第18話『仮面の女王』-1
水の王国、――北の大陸に到着するまでの移動には、三日を要した。適度な広さを持つとはいえ、揺れる船内と永遠とも続く海だけの景色には、いささか退屈を覚える。それに限界を感じ始めた三日目の昼、船は水の王国の港町に到着した。
白い石造りの家々が立ち並ぶ町は、道も同じ石で整備され、統一された白色がとても美しい。海を挟むものの、風王国と隣接しているだけあって、気候も非常に過ごしやすい。それでも幾分か、この土地の方が冷えるのは、ここが北の大陸と呼ばれるゆえんだろう。
船で仲良くなった姉妹と別れ、シャルロット達は船着場で簡単な入国手続きを済ませた。ニースを含め、計六名。出国停止の身分であるクルーが一緒だというのに、ニース以外の名すら聞かなかった審査は、簡単に通った。
「……あっけない審査ですね」
大丈夫かと、こちらが心配してしまう。今までのそれと比べると、シャルロットはにわかに信じられない気持ちだった。「風と水はどこの国よりも深い友好関係にある。国での治安の良さはお互い世界でも一、二を争うからな。おかげで両国をつなぐこの港は、昔っから甘い」
クルーが後ろから口を出す。
「ノマラン・ラナ……水の城には、この町の東門の先にあるナナツモってゆー村に行って、そこからすぐだ。まぁ、合わせて一日あれば充分かな」
「詳しいな」
隣のワットが言った。船の上では安静を保ったおかげか、脅威の回復力でワットは自力で歩けるようになった。シャルロットは思わず正直な感想が口からこぼれた。「ここに来たことあるの?」シャルロットの問いに、クルーは「ああ」と振り返った。
「ずっと昔にね。ニース、今日はここに泊まった方がいいぜ。ナナツモまでは一日かかる」
こんな時間に出ては、途中で野宿だ。そう語るクルーの意見に従い、シャルロット達は、今日はこの港町に泊まる事にした。
港町の宿屋、食堂でニース達が食事を取っている時にシャルロットが部屋に戻ると、ワットが一人でベッドに腰掛けていた。いつも腰に下げている短刀の手入れをしていたようだ。布を片手に、短刀を真剣なまなざしで明かりに透かしている。
「いないと思ったら!夕食食べないの?」
「いや食うよ、これ終わったら。お前こそ食わねぇの?」
「食べるわよ。リボンを忘れたの」
荷をあさり、シャルロットはいつも髪を結っているリボンを取り出した。下ろしたままの髪が、肩をつたって動くたびに揺れる。日中、時間があったから髪を洗ったのだ。「食う気満々だな」とワットが葉を出して笑う。
「お腹すいたのよ」
多少の恥も残りつつ、頬を膨らませた。ワットに顔を向けると、その膝の上の短刀がいつもよりも数段に立派に見えた。
「おお、磨いたね!」
リボンで髪をポニーテールに結ったあと、短刀に顔を寄せた。突然近寄られ、ワットは慌てて短刀とシャルロットの顔の間に手のひらを入れた。
「おい、危ねぇぞ」
もう一方の手でシャルロットのあごを持ち、顔を離させる。急に顔の向きを変えられたので、シャルロットは「うや」と言葉にならない声が漏れた。しかしワットはそんなことはどうでもいいらしく、「そうだ」と話を変えた。
「クルーから聞いたんだけど、あいつ、やっぱノマラン・ラナまで一緒に来るらしいぜ」
「友達がそこにいるんでしょ?」
顔は、そっぽを向かされたままである。
「ああ。その大昔に妹と一緒に遊んだっていう子と……」
微妙な体勢に話しづらさを感じたのか、シャルロットのあごを持って顔を自分に向けさせた。
「会いたいらしい。……どうした?」
目を見開いたシャルロットに、ワットが言った。ワットは気にも留めなかったらしい。その顔が、あまりに自分と至近距離だったことに。「……え?」と、シャルロットはその瞬く目に我に返った。思わず、ワットから飛びのいた。――頬が熱いのが分かる。
「そっ、そうなんだ!」
一体何に対する返事だったかも、シャルロット自身は忘れていた。ワットが、何事かと言う顔で見上げている。
「ご、ご飯、先行くから!」
逃げるように、その部屋を出た。
ワットはぽかんとそのドアを見つめるだけだった。急に静かになった部屋で、自分の手に視線を落とす。シャルロットに触れていた手。視線を上げ、再び閉まったドアを見る。
「まさか……な」
一瞬鼻で笑ったが、視線を落とすと、それも消えた。
廊下に出たシャルロットは、一人ドアの前にうずくまった。
――驚いた。突然あんなに近づくなんて。
冷たい廊下に、自分の頬の熱さだけが残る。手の甲をそれにあて、冷やした。
(こんな顔じゃ、食堂に戻れないよ……)
シャルロットは一人、廊下で平常心を取り戻すのを待つはめになった。
翌日、シャルロット達は馬車を借り、ノマラン・ラナまでの中間地点、ナナツモと呼ばれる村を目指した。馬車といっても、以前風の国王から借りたような立派なものではなく、荷台は木製で屋根もない。通常なら荷物運びに使われるようなぼろぼろのものだ。人数を考えると、いつのまにか馬よりも馬車を借りた方が安上がりになっていた。
先頭で荷台を引く二頭の馬を、ニースが動かした。ワットは病み上がりの割にはそれを表面に出さずに、頭の後ろに手を置いて足を組んでいた。シャルロットが時々ワットを見ても、ワットはずっとメレイと何かを話していた。目が合ったような気がしても、それは同じだった。
早朝から出発しても、ナナツモに到着したのは月も高く上った真夜中だった。パスはすっかり眠りこけ、一日荷台の揺れと戦っていたシャルロットも、肌寒い空気に膝を抱えて布にくるまるだけで、それが温まれば、今度は眠気と戦うだけだった。さすがに、ニースが馬車を動かしていると言うのに、パスのように眠りたくはない。
綺麗に整備された港町とは違い、村は足元も危うく、明かりも無い。家々の軒先に付いた小さな明かりを頼りに村を見渡しても、宿を探すには困難だった。さすがにクルーも、ここまでは詳しくなかったらしい。「仕方が無いな」と、ニースは村のはずれの広場に馬車を泊めた。
「宿を探すにしてもこんな時間だ。数時間もすれば夜明けだし、ここで我慢しよう」
夢の中に引き込まれる直前、シャルロットはニースが何かを言っているのかも既にわかっていなかった。
翌朝、眩しすぎる太陽と、鳥の声で目が覚めた。いつの間にか、毛布に包まって荷台の上で倒れこんで眠っていたらしい。起き上がると、荷台の上にはその隅に寝転んでいた自分しかいなかった。ニースやパス、ワットが向こうに見える木のそばで立ち話をしているのが見える。
「起きた?」
背後からの声に振り返ると、クルーが荷台に腕をかけて、そこに立っていた。目をこすりながら頷き、「おはよう」と挨拶を交わす。
「あれ、見た?」
にやりと笑って後方を見るクルーに、シャルロットはつられて同じ方角に目を向けた。思わず身を乗り出し、感激の声が漏れた。
「……うわあ……!」
目の前の高台に広がるは、透き通るように白く、美しい巨大な城だ。針の山のように天に向かういくつもの白い塔。特殊な建築材料でできているのだろうか、太陽の光を一身に浴びて、溢れ出るような輝きを放っている。
「キレー!」
「ノラマン・ラナだ。近くで見たほうがもっと綺麗だぜ。もっと驚けることもある」
クルーの笑みに、「なになに!?」と身を乗り出す。
「おい、クルー!ちょっと来いよ!」
遠くからのパスの声で、会話は遮られた。振り返ると、ニースとワットとパスの三人が、今度は地図を広げて話しているのが見えた。道のりの相談だろうか。「ああ」と、クルーが声を張った。しかし、返事は声だけだったらしい。荷台に両腕を乗せたまま、クルーがシャルロットを見上げた。
「なぁ、またワットとケンカでもしてるのか?」
「え……?!」
思わず、声がうわずった。「な、何で?」とできるだけ平静を装って答えてみる。もちろん喧嘩などしてはいないが、ワットに対する態度がおかしかったのだろうか。気持ちに気付かれた――?
「いや、昨日からあんまり喋ってないだろ?珍しいなって思ってさ。違うの?」
シャルロットは返答に迷った。意識しているつもりはなかったが、ワットの事が気になっているのは事実だ。言われてみれば、荷台に乗っていた昨日はほとんど話していなかった気がする。――見つめるばかりで。
しかし、クルーにそれを悟られたくはない。
「……べ、別に、喧嘩なんてしてないよ」
ごまかすように笑って見せると、クルーは「ならいいけど」と荷台から体を離し、ニース達の方へ走っていった。
――自分が嘘をつく事が得意だとは思っていなかったが。
「クルーに言われるなんて……」
重いため息が漏れる。クルーの背を見つめながら、その先に立つワットが目には入った。
(……やっぱり、変だったのかな……)
クルーがそう感じたのならば、ワットも変に思ったりしていないだろうか。シャルロットは急速に胸がざわつくのを感じた。
そうだ、もし、気づかれなどしたら。――絶対に、笑い飛ばされるに決まっている。そう思うと、シャルロットはますますワットとどう接すればいいのかわからなくなった。
出発の支度を整え、シャルロット達はナナツモからいよいよ王都、ノラマン・ラナを目指した。今日はクルーが馬車を動かすというので、ニースと場所を交代した。ノマラン・ラナまでは、馬車で一時間もかからないらしい。事実、橋って数分もしないうちに城下街に入り始めた。その街並みは、港町と同じく白色を基調として造られた建物ばかりで、とても美しい。巨大な白い城を囲むように栄える街。それが、ノマラン・ラナだ。
水の王国の城の全景が望めるようになると、シャルロット達は荷台から身を乗り出した。
「すっごーい!」
白い光を放つ巨大で美しい城だ。その周囲は大きな湖で覆われており、まるで湖上に城が浮いているかのように見える。わずかな城の足元は緑の草木が生い茂り、湖で隔てられた街と城を繋いでいるのは、城から四方に伸びる大きな橋だけだ。
街中を走る馬車の荷台で、メレイが大きく欠伸をした。
「水の女王の……えっと、何て言ったかしら……」
「ルビー殿か?」
ニースの答えに、メレイが「そうそう」と思い出したように指差した。
「どんな子なのかしらね」
「珍しいな。お前が人の事を気にするのは」
質問とは違う返答に、メレイは「そう?」と肩をすくめた。
「十六で国を統括しているって聞いたら、誰でも興味持つと思うけど。ねぇ、シャルロット?」
ふいに振られ、シャルロットははっと我に返った。
「も、もちろん!」
たった今まで、斜め向こうで頭の後ろに手を組んで目を閉じているワットの事を考えていたから。それ以降言葉の出ないシャルロットの代わりに、今まで眠たそうに目を閉じていたクルーがその視線をニースに向けた。
「でも、火の国王だって若いだろ?確か……十八、だっけか?クニミラ家の……名前は……何だったかな」
「インショウ様だ。今年で十九になられる」
「ウソ!私と同じ歳!」
思わず、シャルロットは話に加わった。自分と同じ年の国王がいるなんて、にわかに信じがたい話だ。もっとも、この国の女王など四つも年下だと知ったばかりなのだが。
「どの国も若くなったわね、世代交代なのかしら」
「……変な事と言うなよ」
メレイの呟きに、クルーは口元を引きつらせて笑った。
正午になる前に、シャルロット達はノマラン・ラナの中心、その城の立つ湖のほとりに到着した。日中ともなると、城下街は一段と賑やかになった。それでもここは、今まで通ったどの町よりも洗練された美しさと、行き交う人々ですら上品さに溢れている。女性は皆ロングスカートに長い袖の服に身を包み、男性もそれと変わらない。白い家々は四、五階建ての物が多く、一度道に入ってしまえばそこは迷路のようだ。しかし、同じ白色の石で統一された家、道、そしてその中央の城は、思わず息が漏れるほどに美しい。飾られた緑豊かな木々や、振り向けばどこにでも目に入る彫刻付きの白色の噴水も、さすがに水の王国と銘打つだけの事はあると感じさせる。
「止めるぞ」
急激に人通りの増えてきたその場で、クルーは馬車を止めた。
「予定より早かったな」
荷台から降り、ニースが城を見上げた。足元から見上げると、その迫力には息を呑むものがある。穏やかな湖の水面に、城の姿が映し出されている。「馬車はどうすんだ?」とクルーが振り返った。
「宿を探して預けよう」
「ちょっと冷えるわね」
冷たい風が肌を触り、メレイが両腕を抱きしめた。それについては、シャルロットとパスも同じ動作でそれをアピールする。
軍服で上着を持つニース、元々長袖のクルー、そして風の王国で服を新調したワット以外、シャルロット達は砂漠を越えた時のまま、南国の格好そのものなのだ。メレイもコートを羽織ってはいるが、それも半袖で、腕も足も冷たい風にさらされている。シャルロットのノースリーブのワンピースなど問題外だろう。「その格好じゃあな」と、ワットが笑った。
「しょうがないでしょ、ずっと暑い国回ってきたんだし!」
自分こそ、あの事件がなかったら似たような格好だった癖に。ワットを睨んだ途端、寒さでくしゃみが出た。すると、頭の上から羽織れる布が降ってきた。
「ほらよ」
ワットが、荷から引っ張り出してくれたらしい。
「それでも巻いてな」
「……あ、ありがと」
鼻をすすりつつ、シャルロットはそれを肩から羽織った。「オレにも!」と、パスが身を乗り出す。ワットがもう一枚を探している途中、メレイが砂漠で日除けに使っていたローブを羽織っていた。一人荷台を離れていたニースが、こちらを振り返った。
「じゃあ、私は城へ行ってくる」
「え、今からですか!?」
「日が暮れるまで時間もあるし……。面会は無理かもしれないが、早めに行けばルビー殿に入国しているとの言伝くらい繋がるだろう。皆は宿を探して待っていてくれないか?」
「私ついていきます!」
シャルロットは勢いよく手を上げた。数少ない出番であり、自分の役目だ。こんな時くらい付き添わなくては。シャルロットの申し出に、後ろのパスが「えー!」と非難の声を上げた。
「じゃあオレも行きてぇ!」
「あら、じゃあ私も行きたいわ」
この二人が行くなら、とメレイがあごに指を当てて口を挟む。ニースが無言でそれを見つめると、クルーが隣のワットと顔を合わせた。そうなると、自然と二人で宿探しをする事になるのだが。
「男二人で出歩いても面白くも何ともねぇだろ」
クルーの言葉に、ワットも「俺達も行くか」と同意した。
「全員で行ったら宿を探せないだろう?」
思わぬ申し出の連続に、ニースが率直な意見を言った。それでは、非効率すぎる。しかしメレイが、「面会しないんだったらすぐ戻れるでしょ」と腕を組む。それぞれの顔を見回すと、ニースは自分の意見が通る状態ではなさそうだと判断した。
「……仕方がないな。じゃあこのまま馬車を引いて城まで向かう」
だんだんと、周囲の意見の方が強くなってきているような。そんな気がするのは、気のせいだと思いたい。荷台に戻る前に、ニースは重くため息が漏れた。