第12話『月明かりの下で』-1
「なに今の声!!」
音を立てて、ミウが小屋から飛び出してきた。しかし、ウェイはそんなことにも気がつかないほど手をついて崖下を見つめていた。ほぼ同時に、ニースが悲鳴を聞きつけて森から戻ってきた。
「どうした!?」
その声に、ようやくウェイが振り返った。
「…三人が落ちた。君の仲間が…」
その顔は、まだ驚愕の色が残っている。「ウソ!!」と、ミウが顔色を無くしてウェイの隣についた。崖下を覗き込むも、やはり薄霧にさいなまれて何も見えない。ニースはウェイの肩を引いた。
「どういうことだ?!」
「…パスとシャルロットが落ちかけて…。ワットが助けに行ったら足場ごと…」
ウェイの言葉はおぼつかない。足元を見ると、確かにそこは地面がごっそりと欠けた跡が見られた。膝を付き、下を覗く。
「シャルロット!パス!ワット!!」
声を上げたところで、当然反応もない。「…下は?」と、立ち上がり、ニースはウェイの胸元を掴んだ。
「下はどうなってる!?」
ニースの強い声に、ウェイはやっと我に返った。
「…ガッツァの湖…」
その目が、崖下に向く。
「深い湖だ。…下手をしていなければ死にはしないとは思うが…」
即座にウェイを離し、ニースは崖縁に手を付いた。何かを探し、周囲を見回す。この程度の崖なら――。ウェイがはっとした。
「おい、待て!…まさか…!」
腕を掴まれ、思わず「何だ!」と怒鳴った。
「降りる気なのか!?」
「当然だ!無事を確認しに…」
「無理に決まってるだろ!!」
ウェイの剣幕に、ニースは言葉が遮られた。ウェイとニースの怒鳴り声に、ミウは口を挟む間もなく崖下を覗く目を向けた。
「下手をしていなければ彼等は無事だ!」
「だからこそ…」
「ここは絶壁だ!一度降りたら…登ってこられない」
ウェイがわずかに語尾を濁した。そらした目に、ニースは口調を強めた。
「だったら何だ」
「地図で見たろ?ラサ方面に繋がる河は全て要塞でふさがってる。橋も無い。つまり……ここを降りたらゴール砂漠を越えるしかなくなる。あんた達四人だけで賊のたまり場の砂漠を越えるのか?それこそ無事ではすまない…!」
ウェイの差し迫った説得にも、ニースの心には届かなかった。「だったら」とニースが顔を上げた。
「あの三人だけで越えろというのか」
その言葉に、ウェイが手を離した。――その目の決意は、既に決まっている。
「俺の旅について来ただけなんだ。…こんなところで見捨てるわけにはいかない」
信じがたい決断に、ミウが立ち上がった。かまわず、ニースは崖の具合を目で調べた。
「世話になった。荷を持ってここから行く」
ミウがウェイを見上げたが、ウェイはニースの背を見つめるだけだ。わずかに間をあけ、ウェイが口を開けた。
「…待て」
ウェイの声に、ニースは振り返った。
「…下で…三人と合流できたら、北側の渕で待ってろ」
その言葉に、ニースはわずかに目を大きくした。
「砂漠の知識は無いだろ?…俺が案内する」
「ウェイ兄!?」
「砂漠を越えるのに必要な物を集める。時間がかかるから先に行ってろ」
口を開けたまま、ミウは言葉も出ていない。ウェイが小屋に足を向けた。
「…あんた達の荷も一緒に持って行く。早く行ってやれ」
「…すまない」
わずかに目を合わせ、ニースは決意を固めた。身を乗り出し、崖に一つ一つしっかりと足をかけ、そこから下る――。
「ち、ちょっと!!」
ミウが止める間もなく、ニースの姿はすぐに見えなくなった。ウェイが、小屋に向かった。
「ウェイ兄!」
ミウは走って、ウェイの腕を掴んだ。
「ウソでしょ!?砂漠に下りるなんてどうなるか…!!落ちた人達だって生きてるかもわかんないのに!!」
「…だからこそ、放ってはおけない。…もし生きているなら……判るだろ?」
「判んない!私達はどうすんのよ?!ウェイ兄が……帰ってこなかったら?!」
必死に自分を見上げて揺らぐ目は、まるで幼い子供の目だ。ウェイはミウの頭を優しく撫でた。
「大丈夫だよ。砂漠を抜けて風の国境まで送ったら、そこで馬を借りて山道から戻ってくる。今までだって、ちゃんと戻ってきただろ?それに俺が彼らを助ける気持ちは……お前になら判るはずだ」
うつむいたまま、ミウは顔を上げなかった。
「…あいつら…起こしてくる」
ウェイの手をすり抜け、ミウはウェイを残して先に小屋に戻った。
…ゴポッ…
シャルロットは夢の中にいた。
自分が自分でないような感覚に飲まれ、一面は暗闇――。自分の手が視界に入り、闇の中に水の泡が見えた。その手を誰かに掴まれると、シャルロットは別の場所にいた。
暗く狭い箱の中で、唯一の細い光――。そこから、民族的な衣装の女性がこちらに向かって何かを言っている。手には赤子を抱き、必死に訴えている。
『ここでじっとしているのよ 何があっても何が聞えても 絶対に出てはだめ 判ったわね』
言葉の終わりと共に、光はもっと小さな隙間に変わった。その隙間から、女性が去っていくのが判った。すると、とたんに恐怖心が胸を襲った。――行かないで。
『(…まって…まって…私も連れて行って…!!)』
言葉が喉に詰まり、出てこない。
「…い…」
出て、出て――。
「行かないで!!」
「おい!!」
叫ぶと同時に、シャルロットは飛び起きた。
同時に、全身が濡れていることに気が付いた。しかしそれは、水だけではない。自らの汗だ。目の前に、ワットの顔があった。心配するような顔――。
「大丈夫か?!」
やっと、我に返った。目をまたたいて見返すも、何も思い出せない。
「ずいぶんうなされてたぜ。ヘンな夢でも見たのか?」
「…そ…そうだった…?」
よく思い出せない。いや、正確には意識が覚醒すると共に、その記憶がどんどん薄れていくようだ。同時に、耳に憑くような大きな水音――。振り返れば、すぐ隣に大きな湖があった。その奥には、天高くまでそびえた崖だ。――そうだ。
「私達上から…!!」
ワットの腕を掴むと、自分の服がびしょ濡れで、だいぶ肌が出ていることに気がついた。
「あっ!」
「どわっ!」
思わずワットを突き飛ばし、服を整える。
「おい!」
ふざけんなと言わんばかりのワットの怒鳴り声に「ごめんごめん」と謝りつつ、よくよく見ると、ワットも全身が濡れていた。自分の隣には、パスが寝ている。膝をついたまま、パスに近寄った。
「パス……大丈夫なの…?」
「気を失ってるだけだ。お前ら、気を失ったまま湖に落ちたんだよ。深かったし、運が良かった」
そう言って、ワットは天高く上る崖を見上げた。――ワットが助けてくれたのか。
「…ありがとう」
シャルロットの声に、「ああ」と気の無い返事をし、ワットは頭を振って髪からしたたる水を払った。
「この暑さだ。服もそのうち乾くだろ。それより…」
「うお!!」
ワットの言葉の途中で、パスが飛び起きた。しかし、シャルロットと同様、起きてもすぐには記憶が戻っていない。
「…お目覚めか」
ワットの言葉に、パスがはっとした。
「た、助かったのか!?」
ワットが呆れて息をつく。「みたい」と、シャルロットは答えた。
「…こ、ここは?」
口を開け、パスが頭上を見回した。目の前に一面に広がるのは、金色の砂漠。背後は湖と、そこから延びる河。そして、そびえたつ崖――。他にあるとすれば、ごろりと転がった岩だけだ。
「…ガッツァの湖。砂漠と砂の国を分ける、ガッツァの河の一番東にあたる場所だ。…あの小屋、ここの真上だったんだな」
頭上を見上げ、ワットが呟いた。
「ど…どうやって戻るんだよ」
恐る恐る、パスが口にした。しかし、その答えは当人にも予測はできているだろう。不安の混ざった目で、シャルロットはワットを見上げた。二人のすがるような視線に絶えかねたのか、ワットが崖の上を見つめた。霧で、天井は見えない。
「…戻んのは無理だろ」
「じゃあどうすんだよ!」
パスが怒鳴った。気に留めず、ワットが河に視線を移す。
「河を渡るのも無理だ。あっちを見ろよ」
言われなくても判っているが、向こう側の湖と河の渕は、高い塀に囲われている。ラサで聞いたとおりだ。賊避けの柵――。あれがあっては、向こうに行っても陸には上がれない。
「唯一の橋も今は無い」
「…じゃあまさか…」
シャルロットは一面に広がる砂漠を見つめた。
「そのまさかだな。…砂漠を越えるしかない」
賊避けとして作られた壁を、自分達が越えられるわけがない。
「…うっそぉ」
思わず、口から漏れた。砂漠を越えるなど、想像もできない。
「砂漠なんてどうやって抜けるんだ?…何日かかるんだ…?」
「…俺が知るか…」
言葉の途中で、ワットはわずかな物音をとらえた。反射的に、後方の岩山を振り返る――。
ズサッ!!
「うお!」
同時に、人影が降ってきた。その音に、パスとシャルロットも振り返る。片手をついて膝を上げるその顔は――。
「ニース!?」
思わずワットが声を上げた。唖然と自分を見つめるシャルロット達に、ニースの顔がかすかに緩んだ。
「良かった…無事だったか」
息をつきながら、そう言った。シャルロットは言葉が出なかった。どうやってこんな崖を下ってきたというのだ。ここに降りたらどうなるか、――いや、降りることさえ危険極まりないと言うのに。シャルロットとパスが口を開けている間に、ワットがいち早く我に返った。
「ばっ…!!何やってんだお前?!」
前のパスを押しのけ、ワットがニースに掴みかかった。
「お前まで降りてきたら…」
「ウェイも来る」
「はぁ!?」
温度差の無い返事に、ワットは思わず声が裏返った。
「ここからは砂漠を越えるしか道がない。ウェイが案内してくれるそうだ」
言葉に詰まるワットを通り越し、ニースはまだ口を開けているシャルロットとパスの肩に手を乗せた。
「…二人とも無事で良かった」
言葉が出ないまま、シャルロットはニースを見上げた。ワットが鼻で笑った。――笑うしかない。
「人が良いにも程があるぜ」
ニースがその場に腰を下ろした。
「ウェイが来るまでここで待つ。数時間で来るだろう」
誰にも、それ以上ニースを問い詰める気力は残っていなかった。
日が頂上まで昇った頃、ニースと同じように、ウェイが崖から降りてきた。既にシャルロット達の服はすぐに乾いていたが、代わりに暑さで大量の汗をかいていた。岩陰とはいえ、暑さには変わりない。ニースが制服の上着を貸してくれたので、シャルロットとパスは身を寄せて頭からそれをかぶって日除けとした。黙って熱さに絶える中、自然と口数も無くなっていたが、ウェイが来ると同時にパスが駆け寄った。
「やっときた!!」
待ちくたびれたと言わんばかりのパスに、ウェイは背負った荷の一部を渡した。見覚えのある、シャルロット達の荷だ。
「お前達の荷と、食料。水筒も必要だろう」
落とすように荷を置くと、水筒を数個、近くのパスに渡した。「水汲んでくる」と、パスは今までの疲労を忘れるように湖へ走った。
「日が暮れたら出発しよう。それまでは岩陰で体力を残しておけ」
「何で日が暮れてから…?」
水を汲みながら、パスが振り返った。一刻も早く、こんな場所からは去りたいのに。
「日が落ちているうちでないと移動できない。日中はこの通り、日陰にいても参ってしまう。これを着ろ、夜は冷える」
「またかよ」
熱くても上着、寒くても上着。パスがため息をついた。
「ウェイ、いろいろとすまない」
「…礼はここを抜けてからでいい」
ニースの言葉に、ウェイは表情も変えずに答えた。




