から、シャルロットとワットは改めて部屋の様子を伺った。どうやら中の話し声の主達には、こちらに気が付いてはいないらしい。しかし覗き見えたのが見知った人物だと分かると、シャルロットは思わず声が漏れそうになった。
「そんなものをかぶらなくても誰も見てはいないわよ」
部屋にいたのは、二人の女性だ。いや、そう判断したのは二人の声からで、一人は黒いローブを頭からかぶっていたので顔は見えない。もう一人、こちらに体を向けているのは、ルビーの部屋で見たゼリアと呼ばれる女性だ。
「いえ……私はこれで」
黒いローブの女性が、その隙間から手を出して断る。
「(何やってんだ、あいつら。……こんな時間に)」
怪訝そうに、ワットが呟いた。――お互い様。シャルロットは口には出さず、その続きを覗き見た。「約束のものは?」と、ゼリアが手を出した。
促されるように、女性がローブの下から小瓶をゼリアに手渡した。小さい上に暗がりで、何が入っているのかはよく見えない。
「ご苦労様」
口元に笑みを浮かべ、ゼリアは小瓶を服の隙間に滑り込ませるとその部屋を出て行った。
何とも、奇妙に思える数秒間だった。こんな深夜、そして物置のようなこの部屋で、ランプの明かりを頼りにゼリアのような身分の女性が何をしていたのだろう。あんな小瓶を、受け取るだけで。
黙って部屋の様子をそのまま伺っていると、一人たたずむローブの女性が、そのフードを取った。「あ」と、シャルロットは思わず口を押さえた。
後姿だが、間違いない。昼間ワットとぶつかった、あの少年の先生と呼ばれていた女性だ。すると突然、女性が天窓を振り返った。
――しかし、女性からは夜空を映し出す窓枠しか見えなかった。しばらくそれを見つめると、女性は部屋から出て行った。
ドアの閉まる音に、シャルロットは体の力が抜けるほどに息を漏らした。反射的に、ワットがシャルロットごと壁に身を隠したのだ。別に悪いことをしているわけではないが、見つかれば趣味が悪いと思われるだろう。しかも、自分達はニースの連れなのだからその責任は重い。
「何やってたんだ、あいつら……」
ワットの呟きに、シャルロットが先に我に返った。抱えられた事に思わずもがくと、「あ、悪い」とワットがその手を離す。
「ちょっと……!」
何すんの、と言わんばかりの剣幕に、ワットは「まだ静かにしてろ」と口に指を当てた。ここで見つかってしまっては、隠れた意味がない。確かに。
それに同意して足を踏み出した瞬間、シャルロットは足にコップの破片が当った。――途端に、頬が熱くなった。それまでの直前の事を、思い出したのだ。
「……わ、私片付けてから戻るから!先に戻ってて!」
ワットに背を向け、シャルロットは破片を集め始めた。しかし再び、「ちょっと待て」とその手を掴まれる。
「手の傷増やすつもりか?」
赤くなった顔を見られたくなくて、反論ができない。ワットはため息交じりに、その手を引き、蛇口の水にその手をさらさせた。傷口が洗われ、赤い血がにじんだ指先が肌色に戻っていく。その冷たさが、シャルロットに冷静な心を取り戻させた。
「ご、ごめん……って、あれ?何?!」
手を拭く前に、シャルロットはワットに背中を押されていた。
「戻ってメレイに包帯巻いてもらえ」
「ちょっ……これくらい平気だってば!」
自分で割ったものくらい、自分で片付ける。しかし、それを主張する前に、シャルロットはドアから追い出された。
「ワッ……」
言葉が終わる前に、ワットは「じゃあな」とドアを閉めてそれを遮った。暗い廊下に閉め出されたのだ。濡れたままの手から、水が滴り落ちる。
「な、何よ……!」
頬を膨らませ、シャルロットは頭に血が上るのを感じた。――何だ、あの態度は! 確かに割った自分も悪かったが――。
しかし同時に、数分前のことも頭から離れない。もし、ゼリア達が現れなかったら? あのまま顔を近づけて――。
思いっきり、シャルロットは首を左右に振った。
「か、勘違いよ!」
自分の考えをばかばかしく思いながらも、頭のどこかではそれを否定しきれない。一人で部屋に戻る途中、シャルロットは何度も首を大きく振っていた。
ワットは閉めたドアに背をつけたまま、ずるずるとしゃがみこんだ。誰もいなくなった水場に、蛇口から水の滴る音だけが響く。
「……何やってんだ、俺は……」
力なく、頭を下に垂らした。目を閉じた暗闇の中で、ワットはその場から立ち上がろうとはしなかった。
翌朝、ルビーの気遣いで人数分の朝食がニースとクルーの部屋に用意された。メレイと一緒に部屋を訪れて朝食の席に着くと、メレイはシャルロットの包帯を巻いた手のひらにフォークを向けて笑った。
「破片で手を切るなんてドジね」
「エヘヘ、夜中に起こしてゴメンネ」
苦く笑い、シャルロットはパンをかじった。夜中に戻ってきたシャルロットに目を覚ましたメレイが、包帯を巻いてくれたのだ。メレイには、それ以上のことは何も話していなかったが。
その時、遅れてワットとパスが部屋に入ってきた。
「お、ウマそー!」
朝から元気いっぱいに席に着くパスと違い、ワットは欠伸交じりに空いている椅子に座る。その顔は、格好こそちゃんとしているものの、半分寝ているようだ。
「あら、珍しく早いじゃない」
食事を続けながらメレイが笑う。欠伸のせいで、ワットは涙目だった。
「……こんな香の強い部屋じゃ眠れねぇよ」
何とも、不機嫌な返事。メレイはそれ以上ワットと会話を続けようとは思わなかったようだ。ワットの視線がメレイからこちらに向いた途端、シャルロットはとっさに視線を落とした。――どうしよう。
もちろん、朝食の席では顔を合わせるだろうと覚悟はしていたが。
(やだ……、ワットの事見れない!)
幸いにも心中の動揺は表面には表れなかったが、明らかに視線をそらされても、ワットの視線はそのままニースに移った。
「女王との面会はいつだ?」
用意された水を口に含む。同じ朝にもかかわらず、ニースのきちんとした格好、態度はいつもと変わらないが、それを崩すように、ニースがため息をついた。
「それが相当忙しいらしくてな。何とか今日の昼食時間に話す時間が貰えたくらいだ。まあ、挨拶も済んだし、俺は書状さえ貰えればそれで充分なんだが……」
「あいつ、そんなに忙しいんだ?」
パスが食事を頬張ったままニースを見上げる。「そのようだ」とニースが肩をすくめた。
テーブルを囲った穏やかな朝食時間も、シャルロットにとっては尋常ではないほどに心臓が高鳴っていた。斜め前に座るワットが気になり、顔も上げられない。どうやらワットは隣のクルーと何か話しているようだが――。
あまりに頭がいっぱいになり、周囲の会話も耳から遠くなる。限界を感じ、シャルロットは席を立った。
「ご、ご馳走様!」
食事を始めてまだわずか。当然、周囲の視線も集まる。「全然食べてないじゃない」と、メレイが顔を見上げた。当然だ。喉を通らず、半分も手をつけていない。
「し、食欲なくて!部屋戻ってるね!」
もしかしたら、顔も赤いかもしれない。引きつった笑顔で答えると、シャルロットは部屋を飛び出した。一刻も早く、この場から逃げ出したかった。
閉まったドアを間の抜けた顔で見つめるパスやクルーと違い、ワット振り向きもせずに食事を続けていた。メレイはそのドアから、既に食事を終えていたニースに視線を戻す。
「ねぇ、シャルロットの兄貴のこと、何か知ってる?」
突飛な話に、ニースは記憶の断片を呼び起こす為に数秒かかった。
「エリオットか?何だ突然」
懐かしい名前に、自分ですらすぐに名前が浮かんだと思う。メレイが眉をひそめた。
「ちょっと、気になることがあって。……シャルロットの兄貴には占い師の素質があるの?」
メレイの言葉に、全員の食事の手が止まった。ニースの目が、わずかに大きくなってメレイを見つめる。
「……シャルロットが言ったのか?」
「ううん、あの子は違うって言ったけど……」
「何で兄貴の事が気になる?」
水の王国まで来た今更。食事を再び口に運びながら、ワットが言った。
「兄貴の事じゃないわ。私が気になるのはシャルロットよ」
「シャルロット?」
反復し、ワットが眉をひそめる。「……あの子」メレイが、わずかに視線を落とした。
「占いの素質があるんじゃないかしら」
「はぁ?シャレルちゃんに?」
一瞬、吹き出すようにクルーが笑った。しかし、笑ったのはクルーだけだ。ニースとワット、パスは目を瞬かせた。「思い当たることがあるのか?」と、ニースがメレイに目を向けた。
「……ちょっとね。あの子が嘘をつけるとは、思えないもの」
そのまま何も言わないメレイは、本当にシャルロットの事を気にかけているのだろう。他人にあまり興味を示す性格には見えないメレイのそれは、ニースにも本気でシャルロットの事を考えさせられた。
「……確かに」
記憶を巡らすように、ニースが呟く。
「兄君のエリオットには素質があるかもしれない。昔、宮殿の上役にも呼ばれた事があるらしい。だが占い師になる程の能力ではなかったと聞いているが……」
「ち、ちょっと待てよ」
口に含んだ飲み物をこぼしそうな勢いで、クルーが割って入った。
「シャレルちゃんの兄弟に、そんな奴がいたのか?」
信じられないな、とでも言うように、クルーが目を見開く。
「でももしそれが本当なら、あんまり事を大きくしない方がいいんじゃないか? そんな兄さんがいるならなおさら」
「どうして?」
クルーの言葉に、メレイが眉をひそめる。「当然だろ」と、クルーが続けた。
「兄弟に占いの血がいるなら当然シャレルちゃんにもその血が流れてる。素質があっても不思議じゃない。だから……」
勢いのいい言葉の語尾が濁る。「何よ」と、メレイが言うならはっきり言え、という口調で聞き返した。メレイの様子に、クルーが眉をひそめる。
「……知らないのか?」
言わせるのか、という主張。一瞬、部屋には沈黙が流れた。他の者に意見を求めるかのごとくクルーがニースとワット、パスと順番に視線を移すも、返ってくる表情は皆メレイと同じだ。クルーが息をついた。
「その血が評判になれば、……ほとんどは王家に引き取られるだろ? そうなったらロクな人生送れないじゃないか」
「城で暮らせるんなら、贅沢じゃん」
パスが食事の最後の一口を口に押し込みながらクルーを見上げる。「……贅沢はできても」クルーは眉をひそめた。
「一生城からは出られない。それどころか、自分の部屋からもほとんど、な」
クルーの言葉に、パスはそのまま口が開いた。「……と、閉じ込められるって事?」パスが小さく呟くも、誰からも返事はない。
「何でそんな事になるんだ?」
さすがに、ワットも食事の手が止まった。占い師に関して、そんな情報を聞いたのは初めてだった。
「……お前ら本当に何も知らないのか?」
知識の差に、クルーは驚きを隠せていない。しかし、その言葉に返事ができる者もいなかった。クルーが再び息をついた。
「じゃあ、そうだな。……例えばだけど。昔っから、祈祷とか妖術なんて類の話を聞くことがあるだろ? ……目に見えない力。占いも、その一つだ」
一言一言、分かりやすいように、クルーがゆっくりと説明を始めた。
「信じる信じないは勝手だな。もちろん、占う本人だって。そんな曖昧なもので、しかも結局はただの直感。本人の意思と、どっちが強いと思う?」
クルーが周囲を見回しても、誰も答えようとはしていない。「もちろん、本人の意思だよな」と、クルーが自分で加えた。
「そしたら、運命なんて見れたもんじゃないだろ? 直感も、自分の頭に負けて消えてしまう。でも、王家は運命が知りたい。占い師の落とす言葉が欲しい。だから……王家の人間は、彼らの感情を殺すんだ。――できうる限り、無心に近づけるように。ほとんどの場合、占い師は城に連れてこられたら最後、一生閉じこめられて、知り合いはもちろん、家族にだってほとんど会えなくなる」
クルーの視線が、ニースに移る。
「ニースは知ってるだろ?騎士団隊長なら城の占い師と会ったことくらい……」
言葉の途中で、ニースは「いや」と小さく首を横に振った。
「そこまで詳しくは知らなかった。……会ったと言っても、インショウ様との姿を遠くで見かけるくらいだったし……」
「インショウ?」
パスの言葉に、ニースは「火の王国の王だ」と答えた。
「……とにかく」
周囲に言い聞かせるように、クルーがゆっくりと言った。
「シャレルちゃんにも、その兄さんにも。そんな力があるならあまり他言はしない方がいい。王家に目をつけられでもしたら一生幽閉されかねないからな」
その言葉に、パスは思わず身震いした。――城で暮らせる。それは確かに贅沢を意味する事かもしれない。しかし幽閉など――。
「そうだな……。我々も……、少し気をつけてシャルロットを見ておこう」
ニースの呟きに、メレイは視線を落とした。
「そうね。勘違いだと……いいんだけど」
そう思えるのが一番良い。だが、心に落ちた一滴の疑惑は、止めようと思えば思うほど、徐々に胸のうちを侵食させた。




