第18話『仮面の女王』-2
――人の背丈の倍以上。それほどの大きさの窓から、一面に光が降り注ぐ。その窓枠にふさわしいほどの広い一室。それもいつもの風景で、足元の青い絨毯も、いつものものだ。静寂を保つその部屋の窓辺のテーブルで、本に羽ペンでスラスラと走らせる。一文を書き終えたところで、遠い背後からドアをノックする音が聞こえた。
わずかに顔を上げると、少女の輝くような金色の、細かいウェーブの入った長い髪が揺れた。
「……どうぞ」
口元から小さく返事をすると、後ろのドアが開き、女性が顔を出した。髪を綺麗にまとめた、長袖に足元までのふんわりとした深い赤色のスカート。それでいて、腰元は締められている。自身も良く知っている、この国の使用人の服だ。
部屋に入った女性が顔を上げた。こちらを振り返る部屋の主は、外からの光を浴び、逆光の影が降りている。それでもその姿は、――見とれるほどに美しい。緩んだ口を締めてから、女性が口を開けた。
「火の王国からの使者と名乗る、ニース=ダークイン様がお見えです。お連れ様は他に五名。皆さんを宵の月の間にお通し致しますが、宜しいでしょうか」
少女の口から、自分でもわずかにしか聞き取れないほどの息が漏れた。そして、「ええ」と手元の書物を、音もなく閉じ、椅子を立った。
「クニミラ殿から話は伺っているわ。皆さんお通しして下さい」
水のように透き通った声で、少女が小さく答えた。
城下街から湖上の城に入るには、城を中心に伸びる東西南北の四つの橋のいずれかを通過するしかない。シャルロット達は、一番近い北の入り口から、見張りの兵士三人に事情を説明し、城へ通してもらった。
使用人の女性に案内されて城内に入ると、城内も外見に違わず、壁から床までが同じ白色の石で統一されている。特殊な加工なのだろうか、近づくと、自分の顔が映るほどに透き通って見える。女性を先頭に、シャルロット達はその後に続いて青色の絨毯の敷かれた廊下を進んだ。
「(使用人の服は、水より風の方がいいよな。水はちょっとカタいと思うぜ)」
一番後ろを歩くクルーが、深い赤色の服に身を包んだ女性の後姿を眺めながら、隣のワットに呟いた。
「(いやぁ、風もいいけど……俺は砂だな。あっちはここよりずっと暑いからもっとこうスカートも短い……)」
先頭の女性が睨むような目でこちらをわずかに振り返ると、ワットとクルーからはにやついた笑みが消えた。――聞こえてたか。二人はそれ以降、できるだけ彼女とは離れた位置にいようと決めた。
先頭と、一番後ろの会話は当然中腹のシャルロット達にも聞こえている。――ばか。そう思うよりも、恥ずかしい。シャルロットを始め、誰もワット達を振り返ろうとはしなかった。その時――。
「あっ!」
女性の小さな声と、物が散らばる音に、シャルロット達は足を止めた。声の方向を振り返る。すると、ワットの足元で、女性が手をついて倒れこんでいた。ワットがよそ見をした途端だったのか、曲がり角から現れた彼女とぶつかったらしい。
「悪い、大丈夫か?」
「ええ、こちらこそ……」
体格の差か、転んだのは彼女だけだった。ワットが手を差し伸べると、女性が髪を抑えつつ、それを取った。こげ茶色の長い髪を頭の上でひとつにお団子にまとめ、紺の長袖のブラウスに、腰元を締めた足元までの同じ色の長いスカート。周りにはぶつかった拍子で散らばった、数冊の本が落ちている。上げた顔には細い眼鏡をかけ、若いというのに聡明な雰囲気が見て取れた。
「すみません、前を見ていませんでしたわ」
手を借りて、女性がゆっくりと立ち上がる。見るからに体の線も細く、ワットが引き起こすのには片腕で充分だったが、立ち上がった拍子に女性がよろけ、ワットに抱きついた。
「……お」
思わず、ワットは女性を見つめた。ヒールを履いてはいるものの、抱きとめた女性の目線はかなり近い。背が高いのだ。
(メレイくらいあんじゃねぇか?)
同じく女性にしては長身のメレイはどれくらいだったか、思わず考える。「すみません」と言って女性が離れた。
眼鏡をかけていると分りづらいが、女性は美人だ。二十七、八歳のニースと同じくらいだろうか、切れ長の目に長いまつげ、そして知性の強さを思わせる灰色の瞳。
クルーが、女性の落とした本を拾い、手渡した。一瞬見えた本の中身には、細かい文字がびっしりと詰まっていた。
「ありがとうございます」
女性はその雰囲気には似つかわしくない柔らかい笑みで、それを受け取った。その時、女性の後ろから別の若い使用人が現れた。
「先生、お時間が。こちらへ」
振り返り、女性が「わかってます」と答えた。そしてもう一度ワットを振り返る。
「失礼します」
足を引いて一礼すると、女性は使用人と一緒にシャルロット達とは反対の方向に廊下を歩いて行った。
「大丈夫?」
女性の背を目で追っているワットを、シャルロットは覗き込んだ。
「ここの学者さんかな」
ワットはその手に視線を落としていた。
「……いい体」
一瞬の沈黙の後、音が出るほどにワットの背を叩き、シャルロットは先に廊下を進むニース達を追った。
シャルロット達が案内されたのは、来客用の応接間のようだ。それでも、豪華な装飾品で飾られた壁、座れば身の沈むソファに、金細工のテーブルと、広い部屋に十分すぎるほどの家具画揃っている。座ったものの、落ち着けないのはシャルロットだけではない。パスも、ずっと身をふわふわと跳ねさせていた。
「(すごい部屋ね……!)」
小声で、隣に座るクルーの袖を引いた。まぁまぁ、とクルーが笑う。金細工のテーブルを囲うように、ニース達もソファに腰を下した。その時、部屋のドアが開いた。
使用人の女性が顔を出し、一礼してから部屋に入った。女性はそのままドアを持ち、後ろの淡い水色のドレスの少女を通した。その少女に、シャルロットは息を呑んだ。――何て綺麗な少女だ。
足音もなく、その姿は静寂そのものだった。細かいウェーブの輝くような金髪を腰で切りそろえ、その淡い水色のドレスに負けないくらいの透き通るような白い肌。緑に近い青色の大きな瞳。風貌から見てもシャルロットよりは幼いだろうが、その顔つきは大人のそれと同じものだ。
(……でも何だか……)
その瞳は、まるで何も感じていないかのようにも見える。少女がその大きな目で、シャルロット達の座るソファをゆっくりと見回した。その足をゆっくりと進め、金細工のテーブルを囲うソファの一つの上座に腰をおろす。
「私が、ルビー=アグダスです。面会を求めたのはどなたですか」
細いながらもしっかりした意思を感じさせる女王の声は、まだ少女の声だ。ニースが立ち上がり、女王に頭を下げた。
「ニース=ダークインと申します。私が面会を求めました。火の王国から、我がクニミラ王の命により、世界視察に各国を回っております」
顔を上げ、その目をルビーに向けた。
「まさか本日中にお目通りがかなうとは思っておりませんでしたが……」
ニースをまっすぐに見返し、「いいえ」とルビーが目を伏せた。
「火の王国の使いの方をお待たせすることはできません。それに、クニミラ殿から書状でニース殿がいらっしゃると伺っておりましたので」
少しも表情を変えずに語るルビーの話し方は、大人のそれと同じだ。とても、シャルロットよりも幼い少女の言葉とは思えない。ルビーの目が、ニース以外のソファに座る面々に移動した。
「彼らは私の連れです」
先に、それを感じたニースが手のひらを向けた。
「砂の王国から私の付き人をしているシャルロット」
突然の紹介に、シャルロットは飛び上がる勢いで立ち上がった。「お、お目にかかれて光栄です」と、頭を下げる。よく、砂の国王のディルートに初めで出会う人達が、この挨拶をしていた事を、とっさに思い出したのだ。
「護衛を勤めてくれているワットとメレイに……」
ワットとメレイは腰を下ろしたまま、わずかに頭を下げた。
「南の大陸から同行しているパスと……風の王国からの旅行者、クルーです。道中世話になった縁で共にこの国に」
ルビーの目線が自分に向くと、クルーはいつもの笑顔でにっこりと笑いかけた。しかし、ルビーはまったく表情を変えないままニースに視線を戻す。――その時。
「お姉様!」
部屋のドアが音を立てて開き、少年が転がるように飛びこんで来た。ほんの幼い少年だ。五歳にも満たないだろうか、上質の薄緑の服を纏っているものの、それを帯で締めた姿はまるで服に着られている。
「トパーズ!」
ルビーが立ち上がると同時に、トパーズと呼ばれた少年がルビーのドレスにぶつかるように飛び込んだ。顔を埋め、その小さな手でルビーのドレスを握り締める。わずかに身をかがめ、ルビーが少年の頭を優しく撫でた。
「お勉強の時間ではなかったの?」
「……あの先生嫌い。お姉様が先生になって」
「トパーズ、そうしてあげたいけどそれは無理よ。それにあの方はとても立派な先生なのよ」
ルビーがわずかに笑った息を漏らす。小さいが、ルビーの表情が緩んだのこの部屋に入ってからは初めてだった。「だって怖いんだもん」と、少年がドレスの中で呟く。
すると、開いたままのドアから見るからに怒りをまとった女性が飛び入ってきた。
「トパーズ!またルビー様のところに勝手に!ルビー様、申し訳ありません!」
「構いませんわ、ゼリア叔母様」
ルビーが顔を上げると、ゼリアと呼ばれた女性は無理矢理怒りを静めようと努めているのが目に見えた。三十代後半だろうか、使用人とは明らかに違うドレスに、腕や首につけた装飾品は女王であるルビーよりも派手だ。茶色の弾むようなウェーブの長い髪を綺麗にまとめ、きつい目からその厳しさが分かるほどにこぼれている。ゼリアの後ろからもう一人、紺色の服の女性が入ってきた。――先程、ワットとぶつかった女性だ。彼女の方は、先ほどと同じく怒っている様子はない。
「トパーズ、いいかげんになさい!先生を困らせてはなりませんよ!」
ゼリアの怒声にも、トパーズは振り向きもしない。ゼリアは諦めるようにため息をつくと、ドアのそばに立つ紺の服の女性を振り返った。
「……申し訳ありませんわ、先生」
ゼリアの言葉に、女性は「とんでもありません」と手を振った。見るからに、ゼリアの方が身分は高いだろう。ルビーがトパーズの頭に手を乗せたまま、「ニース殿」と顔を上げた。その顔は、また先ほどと同じ表情に戻っている。
「申し訳ございませんが正式な面会はまた明日ということで……、よろしいでしょうか」
「はい、構いません」
ドレスからトパーズを離し、「部屋を用意致しますので今夜は城にお泊りになって下さい」と、ルビーがシャルロット達を見回した。「(ラッキーだな)」と、隣のパスが小さく呟いた。
「廊下に使いの者がおりますので」
ルビーの言葉に、ニースが頭を下げてソファを立った。
「ああ、俺らもか」
気がついたようにワットが立ち上がり、シャルロット達もそれに続いた。ニースを先頭に部屋を出て、最後にクルーが部屋を出るまで、ルビーの目はそれを追っていた。