第13話『涙』-2
そこには、天窓に足を引っ掛け、少女が逆さまになってぶら下がっていた。おそらくパスとさほど歳も変わらないだろう。手足もまだ細い。白地のすその短い服に、ももまで上げた靴下、硬そうなくるぶしまでのブーツ。手にも、飾りのような白い手袋をはめている。そんな見たこともない服装に、薄茶色のまっすぐな髪をポニーテールに結った、大きな目が印象的な可愛い少女――。
(お、女の子!?)
シャルロットの見ている前で、少女は造作もなく足を天井から離し、クルリと回転して床に落ちた。「あ!!」と思わず口を開くも、それと同時に少女は地面に落下――いや、小さく片手を付き、両足で綺麗に着地した。シャルロットは声が出なかった。天窓から床まで、シャルロットの身長が四、五人分近くはある。――自分の目がおかしいのか?少女はまるで、ニ、三段の階段を飛び降りただけのようにけろりとしている。
シャルロットのそばに立っていた男が腕を組み、少女を見てため息をついた。
「何でお前がここにいるんだよ。つーか、いつからいた?」
「あれ?ユッちゃんひょっとして怒ってる?」
親しいのか、少女の男に対する態度はあっけらかんとしたものだった。しかし、男の内なる怒りに気がついている様子はない。
(な、何かよく分からないけど……助かった?)
二人がシャルロットを意識の外に置いているうちに、シャルロットは目立たぬようにゆっくりと体を起こした。
「質問は俺が先だ、答えろ」
高圧的な男の態度に、少女が「むー」と頬を膨らませる。
「むーじゃねぇ!」
カンに触ったのか、男が怒鳴った。口を尖らせ、少女がしぶしぶと答える。
「あのねー、退屈してたからユッちゃんの所に遊びにきたの。そしたらユッちゃんがこの部屋に入るのが見えたから……そこから」
少女が笑って天窓を指差した。
「ビックリ作戦成功だね!」
いたずらが成功した子供のように、少女が飛び跳ねた。それを見て、男が大きくため息をついた。
「……んだよ、ハナからか」
「そーだよぉ、ユッちゃんお姉ちゃんに夢中で全っ然気づかないんだもん!」
――最初から?――馬鹿な。まったく気がつかなかった。シャルロットは驚いて少女を見つめた。――しかし。
(だったら何でもっと早く助けてくれないのよ!!)
考えずとも、そう思わずにはいられないかった。
「つまんないから降りてきちゃった!ねぇ、遊ぼうよユッちゃん!」
そんな事を微塵も気にかけていない少女は、甘えた声で男の腕を引いた。その途端、「ダメだ」と男に腕を払われていた。
「大事な話中だ」
あっけない却下に、少女が「えぇー」と不満の声を上げた。
「えーじゃねぇ、順番だ、順・番!」
きっぱりと言い切られると、少女が口を尖らせてシャルロットを見つめた。彼女にしてみれば、シャルロットのせいでこの男と遊べない。少女と目が合った途端、シャルロットはこれはチャンスだと思った。――この子になら、男を何とかしてもらえそうな気がした。
「ね……」
「あー!」
シャルロットが声を出そうとした途端、少女の大声にそれはかき消された。いぶかしげに、男が「…んだよ」と聞き返す。
「大事な事思い出した!姉様が言ってたこと!」
「俺に関係ある事か?」
「ううん、でもすっかり忘れてた。お姉ちゃん見て思い出したよ、危ない危ない。あのねー、ここに来ること姉様に言ったら、姉様がユッちゃんの事報告してねって言ってたの」
「報告だぁ?何のだよ」
「何でも」
「…ったく…信用ねぇなぁ…」
けろりとした少女に、男が息をついた。その視線が、シャルロットをチラリと見た。
「とりあえずこの女の事はエフィには言うなよ」
「お姉ちゃんいじめてた事?」
「いいから、全部」
押さえつけるような物言いに、少女が首を傾げて考えるように男を見た。二人が話しこんでいる隙に、シャルロットは縛られた後ろ手が解けないかと密かに力を入れた。すると、先ほど暴れたこともあり、紐が徐々に緩み始めた。手を引けば、紐がほどける。
(やった!)
「ずっと待ってたからお腹すいちゃったなー、おいしいもの食べたいなー」
少女の笑顔の一声に、一瞬の沈黙後、男が少女に対して怒りを覚えたのがシャルロットにもその背から伝わった。一瞬、先程までの男を思い出す。こいつを怒らせたらどうなるか――。
一瞬冷や汗が出たが、男が少女に対して怒鳴り散らすことはなかった。その代わり、男はシャルロットを振り返った。既に手の紐が絡まっているだけの状態になっていたシャルロットは再び別の意味で全身が一気に冷えた。
(近寄るな!バレちゃう!!)
しかし男はそれを確認することなく、シャルロットの目の前にしゃがみ込んだ。胸ぐらを掴み、自分に寄せる。
「……逃がす気はねぇぜ」
目の前の鋭い目が、低い声で言った。シャルロットは手の紐のことなど頭から吹っ飛んだ。――身がすくんだのだ。
「すぐ戻る。……お楽しみはその後だ」
放心しているシャルロットを乱暴に離して立ち上がると、男は部屋のドアを開けた。「行くぞ」と少女を振り返る。
「わーい!」
男が部屋を出ると、少女は両手を挙げて男について行った。
「バイバーイ」
部屋を出る間際、少女がシャルロットに無邪気な笑顔で手を振った。重いドアの閉まる音と共に、大きくかぎの音が響く。それと同時に、シャルロットは気が抜けた。体の力が抜けると、つながれたフリをしていた手が紐から抜け、だらりと地面に落ちた。部屋にはまた、一人っきりだ。それに気がつくまで、少しかかった。
「……いっ!」
男に抑え付けられた体が痛んだ。それと同時に、シャルロットは我に返った。ドアを振り返り、「いーっだ!」と舌を出した。
「あんたが帰ってくる前にこんなとこ出てってやるわよ!」
ドアを睨みつつも、目の前がわずかに揺れた。その原因が、ぽたりと頬を滑って石の床に落ちる。
――泣きたくなんてないのに。あんな男のせいで、涙を流したなんて思いたくない。勝手にこぼれ落ちるそれを、シャルロットは手で拭った。しかし、涙はどんどんこぼれ落ちていく。頭で認めたくなくても、体はわかっていた。
(……怖い)
涙を拭う手が、かすかに震えた。もう一方の手でそれを押さえても、震えはとまらなかった。シャルロットは座り込んだまま身を抱きしめた。
「……怖いよ……!…助けて…ワット……!!」
深く床に崩れたまま、シャルロットは小さくうずくまった。
月が真上に昇り、星の輝く真夜中、ワット達は馬でデイカーリの古城跡、オアシスに到着した。
「これか……!」
「デイカーリの古城……。真近で見たのは初めてだ」
先頭のニースとウェイが古城を見上げた。先のシィ・レーのオアシスと比べると、全景が比べ物にならないほど大きい。
――果たしてオアシスなどと呼べるのか。潤いなど微塵も見られない、半分以上が崩れた巨大な石造りの城――。それを囲うような巨大な森だ。しかし、その大半は枯れた草木。それは栄華を極めた時代を当に過ぎた、惨めな城の姿だった。――半壊。そんな言葉が似合うほどに、城も大きく壊れている。
「古城がアジトってか……上等だぜ」
馬から飛び降り、ワットはオアシスへと足を踏み入れた。
「気をつけろ、見張りがいるかも……」
ニースの言葉にワットが振り返った途端、ワットの背後に男が二人現れた。石壁の影に隠れていたのだ。パスがワットを指差し「あ!」と声を上げた。
「貴様ら!ここに立ち入ってタダで済むと思うなよ!!」
男の一人のナイフがワットの首を狙ったが、一瞬で振り返ったワットは、男の手首を掴んだ。男が目を見開く間に、ワットはその勢いのままナイフを男の逆の肩に突き立てた。
「うああっ!!」
悲鳴と同時に、かすかにワットの顔に血が飛んだ。
「てってめぇ!!」
もう一人の男が声を上げた時には、ワットは既にナイフを刺した男を視界に入れていなかった。相手から振り下ろされたサーベルを、鋭くかかとで蹴り上げる。その衝突で、サーベルが真っ二つに折れた。
「い…っ!?」
驚愕で隙ができた男を、ワットは二撃目の蹴りで地面に叩き伏せた。
パス達が声を上げる間もない、一瞬の事だった。ワットが二番目に倒した男の胸を踏み、冷たい目で見下ろした。
「てめぇらが連れ去った娘はどこだ」
「う…っ」
男は痛みでそれどころではないらしい。それでもワットは砕いたサーベルの刃先を拾い、男の足に突きたてた。
「ウアアアッ!!」
男の悲痛な叫びに、パスは思わず目をそらした。ワットが刃を抜くと、そこから血が吹き出した。
「ぐぅ…っ!は…っ!」
その血のついた刃を、男の顔へと近づける。
「答えねぇとこのまま殺す」
「あ…、し、城の…中……!」
命ごいのような男の声に、ワットは立ち上がった。
「……行くぞ」
わずかに振り返り、ワットは一人足を進めた。顔を合わせ、メレイとウェイがすぐにワットを追った。しかし、パスはそこに立ち尽くしていた。いや、動けなかった。
――垣間見たワットの目。表情こそないものの、今のは確実にパスの知らない顔だった。
「パス、行くぞ」
ニースに背を叩かれ、パスは我に返った。無理矢理足を進めながらも、額に流れる汗を拭った。
――怒りの色。ワットのあんなに強い感情を、怒りを見たのは初めてだった。ニース達も感じただろうか。ニースの背を追いながら、パスは首を横に振って邪念を追い払った。
何かが壊れるような音と、寒さでシャルロットは目が覚めた。
部屋の隅で横たわったまま、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。天窓を見上げると、切り取られたような濃紺の空には星が散らばっていた。わずかに身を起こし、寒さに身を抱きしめた。
「寒……」
ドンッ!
響いた物音に、シャルロットは体がびくりと反応した。
(あいつが戻ってきた……!?)
部屋の隅に転がったモップに飛びつき、シャルロットはドアの真横に立ってそれを構えた。
(……闘ってやる。あんな奴、私一人でやっつけてやる!!)
モップの柄を握り締めると、次第に心臓の鼓動が音を立てるほどに早く、激しくなった。――手が震える。大丈夫、大丈夫だ。口を噛んで、それをこらえた。
(一人だってできる!!)
モップを強く握り締めた。
ドアノブが音を立てて揺れると同時に、シャルロットの心臓が張り裂けんばかりに高鳴った。
もう一度、ドアノブをまわす音。今度はゆっくりとドアが開いた。外からの足が覗く――。目を閉じ、シャルロットは全力でモップを振り下ろした。
「えい!!」
ガンッ!!
モップが地面にたたきつけられる音に、シャルロットは目を開けた。――外した!
相手が前方に転がってそれをよけたのだ。
「シャルロット!!」
「……え?!」
自分の名に、シャルロットは反射的に顔を上げた。それは、そこにいるにはありえない声だ。部屋の中心で膝をつき、目を見開いてこちらを見返しているのは――。
「…ワ…ット!?」
手からモップが転がり落ちても、シャルロットはまばたきすらできなかった。――そんなはずはない。こんなところにいるはずは――。
開いた口を縛り、ワットがシャルロットを睨みつけた。
「あっぶねぇな!お前殺す気……っと!」
立ち上がりかけたワットに、シャルロットは飛びついた。ワットが再び後ろにしりもちをつく。それでも、シャルロットはそんな事にすら気がつかなかった。力の限りでワットに抱きついた。――何も考えられない。ワットにしっかりと抱きついていたかった。
「…こ…怖かった…!」
詰まる喉から、やっと出た言葉だった。ワットはその震える手に、体を支配していたものが静かに引いていくのを感じた。緊張の糸が切れたような息を漏らし、その手でシャルロットの背を抱きしめた。
同時に、部屋の外側で足音が響いた。
「ワット!先走っちゃ……シャルロット!」
入り口から顔を出したのは、メレイだった。シャルロットは現実が信じられなかった。
「メレイ!!」
メレイにも飛びつきたかったが、一度緩んだ緊張から足が立たなかった。代わりに、メレイがシャルロットのそばにしゃがみ、ワットからシャルロットを引き離して抱きしめた。
「メレイ…!」
「良かった…あんたが無事で…!」
身を離し、その手で強く頬を撫でた。
「…何もされなかった!?怪我は……」
言葉の途中で、シャルロットは首を横に振った。すぐにニースとウェイ、パスが部屋に息を切らして飛び込んできた。
「ニース様!ウェイ、パス!!」
シャルロットの目からも、部屋に入った瞬間にニース達の顔が緩んだのが分かった。メレイに支えられ、シャルロットは立ち上がった。
「良かった……無事で…!」
(…ウェイ…)
ウェイが息をつきながらわずかに笑んだ。
「心配したぜシャルロット…!!」
(…パス…)
パスは糸が切れたように大きな息をつきながらその場にしゃがみこんでしまっている。
ニースが、シャルロットの目の前に立った。
「…ニース…様…」
「怖かっただろう…。無事で…良かった…」
ニースの優しい手が顔に触れると、シャルロットは腹の奥で何かが溶け出した。それが体中にめぐり、胸から熱いものがこみあげた。
――望んでも、現実になるとは思ってはいなかった。こんなちっぽけな自分を、こんな砂漠の果てまで助けに来てくれるなど、思ってはいけないと。
――本当に来てくれるなんて。私なんかの為に。
メレイに寄りかかったまま、シャルロットは溢れ出る涙を止めることはできなかった。