第36話・最終章『同じ天の下』-1
洞窟を抜けると同時に、ニースとメレイは生暖かい風をあびた。
目の前に広がるのは、巨大な赤茶色の岩山とその上から立ち上る煙。
岩山にはそれぞれをつなぐように、木造りの階段やつり橋があちらこちらにかけられている。その裏側には何も見えないところを見ると、地形的には海だろう。たった今抜け出た洞窟を振り返れば、赤茶色の岩肌が空高くそびえ立ち、灰色の城はそのかけらさえ見えない。周囲を縁取る岩山に切り取られたように存在する青空には、そこから上る煙が立ち込めていた。
時折、岩山の上から煙と共に火が吹いている。大きな鉄釜の中には、おそらく鉄が溶かされているのだろう。
正面の岩山を登る階段の一番上に、ニースとメレイは目を留めた。ルジューエルとエフィウレが、そこに立っていた。
「……ルジューエル」
唇を噛み、ニースはルジューエルを睨み上げた。それと相反するように、ルジューエルの顔に冷たい笑みが浮かぶ。
「よくここまでたどり着けたものだ。あの小娘の力だな」
「よくもインショウ様を……!」
わずかな金属の擦れる音と共に、ニースが腰の剣を抜いた。しかしそれを気にする事もなく、ルジューエルの目がメレイにうつった。
「イガをとったのは……どっちだ?」
その声が、わずかに低まった。しかし、それに臆することなくメレイが剣を抜く。
「腕ずくで聞いてみな」
エフィウレが、髪飾りの三本あるかんざしを抜き、それを指の間に持った。
「……ユチアは道をあけたのね」
「あんなガキに道を任すからよ」
挑発するように、メレイが鼻で笑ったが、エフィウレは眉一つ動かさなかった。代わりに、ルジューエルが口を開いた。
「懲りない女だ。……ギャレッドの娘」
「その名を口にするな!」
ルジューエルの言葉が終わると同時に、メレイが階段を駆け上ってルジューエルに斬りかかった。
「メレイ!」
とっさに、ニースがその後を追う。――が。
かすかな風切り音が耳をつき、メレイは反射的に足を止め、目の前を横切ったそれを避けた。銀色の細い針――エフィウレのかんざしが、目の前を切ったのだ。
「チ!」
間に立たれようが、関係無い。メレイはその勢いのままエフィウレに切りかかったが、エフィウレはその長身にも関わらず、体を反って剣を交わした。体を倒して両手を付き、その足が高く蹴り上がるとメレイは身を引いた。そのまま回転するように、エフィウレが階段を飛び降りて片膝をつき、メレイを見上げた。
「……血気盛んなところはゴーグス譲りね。来なさい、父親の元へ送ってあげるわ」
「なめるなよ」
背後になったルジューエルはひとまずおいておき、メレイはエフィウレに狙いを絞った。その間にニースがいれば、こちらに手を出してくる事はないからだ。「その前にお前を殺す」剣を突き出したメレイの目には、復讐に燃える色以外、何も写っていなかった。エフィウレとの戦いが始まると、ニースは動けなかった。メレイはいつもの冷静さを欠いている。放っておくわけにはいかない。しかし、目の前のルジューエルから目を離すわけにもいかない。
「貴様らの目的は何だ」
ルジューエルに向き直り、ニースが言った。「この国を……インショウ様を手にかけて……!」その剣先を向けられても、ルジューエルの笑みは崩れなかった。
「こんな容易く崩れる国に、未練などあったのか?」
「……貴様!」
一瞬で、ニースの体を怒りが支配した。――インショウをその手にかけておきながら。あんなにも若く純粋な青年を騙し、その命を奪っておきながら――。
足を踏み込んだ途端、まっすぐルジューエルに剣先を突きつけられた。反射的に、ニースは足が止まった。踏み出そうにも――踏み出せない。
「腐った王家に統括された国など消えればいい。見ろ、この国を。血のつながりだけで決めた跡取りが、どういう道を選んだか。何にも縛られぬ王家の存在しない国……。それこそが、真の自由と言うものではないか?」
――何を言っている。ニースは唇を噛んだ。それでも、突きつけられた剣先は確実に自分のそれよりこの身に近い。迂闊に動けば、勝敗は見えている。城内警備隊長の前任、エルベを討ち取った男――。
「そんな事の為にこの国を……インショウ様を手にかけたのか!?」
「別にこの国を狙ったわけじゃない。だが俺達にとって、お前の出国があるこの国が、格好の獲物となったのは事実だな。王家の兄弟に一の信頼を置かれたかの有名な騎士団隊長殿がいなくなる――。その好機を、逃す筈はあるまい」
「何だと……!」
ニースは唇を噛んだ。――最初から、全て仕組まれていたというのか。自分が、インショウから世界視察を任命された、国を離れた瞬間から。事はルジューエル達の思惑通りに進んでいた。
自分が国を離れた間に城に入り込み、インショウの信頼を得て、自分が持ってきた地図で他国を侵略する計画を立てる――。その頃になれば、自分はていのいい理由をつけられて処分されるというわけだ。あわよくば、道中手下に襲わせて殺せばいいと。
「……無様なものだ。貴様が国を出てほんの数ヶ月に足らぬ時間で国が落ちるのだからな」
剣を持つ手が怒りで震えるのを、ニースは何とかこらえた。
目を細め、ルジューエルから目を離さなかった。――言葉が出ない。これほど、自分の行為の浅はかさを呪った事は無い。
もし自分がこの地位にいなければ。任命を受けていなければ。国を出なければ――!
「若い王家は狙いやすい。水――アグダスの娘は厄介だったが、この国は容易だった。それも五大国一の軍事国家……。その気になれば、水など目では無い。他国を制圧する事すら容易いだろう?」
「この国を利用する気か!」
「言ったはずだ。戦など目的ではない」
一歩、ルジューエルが階段を降りた。剣先が体につかぬよう、ニースが一歩身を引く。その間も、ニースの視界の隅でメレイがエフィウレと戦っているのが見える。メレイの実力は知っているが、エフィウレもまったく引けをとっていない。
「この国が傾けばどうなるか……それが見ものだ。今は友好的に手を差し伸べている国々も、心根ではこの軍事国家をどれほど恐れているか――。強者が弱みを見せれば、それに支配されていた弱者は結束してそれを潰しにかかる。……面白くなるとは思わないか?」
「一体何の恨みがあって……」
「恨み?」
ニースの言葉を、ルジューエルが嘲るように遮った。
「お前のような人間には、一生知る事は無いだろう。俺達の道が――……」
言葉と共に、その目が鋭い刃物に変化していく。しかし、ルジューエルの言葉は途中で途切れた。その鋭い目が、再び背筋を凍らせるような笑みに変わる。
「それを見たくないというならば、今すぐその目、潰してやろう」
ルジューエルが口の端を上げると、ニースは足を引いた。――来る!
ギンッ! 刹那の間に、ルジューエルがニースの間合いに入り込み、剣が重なった。
「王家など全て滅べばいい。俺達はほんの少し歯車を組み変えるだけだ」
「黙ってさせると思うか……!」
激しく剣を合わせると同時に、周囲に刃の軋む音が響く。――強い。
しかし、引く気など毛頭ない。
「実際、ゴーグスには感謝しているのよ」
エフィウレのかんざしが、メレイの前髪をかすめた。
「あの一件で、私達の名が上がった。ルーイとイガと三人の足掛けになった」
聞く耳など持たない勢いでメレイは剣を振ったが、エフィウレは思ったよりずっと素早かった。いつだったか耳にしたように、シンナを鍛え上げたというのも嘘ではなさそうだ。エフィウレがその身を翻すと、再び銀の筋が胸の前を鋭く横切った。
「もっとも、今じゃゴーグスの懸賞金なんて私どころかシンナの足元にも及ばないでしょうけどね!」
「黙ってろ!」
メレイが剣を振った瞬間、エフィウレが上の岩山に飛び上がってそれを避けた。見上げるメレイとは対照的に、エフィウレはそのずっと先を見据え、口元に笑みを浮かべた。
「ごらんなさい」
余裕がたっぷり含まれた、ゆったりした言葉。
「あんたの大事な小娘達が来た」
「ニース様! メレイ!」
その声が響き渡った瞬間、ニースとメレイは反射的に振り返っていた。
シャルロットはその場で足を止めた。一瞬で、状況はわかる。パスを背負ったワットが、即座にパスをシャルロットに押し付けた。
「持ってろ!」
「うわ!」
サーベル片手にワットが岩山を駆け上がる。
「ワット!」
メレイの声が耳に入るのと同時に、ワットはエフィウレが何か小さいものをこちらに向かって投げたのが見えた。小さな丸い玉。あれは――。
「シャルロット!」
ワットが声を上げたが遅かった。それはワットを通り越し、階段を転がってシャルロットの目の前に跳ね落ちた。
思わず、シャルロットは目を閉じた。――爆発する!
しかし、パスを抱きしめ座り込んだものの、次の瞬間に来たのは爆発――ではなかった。周囲が、一瞬にして光に包まれたのだ。
強すぎる光に、思わずニースも腕で目を覆った。
「シャルロット……、ワッ……」
不快な音に、ニースの言葉は途切れた。それと同時に、背中に生暖かい何かが当たった。その勢いで、それが人間だとわかる。閃光に眩んだ目で振り返ると、見慣れた鮮やかな赤毛が目に入った。メレイが、自分の背に寄りかかるようにして立っている。その後ろには腕を伸ばし、意表を疲れたような顔のエフィウレの姿――。
次の瞬間、――ビシャ。音を立てて、ニースの頬に鮮血が飛んだ。しかし、体のどこにも痛みは無い。あるのは、メレイの体温だけだ。
「メ……」
口を開いた途端、メレイの体が一瞬傾いた。しかし、ニースが反射的に出した腕に触れる前に、メレイは自分の足で踏みとどまった。ニースを押しのけ、その燃えるような目でエフィウレを振り返る。三本、エフィウレの手に握られたかんざしが、メレイの二の腕を貫いていた。
「……っのくそアマ……!」
メレイが、その剣を持った反対の腕を振り上げる。しかし、メレイにかんざしが刺さったままのエフィウレは、瞬時に動く事はできなかった。
――ド! 柔らかいそれを、メレイの剣先はいとも簡単に貫いた。
「あ……ぐ……」
エフィウレの手先から力が抜け、かんざしがその指から離れる。それは、メレイの腕に突き刺さったままになった。メレイの腕から、そして、エフィウレの剣の突き刺さった胸元から血が滴り落ちた。わずかに噴出した返り血が、ニース、メレイ、エフィウレに降りかかる。
エフィウレの口から血がこぼれた。貫かれたまま自由のない体で、その両手が自分を貫く剣をつかむ。見開いたその目は、何かを探していた。
「……ルー……イ……」
ものすごい勢いで、その地面には血だまりでき始めている。
気力を振り絞り、メレイがエフィウレから剣を抜いた。その勢いで、エフィウレはそのまま血の海に倒れ、指一つ動さなくなった。その瞳からは既に光が消えている。
気力を振り絞り、メレイがエフィウレから剣を抜いた。その勢いで、エフィウレはそのまま血の海に倒れ、指一つ動さなくなった。その瞳からは既に光が消えている。
「……ウ! ……アア!」
一歩、よろけたメレイがその腕に突き刺さったままのかんざしを、三本一気にに引き抜いた。
「メレイ!」
うめき声をもらし、メレイが体勢を崩すのと同時に、ニースが駆け寄り、それを受け止めた。メレイの剣が手から離れ、音を立てて地面に落ちた。
シャルロットは口を開けても悲鳴が出てこなかった。――なんて事を。
押さえるものを失った腕からは、溢れんばかりに血が流れ出した。とっさに、ニースが自分の服の袖を裂いて、止血を試みる。しかし、そんなことはまるで関係無いかのように、布は真っ赤に染まり、赤い滴が腕を伝った。
呆然とするシャルロットとパスをよそに、ワットがその場に駆けつける。視界の隅では、ルジューエルが岩の上からそれをただ見下ろしているのが見えた。
「しっかりしろ!」
ニースの言葉にも、その腕に身を任せたままのメレイはあごを上げたままぐったりと倒れ、息も浅い。ニースの後ろからその姿を目にしたワットは、その出血量に戦慄した。これは――。
「メレイ……」
シャルロットはそこに駆けつけたかったが、足が動かなかった。遠目に、ワットが一緒にかがみこんでいるのが見える。
「おい……!」
パスの手に、シャルロットはようやく体に感触が戻った。パスの顔も、蒼白だった。
「バカな……なんで俺をかばったりしたんだ……!」
怒りを込めた声に、メレイが小さく反応した。かすかに目を開け、それがゆっくりとニースをとらえる。ふっと、メレイが笑いを漏らした。
「……こ……の状況で……考えて……行動してると思う……?」
ニースは言葉を詰まらせた。パスと一緒に、シャルロットはようやくそこにたどり着いた。――なんて事だ。
言い知れぬ恐怖が体中をめぐった。気が付けば、足元までに伸びた血の池。心臓が破裂しそうなほどに音を立てた。
「メレイ……!」
思わず、口を覆う。メレイの目は、ニースに定まったままだった。
「……体が勝手に動いたのよ……。そんな顔して……。この私が助けたのに、死んだりしたら……許さないわよ」
ズシャ! 途端の、背後の物音にシャルロットとパスは振り返った。上から飛び降りてきたルジューエルが、倒れたエフィウレの傍にかがみ、その瞳を閉じさせていた。ワットがシャルロットとパスの腕を引き、後ろに下がらせた。
「油断したな……エフィ」
立ち上がると、ルジューエルは同じく血だらけで倒れているメレイに目を留めた。
「……今度こそ父の元に堕ちるがいい」
「貴様!」
一瞬で、ニースの体を怒りが支配したのが、シャルロットから見ても分かった。既に意識を失っているメレイを、預かると、ニースが剣を持って立ち上がった。
ギン! 強い力の交わる音が、周囲に響く。しかし、腕の中のメレイを見ると、シャルロットはそれしか見えなくなった。
「メレイ……メレイ……!」
抱きしめても、その体に力はない。
「ニース!」
ワットが横から、サーベルでルジューエルに斬りかかった。ルジューエルがニースの斬撃を交わし、ワットのサーベルを受け止める。
「ク……!」
ワットは力を込めたつもりだった。しかし、思ったように体が動かない。――あいつとやりあった怪我が痛む。
二、三度剣を交えただけで、ワットはニースとの攻防を続けるルジューエルに弾き飛ばされた。
「ワット!」
「……ってぇ」
後手をつき、ワットは尻餅をついたまま体を起こせなかった。体から流れる血がまだ止まっていない。メレイを抱きしめたまま、それを手放す事もできない。見かねたパスが、ワットの場所まで這っていった。
激しい剣の競り合う音が響き渡る。ニースとルジューエルの達の争う場所は、煙が立ち昇る岩山の淵だ。少しでも気を抜けば、下は鉄を溶かす大釜になっている。
「守る価値などあるのか!? この国に!」
「貴様に無くても俺はある! 死んでいった者達……インショウ様に誓ったからな!」
一瞬、ルジューエルの表情が止まった気がした。
「俺には、この剣で守らなければならないものがあるんだ!」
ザン! ――刹那、時が止まったようにも見えた。
ニースが振った一閃はルジューエルの胸を斬り、その勢いでルジューエルの足が浮いた。ニースは目を開いた。先ほどまでの剣戟の最中、相手がその一閃は避けきれないとは思えなかった。ルジューエルの手から力が抜け、剣が離れる――。
シャルロットは口を押さえた。その背後は――。
ドォン! ニースが手を伸ばしたが、遅かった。ルジューエルはその背後、灼熱の炎の煙を上げるどす黒い大釜の中に背中から落ちていった。
ニースの足元に、ルジューエルの剣だけが音を立てて落ちた。傷を抑え、ニースがそこを覗き込んでも、そこからは熱い炎が立ち上ってくるだけだ。――死体も見えない。
肩でする息が、妙に自分の頭に響いた。敵は――もうどこにもいないのだ。
「ニース様!」
頭のもやを晴らすような声に、ニースが振り返った。メレイを抱えたままのシャルロットは、叫ぶ事しかできない。
ワットが、なんとか自力で起き上がろうとするも、手を付かなければ前へ進めない。
自分の剣を地面に落とし、ニースがその場に座り込んだ。
「ニース様!」
駆けつけたくても、腕の中のメレイを放ってはおけない。
「やりやがった……あいつ……」
安堵からか、ワットがその場に座り込んだ。――そうだ。ここには、もう自分達しかいないのだ。倒した。彼らに勝ったのだ。
そう思った途端、シャルロットの体を痛みが襲った。吐き気がするほどのそれに、思わず頭を押さえる。しかし、今は誰も自力で動ける状態ではなかった。
「ワット……ニース様……メレイ……」
――どうすればいい。どうすれば――。
「シャルロット!」
突然割って入った声が、シャルロットの希望を救い上げた。この声は――。
「エディ……!」
岩山から下を覗くと、洞窟からエディ、アイリーン、そしてカルディ達火の王国の兵士達が飛び出してくるところだった。――助かった。助かった――。
「エディ! ワット達が……メレイが……!」
「急げ! 全員を城の中に!」
力強く叫ぶカルディの声が耳に入った。――良かった、皆助かるんだ――。
(誰か……誰か早くメレイを助けて――……)
駆け込んできた兵士達が、パスとワットを支えている。「大丈夫ですか」力強い兵士の手が肩を取った。――そんなことはどうでもいいの。
(メレイを……ニース様を……ワットを――……)
体が浮いたような感覚に襲われ、シャルロットは何もわからなくなった。