第17話『変化』-2
ベッドの脇の椅子で、メレイは足を組んだ。膝の上に乗せた自分の剣に目を落とし、それを触る。これうしている時が一番自分を落ち着かせると気づいたのは、いつだっただろう。知らぬ間に、メレイの口は小さな歌を口ずさんでいた。
「……あなたは、青の空へ、と、舞い、上がる……」
暗い曲調、はかなく、小さく、静かな水の波紋のような歌声に、ワットがゆっくりと目を開けた。
意識は、まだ遠いところにあった。ぼんやりと視界に映り始める天井が、まったく見覚えがないと頭のどこかで気がつく。それがどこか分からなくても、静かな歌声だけが耳から耳へと通り抜けた。
「……レクイエム……」
小さな呟きに、メレイがそれを止めた。膝の上の剣を脇に立てかけ、「気がついた?」と顔を覗き込む。うつろな目でも、自分の顔をはっきりと見返すワットに、メレイは小さく安堵の息が漏れた。それからゆっくり、椅子に戻る。
「……調子はどう?」
小さく笑むように、メレイが言った。ワットの視線が、ゆっくりと椅子に戻ったメレイに移動し、この狭い部屋には自分達しかいない事を認識する。
「……今の、鎮魂歌だよな」
「病人の前で歌う歌じゃなかったわね」
小さく笑い、メレイが椅子を立った。
「起きたこと、下に報せてくるわ。皆が喜ぶ。……あんたはまだ寝てな」
「……充分寝た」
「怪我人は大人しく言うことを聞いてりゃいいのよ」
減らず口に言い聞かせ、メレイは部屋を出て行った。だが、言われたとおりになんてする筈もない。ワットはさっそく体を動かそうと試みたが、右わき腹に痛みが走り、思うように動くことは出来なかった。「クソ」小さく呟き、仕方なく再び枕に頭を沈め、目を閉じる。眠れるわけも無いが、そうするしかないのが事実だった。
部屋を出ると同時に、メレイは慌てて隠れようとする人影を見つけた。
「……シャルロット?」
聞かずとも、隠れる場所などない廊下で背を向けているのは一人しかいない。メレイの視線をごまかす為に、シャルロットは慌てて手を振ってみせた。
「ち、ちょっと荷に忘れ物……!メレイちゃん、と、取って来てくれる?」
本当は、ワットの様子を見に来たのだが。付添い人が一人までと宣告されている以上、見つかってしまったこの場で、それは言いづらい。もっとも、メレイにはそんな事は一瞬で見抜かれていたのだが――。
「ワットなら、丁度今眠ったところよ」
思わぬ返事に、シャルロットは「え?」と目を丸くした。
「さっき一回目を覚ましたの。今、皆に報せようとしてたとこ」
シャルロットは両手を口に当てた。――涙が出そうだった。心の底から、体に安堵が広がった。
「よ……良かった……!」
「私は下に行くから、付き添いよろしく」
「……へ?」
シャルロットが返事をする間もなく、メレイは下に降りていってしまった。
喜びで騒ぎたい気持ちを抑えて静かにドアを開け、シャルロットは部屋に入った。昨夜と同じ部屋だとはとても思えないほどに、室内は静寂に包まれている。静かにドアを閉めると、ベッドに近寄り、ワットの顔を覗き込んだ。
ワットは目を閉じ、静かに眠っているようだ。苦しさなど微塵も感じられない穏やかな顔だった。それでも、布団の隙間から覗く体に巻かれた包帯を見ると、シャルロットは胸が締め付けられた。
「……良かった……本当に……」
ベッドの脇にしゃがみこむと、力抜けた。包帯だらけの腕を見つめる視界が、ぼやけてくる。
「……あんなに血が出て……死んじゃったらどうしようって……怖かったよ……」
うつむく顔で、シーツを強く握り締めた。涙が、頬を伝う。今まで平気だったのに、ワットの顔を見た途端、こらえられなくなった。――あの時、自分があそこにいなければ。
「……ごめんね。私なんて……かばってくれて……」
目元が熱くなると同時に、シャルロットは握った手に何かが触り、反射的に顔をあげた。
「どういたしまして」
目を開けたワットが、顔を向けていた。一瞬で、シャルロットはその涙が止まった。
「起きて……!」
「……いきなりそんなに泣かれて起きられっかよ」
苦笑いで、その手に触れた指がシャルロットの顔を指した。しかしシャルロットにとって、頬を伝うそれなどどうでもよかった。それどころか、益々涙が溢れた。自分を指すワットの手を掴み、睨みつけた。
「……心配、した……!あんな……、あんなっ……!」
溢れる涙で視界が揺れ、言葉が続かない。
「……まだ死んでねーし。そんなに泣くな」
冗談めいた言葉にも返事ができず、シャルロットはその手を離して何度も頷いた。それを見ているうちに、ワットも次第と意識がはっきりとし、記憶を呼び戻し始めていた。
「……昨日は……」
ワットの言葉に、シャルロットは涙を拭った。
「悪かったな、怒鳴っちまって。……でも、もう二度あんな事はすんな」
まっすぐ自分を見つめるその目に、シャルロットは昨日の自分を思い出した。――あの時は、必死で考える暇なんてなかった。
「……わかったな」
子供にでも言い聞かせるような物言いに、シャルロットは目をそらした。
「……でも私、考えてやったわけじゃない。気がついたら……」
「シャルロット」
――話をそらすな。強い言葉を遮られ、シャルロットはワットに視線を戻した。これ以上、今の状態のワットに無理を言うのはよくない気がした。その目を見つめ、「……分かった」と言葉だけの同意をしてみせる。信じてくれたのかは分からなかったが、ワットはそのまま天井に顔を向けた。
「……ここは?」
「……ジラウォーグの……民家。親切なご夫婦に、部屋を貸してもらってるの」
シャルロットの言葉に、ワットは小さく「そうか」とだけ答えた。しばらく、沈黙が続く。
「……メレイは?さっきまでいたろ」
ワットがわずかに顔を向けた。
「うん、皆にワットの事……、目が覚めたって報せに行った」
「あいつ、何か変じゃなかったか?」
「変……?」
思い当たるふしもなく、シャルロットは首をかしげた。――特別、気がつかなかったが。
「ワットの事、心配してたんじゃない? あ、でも……。昨夜ちょっとニース様と揉めてたかな」
そういえば、程度にシャルロットがあごに指を当てると、ワットはまた天井に視線を戻した。
「あれは……土の国の鎮魂歌か」
呟くような小声をよく聞き取れず、「ん?」と聞き返した。「いや」と、ワットが口を閉じる。――ニースといえば。シャルロットは思い出した事があった。
「そういえば、ニース様が最低でも三日はワットの為に休養を取るべきだって」
「三日!?」
驚きに、ワットが思わず体を起こし、冗談じゃない、とばかりに目を丸くした。
「もう十分休んだ。またあんな奴らが出るようじゃごめんだけど、これくらいの怪我、普通に移動できるぜ。だいたいそんなのんびりしてらんねえって前に言ってただろ」
「何言って……ちょっと!動けるわけないじゃない!」
ワットがベッドから足を出したので、シャルロットは慌ててそれを押し戻した。
「平気だ、ニースんとこ行ってくる」
怪我をしているというのに、力だけは強い。シャルロットの手をどかし、ワットが布団を蹴落とした。
「ニース様の旅も急ぐけど!悪化させたらもっと足止めしちゃうことになるわ!」
その方が大変でしょ、とわざと言ってみても、ワットは「これ以上迷惑かけねー」と聞く耳も持っていない。
「迷惑って……!何言ってんの!助けてくれたんじゃない!」
強く押し戻そうとしても、簡単にその腕につき返されてしまう。
「悪化させたらどうすんのよ!私そんなの見てられな――…」
言いかけで、シャルロットは言葉に詰まった。思わず手から、力が抜ける。瞬間的なそれに気が付いたのか、ワットも顔を向けた。
「……どうした?」
ワットの言葉など、耳に入らなかった。
そうだ。自分はこれ以上ワットが怪我をする姿を見てはいられない。この人には、いつものように自信に溢れた態度で笑っていてほしいから。――知っているではないか。一度だって、ワットが自分の忠告を聞き入れた事などないことを。
「……たまには……言う事聞いてよ……」
俯くシャルロットに、ワットは口をわずかに開いた。その時、部屋のドアが開いた。
「ワット、気がついたのかー……って何起き上がってんだよ!」
顔を覗かせたクルーの声が、喜びから怒声へと変化した。続けて、「あー!ワットぉー!」とパスがいつもに輪をかけた笑顔で飛び込んできた。クルーとパスがワットに駆け寄ると、ワットを押さえていたシャルロットはそれに巻き込まれる前に顔をそらし、手を離した。ワットが呼び止める間もなかった。シャルロットは、そのまま部屋のドアに足を走らせた。
「どうかしたのか?」
入り口ですれ違うニースとメレイにも顔を向けず、シャルロットは「何でもありません」と廊下に出て勢いよく部屋のドアを閉めた。
――顔が熱かった。足が震え、頭がおかしくなりそうだ。
もっと自分の声を聞いてほしい。自分の声が、もっとワットの心に届いてほしい。あの人と、ずっと一緒に笑っていたい――。
廊下の壁に背をつけ、シャルロットは両手で顔を覆った。
「……何考えてんの、私……!」
溢れ出そうな感情に、頭がぐちゃぐちゃだ。今まで人に感じた事のない想い――。だが、それを知らないわけではない。砂漠で独りぼっちになった時、風の城でワットと踊った時、ワットと一緒にいるたび、そう思った。
両手を下ろし、それを見つめた。――ああ、そうなんだ。
膝を抱えてうずくまり、シャルロットは顔をうずめた。
好きなんだ、ワットの事が。大好きで――だからこんなにたまらないんだ。
ワットのベッドを囲い、ニース達は腰をおろした。半身を起こしたワットの体はTシャツを着ているとはいえ、包帯が目立ち、痛々しい。それをまったく感じさせない顔で、ワットは周囲を見渡した。
「シャルロットから聞いたけど、俺はすぐにだって出発できるぜ。船に乗っちまえば、しばらくそのままだろ」
「馬鹿言え、お前こんな体で出歩けるかよ」
ベッドの脇に腰掛けていたクルーが腕を組んでワットを睨む。
「んなもん余裕だ。鍛えてあるからな」
「お前……」
何だその根拠のない自信。クルーは口元を引きつらせつつも、怒りを抑えた。怪我人の頭をはたくわけにもいかない。顔も向けないワットへの苛立ちをニースに向けると、ニースは無駄な意地の張り合いに小さく息をついた。
「……ワット、俺が急ぐと言ったのを気にしているのなら、それはよせ。せめてお前が自由に動けるようになるまで、出発は延期する」
ワットが口を開けるも、それより先にニースが続けた。
「道中でまたあいつらが襲ってこないという保障がない。奴らが狙っているのは……」
「お前、だろ」
言葉を遮り、ワットが言った。その目が、ゆっくりとニースに定まる。
「砂漠の時も、シャルロットはあいつらがお前を狙ってたっつったな。お前はどうだか知らねぇが、あいつらは確実にお前を知ってて狙ってるぜ」
「……予測でしかないが」
強い口調の言葉に、ニースは反論もせずに目を伏せた。しばらく沈黙が続くと、パスは口も出せず、固唾を飲んだ。
ゆっくりと、ニースが口を開く。
「もしまたああいう事態になった時、俺一人で全員は守れない。それを考えると、ワットには動ける状態でいてもらわなくては困るんだ。……シャルロットやパス達を守れるように」
ニースの言葉に、「おい!」とパスが身を乗り出した。
「オレはそんなに足手まといかよ!オレだってちょっとは……」
「パス」
振り返ったニースの視線に、パスが言葉を止めた。
「君はまだ将来のある子供なんだ。外での戦いは命を落とすことだってありえる。今回は、運が良かっただけだ」
強い口調に、パスは何も言えなかった。――自覚がないわけではない。今、目の前のワットが負っている傷は、あの時のパス自身の短絡的な行動のツケだ。そんな事は、十分すぎるほどわかっているのだ。そして、それを誰一人として責めないことも。
視線を床に落とし、パスは唇を噛んだ。
「おい、つけ上がんなよ」
ワットの低い声に、ニースは振り返った。
「俺はハナからお前の警護についてるわけじゃねぇ。だからお前に指図される覚えもねぇし、もしあいつらが襲ってこようと、俺はガキ二人くらい守れってやれる!お前の力を借りなくても!だから出発は明日にしろ!」
怒声が響き渡ると、部屋は一層静まり返った。ニースを睨んだまま、ワットは目をそらさない。合わせた視線を、外してしまえば負けだ。
ニースが、先にそれを離脱し、小さくため息をついた。
「……自信過剰だな。奴らはそんなに甘くはない」
立ち上がり、ニースは部屋のドアに足を向けた。「ニース」まだ話は終わってないだろ、とクルーの呼び声に、ニースは足を止めた。
「出発は明後日」
静かに、ニースが言った。
「それまで絶対安静を守れるなら、明後日にここを発つ。破ったら、また出発は延期する」
振り返り、ニースはワットを見てかすかに笑った。
「……さっきの言葉、忘れるなよ」
ニースがドアを開けると、ワットはいつの間にか進められている話にはっと我に返った。
「おい、明日だって……」
言葉の途中でドアは閉まり、ニースは行ってしまった。
ワットの隣で、クルーが小さく吹いて笑った。
「『指図される覚え』ってのが、ないんじゃないのか?」
ワットは思わずニースの出て行ったドアを睨んだ。
「……あの野郎」
言ってくれる。それでも、ワットはいつのまにか口の端が上がっていた。