第36話・最終章『同じ天の下』-3
城内の長い廊下。永遠と続いていた赤い絨毯が途切れ、目の前が鉄格子の扉で遮られている。そこに立つと、門番の若い兵士が思い扉を開けてくれた。一輪の白い花を生けた花瓶を持って、アイリーンは一人でその扉をくぐった。何度来てもひっそりと冷たい、静かな所だ。石の壁に、耳鳴りを覚えるほどに。
「それを取り替えたら出てこいよ。わかったな」
「……ああ」
小さく返事をすると、思い扉はアイリーンを残して閉じられた。
ゆっくりと、絨毯のない廊下を歩き進む。一定の感覚ごとにある部屋の前には、一人ずつ兵士が立っていた。その一番おくの突き当たり、その部屋の前で、アイリーンは足を止めた。
「……また来たのか」
門番の兵士の呟きをよそに、アイリーンは開かれた扉の中を覗きこんだ。殺風景で、唯一の窓にも鉄格子のはめられた小さな部屋。唯一の家具である窓のそばのベッドに、一人の少女が外を眺めて座っていた。肩まで下ろした明るめの茶色い髪に、この国の着物。手元には、ふわふわしたぬいぐるみが転がっている。アイリーンの足音に、少女が振り返った。
「また来てくれたの?」
シンナは、無邪気な笑顔でアイリーンに身を乗り出した。それに答えたアイリーンの笑顔には、わずかに影が降りた。
「記憶喪失?」
「ああ……。あいつはもう、何も覚えてない」
バルコニーで、ワットが空を仰いで言った。既に知っていたのか、パスは驚く様子も見せない。
「目を覚ました時、あいつはあいつじゃなくなってた。ルジューエル達の事、自分のしてきた事、自分の名前さえワからなくなってたんだ」
「そんな事って……」
「エディが言うには、怪我より、精神的なもんだろうってよ。自分のやってきた事を思い出したくなくて、封印しちまったんじゃないかって。あいつが今までしてきたことを忘れるためには……あいつらと一緒にいた時間、今までの全てを……無くすしかなかったんだな」
「そんな……」
シャルロットは言葉が出てこなかった。「アイリーンが、ずっと見舞いに行ってる」パスが顔を上げた。
「オレも一回近くで見たけど、別人みたいだった。ただ笑って……オレ達の事も……何もわかんねえみたいだった」
「記憶を失くしても、あいつが第一級の指名手配犯だったことには変わりはねぇ。あいつに恨みを持ってる人間の気持ちが消えるわけじゃねぇんだ。極刑は免れても、一生、この城から出ることはねぇだろうな」
ワットはそのまま目を閉じた。
――この国を脅かした彼らはもういない。胸の中に広がるこの気持ちは、安堵なのだろうか。ただ、この静かに流れる時間の中で、愛する人がすぐそばにいてくれることがシャルロットの心を落ち着かせた。シャルロットは、ゆっくりと空を仰いだ。
『その後、ニース様はインショウ様に替わり王位についたヨウショウ様の補佐役を火の王国の長老達から任命され、王宮騎士団の隊長の任を解かれた。ヨウショウ様はまだ九歳という事もあり、ニース様はほとんどの相談を引き受ける事になり、とても忙しそうだ。それでも、合間を縫っては私達やメレイの見舞いに来てくれている。
「剣で体を動かすことがほとんどなくなってしまったな」
ニース様はいつもどおりの優しい顔で、笑ってくれた』
『メレイはしばらくベッドから動けなかったけど、私達が部屋に行くと優しく笑ってくれる。エディが言うには、メレイは体力が回復すれば、今までどおりに動けるらしい。……左腕は失ってしまったけれど、メレイにはきっともう、闘うことは必要ないから……。
「しばらく火の城に世話になることにしたわ。ニースが、元気になったら仕事をくれるって言うし……。甘えようと思う」
メレイは長かった赤毛の髪を耳元で短く切った。そのせいかもしれないけど、笑顔がとてもすっきりして見える。何より、メレイが笑ってくれていれば、私も嬉しい!』
『パスは一番元気。城の子供達と遊びながら、自分の武勇伝を語ってる。通りすがりに聞こえちゃったけど、ちょっと大げさに言いすぎてない? でも、城の兵士さん達にまで、パスの話は大好評だ』
『エディは相変わらず城のお医者様達と、今回の争いで傷を負った人たちの手当てに大忙しだ。もしかしたら、ニース様と同じくらい忙しいかも。アイリーンもエディを手伝って、一緒に忙しそうに走り回ってる。時々、シンナの見舞いにも行っているようだ。
「家に帰るのは、こっちが落ち着いてからだね。シャルロットは?」
私? 私は……』
「ワット、起きてる?」
「……ああ」
軽いノックと同時に部屋を開けると、ワットはベッドに腰掛けて、短刀を磨いていた。着物姿も、だいぶさまになってきた。だが、そこから覗く包帯の量には一向に変化がない。ドアを閉め、シャルロットは息をついた。
「エディから、寝てるように言われてるでしょ?」
「こんな傷どうってことねぇのにな。それよりお前は?」
ワットに見上げられると、シャルロットは着物姿の自分の体を見下ろした。ワットと引き換え、包帯はほとんど取れた。
「もう痛くないわ」
「そうか。あっちの方はどうだ?」
聞き返さなくても、それが何を示しているかはわかる。そう、この体に流れる血の事だ。
不思議と、あの血を強く感じる事が最近はすっかりなくなってしまった。安心に包まれたこの生活の中では、あの感覚とはまさに無縁だった。思えば、一大事の時にしかあの力は出てこなかった。それはきっと、これからもきっと――。
「全然平気」
シャルロットは笑みがこぼれた。何も見ることのない生活。それは、シャルロットが一番望んでいた事だ。
「最近は、ほとんど見えないの」
「そりゃ何よりだ」
ワットが笑って立ち上がった。「だめよ」シャルロットは慌ててそれをベッドに押し戻した。
「まだ触ると痛むくせに」
その言葉に、ワットがシャルロットの腕を掴み、引き寄せる。勢いで、シャルロットはワットに抱きとめられた。
「試してみる?」
「また、冗談……」
一瞬顔を合わせて笑うも、言葉が消えていく。ワットの口が、シャルロットの唇に触れた。
「冗談じゃ、ないけど?」
見つめあい、もう一度キスをした。――その時。
部屋のドアが、音を立てて開き、アイリーンが飛び込んできた。
「聞いてくれよ! この野郎ちっとも手伝わねぇで遊んでばっかりなんだぜ!」
「うっせーな! てめーこそどうせエディの邪魔しかしてねーんだろ!? てめーみてーな奴が医者になりてえなんて聞いて呆れる……って、何してんだ?」
ひとしきり叫んだ後、アイリーンとパスはぽかんとシャルロットとワットを見つめた。ワットは片手で顔を抑えてベッドの上に座ったまま、シャルロットはその脇にしゃがみこんだものの、赤い顔は隠しきれていない。ワットと目が合うと、シャルロットは吹き出して笑った。
『私はワットの傷が癒えたら……。砂の王国に帰って、ワットと結婚します』
―― 一ヵ月後。
「じゃあ、ここで。ニース様、……メレイも」
馬上で、ワットの後ろに乗ったシャルロットは振り返った。――火の城の正門出口。シャルロットとワット、パス、アイリーンとエディは旅支度を済ませ、それぞれ馬に乗った。ここ一ヶ月で、パスは一人で馬に乗れるようになったらしい。ニースは火の王国の制服をきちんと着て、着物姿のメレイはその隣で片腕を腰に当てていた。
「気をつけて行くんだぞ。港まで降りて渡した通交証を見せれば、どの船にも乗せてもらえる」
「はい」
シャルロットは頷いた。
「結婚式には招待しなさいよ」
「わかってるって」
メレイが笑ってワットの腕を叩くと、ワットは照れたようにメレイを見下ろした。馬から飛び降り、アイリーンがニースとメレイにそれぞれ抱きついた。
「また遊びにくるからな。な、エディ」
ニースに抱きついたまま、エディを振り返る。「そうだね」エディが笑顔を返した。
「うちで養子縁組の手続きが終わったらね。いつでも来れる」
ニースに手伝ってもらい、アイリーンが再びエディの前に乗せてもらった。
「エディの家で、しっかり勉強するんだぞ」
「ああ、あたしも、エディ達に負けないくらいの医者になる」
身を乗り出す勢いで、アイリーンが答えた。いつも一緒にいたエディに影響を受け、アイリーンはいつの間にか医学を学びたいと思うようになっていたらしい。最近になって始めて知った事だが、以前からエディには相談していたらしい。結果、アイリーンは砂の国ではなく、エディと一緒に水の王国へ行く事にしたのだ。
「シャルロット」
ニースから差し伸べられた手に、シャルロットは馬から降り、その手をとった。
「今までありがとう」
「……私こそ。私、ニース様の付き人になれて良かったです」
ゆっくりと、惜しむようにその手を離す。
「……お元気で!」
ワットの前に座って馬を歩かせると、ニースはいつもの優しい笑顔で手を振っていた。メレイも、自分達が見えなくなるまで手を振っていた。二人の姿が、しだいに丘の向こうに見えなくなる。シャルロットはワットの腕の中で、よく晴れた空を仰いだ。
『この世界には、私の知らない世界が満ち溢れている。
私は昔、そんな世界を知りたいと心から強く願っていた。でも――』
「どうした?」
ワットの声に、シャルロットは振り返った
『――私もその世界の一部だったんだ。少しも変わらない、この天の下――。そして私の世界は……』
「ううん、なんでもない」
目を閉じ、シャルロットは腕の温もりを感じて微笑んだ。
『私の世界はここ。愛する人の、腕の中――』
――終わり――
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
長かった連載も、これで最後になります。
ご意見ご感想もございましたら宜しくお願いします。
今後は、今、連載中の現代でのシリアスもの『あの雲の向こうに』の一本に絞っていこうと思いますので興味のある方はそちらの方もどうぞ!!<(_ _)>