第1話『隣国からの使者』-3
日が沈み、夜空に美しい三日月が輝く頃、シャルロットは家の居間でだらりとくつろいでいた。先程から台所に立っているのはミーガンだ。その間、シャルロットに手伝うことが無いのはいつもの事で、漂う料理の香りに酔うだけ。シャルロットの言葉に、ミーガンが台所から思わず振り返った。
「えー!?じゃあエリオット、南の大陸まで行くのぉーっ!?」
「そ。あの剣士様…ダークイン様のお付きでね」
目を閉じながら、コップの水を口に含む。呆れたように、ミーガンが笑った。
「たーいへんそー。それにしても、あの人と話すんだったら私にも言ってくれれば良かったのに。私も話したかったなぁー。だって素敵だったじゃない!うちの兵士にはいないタイプ。なんか繊細な雰囲気で!シャルロットもそう思わない?」
「うーん」
言われると、そうかもしれない。だがそれよりも、シャルロットにはダークインの印象が見た目とかなり違うことの方が気になっていた。
「火の王国一の剣士様っていうくらいだからもっと恐い人かと思ったけど…。話してみて良かった。安心してお兄ちゃん行かせられる」
息をつくシャルロットに、ミーガンは再び笑った。
「エリオットのシスコンも相当なものだけど、結局シャルロットも相当ブラコンよね」
「違…っ!本当に心配なだけよ!」
からかわれていると分かっても、頬が染まる。テーブルから起き上がり、ミーガンを睨んだ。
「はいはい、判ってるわよ。2人だけの家族だもんね」
頬を膨らませた後、シャルロットはミーガンの隣に立ってその鍋を覗き込んだ。
「それにしても良い匂い。そろそろできそう?」
「まかせて、上出来よ」
こんな風に、ミーガンはしょっちゅうシャルロットの家に料理を作りに来てくれる。料理人見習いのミーガンは、新作の料理を試したくても、失敗したときの事を考えると、とても自宅では挑戦できないらしい。料理長でもある、父親のいる家では。もっとも、シャルロットとしてはおいしい料理が食べられる上に、夕飯の支度をしなくていいという利点付きなので大歓迎なのだが。
ミーガンの目に、隣の水がめが目に入った。
「…ねぇ、そろそろ水、切れるんじゃない?」
「え?あとどれくらい残ってる?」
その言葉に、ミーガンがもう一度水がめを覗き込む。
「今日はまだ大丈夫ね。朝までは足りるわよ、たぶん」
「私、汲みに行って来ようかな。お兄ちゃん朝まで帰って来ないし。帰ってすぐ行かせちゃかわいそうだしね」
「手伝う?」
「平気。戻ってくるまでに完成させといて」
「わかった」
シャルロットは気合を入れて水がめ抱えて外ヘ出た。しかし、予想以上に重い。
(…半分くらいしか汲んでこれないかな…)
出発と同時に弱気になる。昼間と違い、暗くて不気味な螺旋階段を下り、やっとのことで一度水がめを下ろすと、ふいに宮殿の方面が騒がしい事に気がついた。
いつもの静かな夜ではなく、衛兵達の大声で走り回る声が聞こえる。不思議に思いながらも、使用人棟と宮殿との間に差し掛かったところで、1人の兵士に会い、水がめごしに呼び止めた。
「何かあったんですか?」
呼び止められた兵士がぎょっとしたように足を止める。
「シャルロットちゃん?何してんだこんなとこで!エリオットが心配するぞ」
宮殿内とはいえ、日の落ちた時間に若い女がうろつくのは危ない。分かってはいるが、住み慣れた場所だとどうしても警戒心は薄れるものだ。それに彼は、エリオットと同じ隊の、シャルロットも知った顔の青年だ。
「何があったんですか?」
「賊が入ったんだ。2階の倉庫室からいくつか盗られたらしい。それで今、警備隊員総出で賊の捜索中。まだ見つかってないんだ。…ったく他国からの客も来てるってのに…。あ、シャルロットちゃんも危ないから早く棟に戻りな。じゃ、俺も捜索に行くから」
「気を付けて下さいね」
手を振りつつ、兵士は行ってしまった。
「盗賊かぁ…。恐いなぁ…」
水がめを抱きしめ、シャルロットは身震いした。
「早く汲んで帰ろう」
不安のまま水場に向かい、日中と違った静けさを保つ場所で1人水を汲み、それを抱える。予想以上に、大変な作業あった。半分以下しか水も入れていないというのに、持ち上げるだけで精一杯だ。
「お、おっ…もーい〜…!!」
(いつもお兄ちゃんに行ってもらってたからなー…)
これでは階段も登れないかもしれない。後悔の付きまとう中、やっとの思いで先程衛兵と別れた建物のかどまで戻ってきた。途端に、自分の目の前に何かが飛び出し、シャルロットは反射的に足を止めた。
「きゃあ!!」「うわっ!!」
しかし、遅かった。何が起こったかわからないまま、シャルロットは水がめを落とし、後ろにひっくり返っていた。
ガシャンッ!!
水がめがひっくり返った音が遠くに聞こえる。しかしそれよりも、弾き飛ばされて尻を打った時の痛みで声も出ない。クラクラする頭を抑えた。
「だ、大丈夫か嬢ちゃん!?」
男の声に、シャルロットは顔を上げた。差し出された手が、目の前にある。しかし、手を伸ばせる余裕も無く、シャルロットは打った尻を撫でた。
「だ…大丈夫…です」
言葉では相手に気を使ったが、同時に周囲がこぼれた水でいっぱいになっていることにも気が付いた。
「やっだ!水が…もー!汲みなおしだわ!!」
あんなに頑張って運んだのに!手で弾いた後に、やっと自分が人とぶつかって転倒したことを思い出した。
(やだ、私ったら!)
慌てて顔を上げ、差し出された手をとる。しかし、立ち上がると同時に水に足を取られ、もう一度後ろに転びそうになった。
しかし、声を立てるまでもなくシャルロットは男に支えられた。
「す、すみません!さっきから…。どうもありがとうございます」
失態を取り繕う余裕も無く、シャルロットは自分の足で立ち直しながら男から離れた。
「いや、走ってたのは俺の方だから。悪かったな。どこか打ってないか?」
シャルロットは支えられた恥ずかしさから首を横に振った。早いところ、この場を立ち去りたい。そう思った途端、シャルロットは不思議なことに気が付いた。自分より頭ひとつ分より背の高いその男は、黒い布を頭からかぶり、夜なのにサングラス。まるで暗闇と溶け込んでいるような――。ハッキリ言って、変な格好だ。
「悪かっ…」
「シャルロット?何しているんだそんなところで!」
男の言葉の途中で、別の声が割って入った。エリオットだ。宮殿からこちらに向かって走ってくる。
「あ、お兄ちゃん」
駆け寄ってきたかと思うと、エリオットは突然怒ったような顔でシャルロットの腕を掴み、自分の後ろに引き寄せた。
「わわっ。どうしたの?!」
転ばぬようにエリオットの腕を掴んだが、エリオットは男を見据え、シャルロットに目もくれてない。
「貴様、北の第2塔に進入したという賊だな。妹に何の用だ」
その言葉に、シャルロットは声も出なかった。
(盗賊!?この人が…!)
エリオットの問いに、男はただ、口元に少しだけ笑みを浮かべた。シャルロットはゾッとした。先程までと、男の空気は全然違う。言われてみれば、ぴったりの格好ではないか。
男の笑みに、エリオットは目を細めた。
「仕事だ。下がっていろ」
エリオットが、スラリと剣を抜いた。
「お兄ちゃん!?」
驚いてエリオットの腕を掴んだが、その腕に押し返され、手が離れた。
「ここで捕縛されるわけにはいかないんでね」
男は羽織った布を背に流した。その瞬間、腰さした短刀が見えた。男が、それに手をかける。
「や、やめて!」
刃物で切り合うなんて!しかし、シャルロットの言葉も届かず、叫んだと同時に2人が剣を交えた。
ギンッ!
エリオットの剣を、男は短刀で下に受け流した。下がった剣の上から、男がエリオットの体に向かって足を蹴り上げるも、エリオットはそれを後ろに下がって避ける。エリオットが剣をまっすぐに突くと、男は横向きになって避けた。その途端、シャルロットには男が優位に立ったように見えた。踏み込んだ男の足が、エリオットの体に――。
「お兄ちゃん!!」
シャルロットの悲鳴に反応するように、一瞬、男の動きが止まった。しかし、それはエリオットにとっての好機だった。手元をひねって剣先を男に向かって斬る。後ろに上体を引き、男はそれをすんででかわしたが、濡れた地面に足を滑らせてバランスを崩した。
「貰った!!」
男が倒れかけるのと同時に、エリオットは男の顔の横に剣を突き立てようと振りかぶった。しかし、男は倒れる瞬間に、突き立てた剣とは逆の方向に転がって飛び起きた。それは、エリオットにとって予想外の動きだった。
バキッ!!
嫌な音に、シャルロットは悲鳴も上がらなかった。男の蹴りが、エリオットの剣を持つ腕に入ったのだ。手から剣がこぼれ、エリオットは腕を押さえて膝をついた。男が、蹴りの勢いで逆立ちになったところに片手で体を支えて回転し、着地する。
「ッグ!!」
「お兄ちゃん!!」
シャルロットには兄しか目に入っていなかった。慌てて駆け寄り、エリオットを支えて一緒にしゃがみこむ。腕に触れようとすると、エリオットがそれを払った。
「離れていろ…っ!」
エリオットの目は、男から離れていなかった。しかし、そんな言葉はシャルロットには届かない。男が離れた場所から駆け寄ってきた。その手を差し、近寄ってくる。
「お、おい…」
差し伸べられた手を、シャルロットは弾いた。もう片方の手で、エリオットを守るように抱き、男を睨みつけた。本当なら、殴りつけてやるところだ。それでも、兄から手を離すことができなかった。
「おい!どうかしたのか!?」
とたんに、長いような沈黙が破られた。遠くからの、衛兵の声だ。男が声を振り返ったのが分かった。警戒を緩めずに男を睨んだが、男は頭のバンダナを外したかと思うと、同じ目線の高さになり、腕を掴まれた。
「や…っ」
抵抗するまもなく、シャルロットはエリオットを抱いた手を離された。しかし、離したシャルロットに興味を示さず、男はバンダナでエリオットの腕をグルグルと巻いて固定した。エリオットが、痛みで思わず声をもらす。シャルロットは男の行動に、目を白黒させるだけだった。巻き終えると同時に、男が立ち上がった。
「悪かった」
シャルロット達が見上げる中、男はそのまま走り去った。闇に紛れ、その姿はあっと言う間に見えなくなる――。
「う…っ」
エリオットのうめき声で、シャルロットは我に返った。
「お兄ちゃん!しっかりして!」
叫ぶと同時に、たくさんの足音と共に兵士達が姿を現した。
「エリオット!大丈夫か?」
先程、シャルロットと話した兵士だ。彼はすぐにエリオットの腕を触った。
「折れてるな…、誰か、手伝ってくれ。医療室へ連れいく」
あっという間に、他の兵士達がエリオットを宮殿内に運び込んだ。それに付き添い、シャルロットも宮殿内の医務室に付き添った。しかし、処置を始める前に、心配からあまりにエリオットにべったりだったシャルロットは入室を許可されなかった。厳しい医師のおじいさんに追い出され、それと同時に、ほどけたバンダナを何となく手渡される。処置室の前で、シャルロットはそれを持ったまま立ち尽くすしかなかった。
家に入るなり、既に騒ぎを聞いたミーガンに抱きしめられた。
「シャルロット!聞いたわよエリオットが…!」
そう言われても、今は何も答えられない。エリオットの友人の兵士に連れられ、シャルロットは無理やり家に戻されたのだ。沈黙の続く中、2時間もしないで、エリオットが家に戻ってきた。怪我を負った腕を、三角に固定して。
「お兄ちゃん!!」
シャルロットが飛びつくと、エリオットは慌ててそれを支えた。
「いてっ、触るな触るな」
固定していない腕で、シャルロットを押しのける。ミーガンも心配は隠せなかった。シャルロットはエリオットにしがみついて喋るどころではない。
「大丈夫なの?」
ミーガンの言葉に、エリオットはちいさく「ああ」と答えた。シャルロットを離し、自分の部屋に直行する。
「心配かけて悪かったよ。でももう遅いからとりあえずお前らも寝ろ」
「そんなことより怪我は…」
「いいから!早く寝ろよ」
言葉を遮り、エリオットは部屋の入り口のカーテンを閉めてしまった。シャルロットとミーガンは無言で顔を見合わせるしかなかった。