第10話『始まり』-1
夕食を終えると、ワットとパスはニースと一緒に部屋に戻っていった。どうやら、ニースの部屋に泊めてもらうらしい。ニース達が出て行く時、入れ違いでミーガンとスイードがやって来た。
「おう、付き人の話はどうなった?」
「エリオットは?」と居間に上がる二人に、シャルロットは首を横に振った。
「部屋にいるわ。聞く耳も持ってくれない」
あれから、エリオットは一度も部屋から出ていない。
「あ、メシ食っちまったか!せっかく俺が作ってやろうと思ったのに…」
台所の皿が目に入ったのか、スイードが言った。「でも俺らはまだだし」と、続けて手荷物と一緒に台所に立つ。どうやら、食材を持ち込んで夕食を作ってくれる予定だったらしい。ミーガンと同じく、スイードもまだ見習いとはいえ、シャルロットが作る料理よりはずっとプロに近い。
「どーせエリオット食べてないんでしょ?だったら三人前作っちゃおうよ」
台所にスイードを残し、シャルロットとミーガンはテーブルに着いた。
「で、話はどこまで進んだの?」
「…ディルート様はお兄ちゃんが賛成するなら行ってもいいって」
「ホント!?それなら行けたも同然じゃん!」
「…えぇ?」
眉をひそめるシャルロットに、ミーガンはエリオットが部屋にいることを思い出して声を潜めた。
「(だって、行きたいんでしょ?)」
「(う、うん…)」
つられて、シャルロットも小声になる。
「(だったら行かなきゃ!私だって…料理人になろうって決めた時、パパはすごく反対したわ。料理の世界ではまだまだ男の方が多くて、女には不利だからって…。でも私は料理人になりたかった。パパになんて言われようと、私はパパみたいにすごい料理を作って…皆を喜ばせる料理人になりたかったから…)」
シャルロットは自然とミーガンから目を離せなかった。ミーガンが続けた。
「(反対を押し切って見習いになったけど、全然後悔なんてしてないわ。むしろ挑戦して良かったって思ってる。だからシャルロットもせっかくやりたい事があるなら…ちょっとくらいディルート様に嘘ついたっていいじゃない?)」
「…ミーガン」
「(エリオットが反対してたって、それがバレなきゃいいのよ。シャルロットが出ていっちゃえば、エリオットは認めるしかなくなるし)」
「…で、でも…」
そんな事ができるか?兄に黙ってそんな――。振り返ってスイードに意見を求めようとしたが、ミーガンが両手でシャルロットの頬を持って顔を向けさせた。
「あんたの気持ちって、そんなもの?」
そのまっすぐな目に、はっとした。――そうだ。ミーガンがその決意をした時だって、知らないわけではない。あの時、ミーガンはとても悩んでいた。それでも背を押したのは紛れもない――自分だった。今の自分は、あの時のミーガンだ。
「…違う。違うわ」
はっきりと、シャルロットは言った。ミーガンが手を離し、口元を微笑ませた。
「私はいつでも、あんたの味方よ。もちろん、スイードだって」
振り返ると、スイードが笑顔を向けていた。シャルロットは、胸からこみ上げるものがあった。こんな無謀な意見にも、自分を信じて応援してくれる事が嬉しかった。言葉に出ない思いに、シャルロットは、ミーガンに強く抱きついた。
ミーガンとスイードは夕食をとった後、シャルロットを励まして家に帰っていった。一人残ったシャルロットは、カーテンの閉められたエリオットの部屋を見つめた。そこに歩み寄り、部屋の壁を軽くノックする。
「お兄ちゃん、起きてる?」
少し待っても、返事はない。
「…私…」
「…疲れてんだ。お前も早く寝ろよ」
言葉の途中で、静かな声が返ってきた。先の続かない言葉は、シャルロットにこれ以上何も言うなと言っている。胸が、きつく締まるのを感じた。シャルロットはゆっくりと部屋から離れ、家を出た。
使用人塔の屋上は、日中と違い、閑散としていて何もない。背後には宮殿、目の前は一面、大陸だ。手すりに手をかけると、冷たい夜風がシャルロットの頬を触った。海と乾いた土に囲まれたこの地は、昼の暑さが嘘のように、夜は特別に冷える。
「やっぱ寒…っ」
景色を見渡しながら、シャルロットは身を抱きしめた。ここからは昨日通過したドミニキィ港、出発前に訪れたベル街、その奥にあるバント市、そしてさらに遠くには、にわかに砂漠が見える。よく晴れた空には、無限に散らばる星々と、輝く半月が見えた。――ここの景色は好きだ。昔から、幼い頃から大好きだった。南の大陸に行く前も、この場所で空を見た。
コッ
背後の物音に、シャルロットは振り返った。
「ワット…?」
毛布を片手に、ワットがそこに立っていた。
「どうしたの!?こんなとこに!」
「こっちのセリフ。廊下からここに登っていくのが見えたんだよ」
ワットがその手の布を、シャルロットに投げた。ワット自身は何も羽織っていなかったが、特別寒そうにも見えない。シャルロットは毛布を羽織り、小さく礼を言った。小さな優しさが嬉しくても、今は素直に喜べない。
「エリオットとは…」
「…話して…もらえないわ…」
その理由も察しがついているワットの言葉に、シャルロットもまた、返す言葉はなった。手すりに手をかけると、隣にワットが立った。
「…兄貴が反対したら、お前は諦めるのか?」
シャルロットはワットを見上げた。――親友と同じ事を言う。
「自分の好きなようにしろよ。兄貴の人生じゃない…お前の人生なんだぜ。お前が選べ」
ワットはずっと遠くの景色を眺めていた。ひょっとしたら、何気なく言っただけなのかもしれない。それでも、それはシャルロットの心に強く突き刺さった。
「私…」
「お前は、どうしたいんだ?」
ワットがシャルロットに顔を向けた。シャルロットは手を強く握り締めた。
「私…私は…、お兄ちゃんに反対されるのは、やっぱり嫌…!どんな時でも…いつも一緒にいたんだもん。一緒にいて…、喧嘩ばっかりだけど…いつも私の事考えてくれてるのは…分かってるの…!」
――そうだ。なぜエリオットが反対しているのかも、本当は分かっている。自分を心配してくれているからこその事だ。
「私達、家族は二人だけだから…。でも私は…お兄ちゃんがいてくれればそれで良かったの。一度も気にした事がないって言ったら嘘だけど…大好きだもん…。だからお兄ちゃんに反対されたままじゃ行けない…。でも…私、行きたいの。みんなと一緒に。足手まといかも知れないけど…、ついていきたい…!」
兄の同意を得て、ついていきたい。それが、本当の気持ちだ。例えそれが無理だとしても――。
シャルロットの言葉に、ワットが小さく笑みを向けた。
「そのまま、兄貴に伝えてくるんだな」
そう、そうするしかない。今、自分がすべき事は――。
ワットに頷き、駆け出す瞬間に毛布を手渡した。
「ありがと!」
シャルロットはそのまま、階段を駆け下りて家に戻った。
勢い良く家のドアを開けると、驚いた事に、エリオットが台所に立っていた。
てっきり寝ていると思っていたので、出ばなをくじかれた。走った息で、玄関を上がる。どうやら、エリオットが湯気の立ったコップを二つ、テーブルの上に置いた。
「飲めよ。外で冷えたろ」
そう言って、自分もテーブルに着いた。どうやら、温かい飲み物を作ってくれていたらしい。意味も分からず、シャルロットはエリオットの前に座った。
「お兄…」
「どうしてそんなに行きたい?」
目を伏せ、エリオットが言った。わずかに、心臓が揺れる。
「最初から…お兄ちゃんの反対を押し切ってウィルバックまで行ったけど…」
手を握り締め、顔を上げた。
「この数日間…初めて見る世界ばっかりだった。私の世界が…変わったの。毎日宮殿で働いて…皆がいて…楽しいけど、…私はもっと違う世界を見てみたい。知らない場所で…知らない人達に会って…もっといろんな人に触れたいの」
「国外に出れば、楽しいことばかりじゃない。お前が想像もつかないような過酷な生活を強いられている土地だってある。治安だって悪い」
「絶対一人で行動しないわ!必ずワットとニース様と一緒にいるから…!!」
「ダークイン様は了承しているのか?一緒の男も…」
「皆はいいって…!二人ともすごくいい人よ!?ワットは…少し口が悪いけど…」
わずかにそれを思い出し、口元が笑む。
「パスだって…、一緒にいて時間がどんどん過ぎていくわ。それに私、皆のご飯も作れるし身の周りの世話だってできる。絶対役に立ってみせる…!私、いつも流されるばかりで…こんなに自分で何かしたいって思ったことないわ」
シャルロットの言葉に、エリオットは目を伏せ、コップに口をつけた。それを置き、わずかに口を開く。
「絶対に、一人で行動するなよ。…それが条件だ」
一瞬、反応が遅れた。しかし、すぐにその意味を理解すると、シャルロットは胸が躍った。
「お兄ちゃん!!」
「…ったく、負けたよ。…飲め、冷めちまうだろ」
エリオットが再びコップを持ったが、そんな事にも気がつかず、エリオットに飛びついた。
「おっと!危ね…!」
「ありがとう!大好き!!」
――結局、この言葉に負けてしまう。妹の背を叩き、エリオットは自分の甘さに息をついた。
翌朝一番に、シャルロットはディルートから出国の許可を貰い、前と同じくらい大きな荷を担いで家を出た。以前と同じ、出発の場所で、皆と待ち合わせている。エリオットとミーガンが、仕事の合間に見送りに来てくれている。馬はディルートから三頭貰えた。パスは一人では乗れないので、それで充分だ。
「危ないこと、しないでよ。スイードもよろしくって。あいつ今抜けらんなくてさ…」
正門前、よく晴れた朝だ。シャルロットが馬に荷をくくり付け終えると、ミーガンが不安げに言った。
「うん、分ってる」
目線の下がっているミーガンを軽く抱きしめると、にわかに不安が伝わった。この出発に賛成してくれたとしても、やはり心配もしてくれているのが分かる。
「大丈夫よ、ニース様が一緒なんだから」
――東一の剣の使い手。そう呼ばれるニースは、最高の用心棒と言っても過言ではない。その言葉に、ミーガンがわずかに笑みを見せた。
「しばらくお別れね」
ゆっくりと、頷く。次に会うのは何ヶ月先だろうか。
ワットは一人、馬に荷をつけ終えていた。離れた場所でシャルロット達の挨拶を待つワットに、エリオットが歩き寄った。
「結局、家はどうしたんだ?」
ワットにとって、声をかけられたのは意外だった。少なくとも、エリオットには好かれていない確信はある。また、その原因も。それが、エリオットの怪我の事を謝る機会を遅らせていたというのもあるが――。
「あー…、大家に追い出されました」
自然と、出た言葉は敬語だった。もっとも、エリオットは今年二十四。自分より一つ年上らしいので、それはいいのだが。
「戻ったら、家探しに困るんじゃないか?」
「その時はその時ですよ。それより―…」
謝るチャンス。エリオットはまだ腕を固定してはいるが、当初よりは、だいぶ回復したらしい。
「…謝らなくちゃならないことがあって…」
やはり、言いづらい。――あいつみたいに簡単に言えればどんなに楽か。視界の隅にいるシャルロットを見て、そう思った。首の後ろに手を当てて言葉を考えていると、エリオットが先に口を開いた。
「シャルロットも…」
「…え?」
「知っているのか?」
何を?ワットはまばたきをしてエリオットを見返した。エリオットは、遠くのシャルロットを眺めていた。
「お前の事を、よく話していた。昔からぼーっとしてる奴だけど、人を見る目だけはある」
何を言っているのか分からない。「はぁ」とだけ答え、早いところ続きを言ってしまいたかった。
「俺はお前と剣の勝負で負けたんだ。お前が謝ることじゃない」
一瞬、驚いて言葉に詰まった。シャルロットが話したのか?いや、彼女は自分で言えと言っていた――。
「…―それよりも。妹を守ってやってくれ」
エリオットの目に、ワットは頭の回転が追いつかなかったが、頷いた。
「…そのつもりです」
それは、妹を想う兄の目だ。自分は一緒に行けないけれど、その間も、誰かに守ってもらえるように――。その目が、ワットを頷かせた。
「…ところで、お前、独り身か?」
唐突の切り替わりに、「は?」とワットは間の抜けた声を出した。
「恋人は?」
「…いたらこんな所にいませんよ」
当然だろう。思わず苦笑が漏れた。
「分ってると思うが」
エリオットが、一歩ワットに近づいた。
「妹に手ぇ出したらぶっ殺すからな」
一変、態度の違うエリオットに、ワットは思わず目をそらした。
(――ありえねぇ)
年頃の娘といえど、ずっと一緒にいればそんな気も失せる。今となっては、エリオットが彼女を見る目と同じだろう。
「どうしたの?」
二人の間に、シャルロットが慌てて駆け寄ってきた。しかし、エリオットは「わかったな」とワットに念を押し、ニースの元へ行ってしまった。それを見送ると、改めてため息が漏れた。
「何話してたの?」
「…別に」
隣のシャルロットに、ワットはそれを話すのはやめておいた。面倒――というか、ばかばかしい。
「もう…二人で話してるからビックリした!あの事話してるのかと思って…」
「…え?」
シャルロットの言葉に、ワットは思わず顔を向けた。
「お前が兄貴に言ったんじゃ…」
「やだ、何言ってんの?自分で言うって言ったくせに」
代わりに、シャルロットが笑う。
「じゃあ誰が…」
「シャルロット、ワット!そろそろ行くぞ!」
言葉の途中で、遠くからニースの声がかかった。大きく、シャルロットが「はい」と返事をする。
「行こう、ワット!」
ワットの手を引き、シャルロットは馬に乗った。
「じゃあな。本当に気をつけろよ」
エリオットが、背後から手を振った。
「行ってくる!」
ニースが馬を進めると、シャルロットもそれに続いた。一番後ろで、エリオット達に大きく手を振り返す。その姿が見えなくなるまで、シャルロットは手を振った。