第35話『最後の戦い』-2
その小さな金属音に、インショウが目を開く。その顔からは、先程までの怒りは消え、わずかに口を開いた、衝撃を隠せない顔つきだった。しかし後ろでルジューエルが剣を抜くと、インショウは始めて気がついた。ニースの目が、自分の後ろのルジューエルに定まっていることに。
――カタン。小さな物音と共に、シャルロット達とは反対の入り口から、小さな人影が動いた。しかし緊張の中、誰もそんなことには気がつかない。
「……何を言っている」
ルジューエルとニースを交互に見定め、インショウが呟いた。二人が戦う意思を持っていることは明らかだ。
「ジクセルを倒したところでお前に逃げ場はない。この城には兵が五万といる。いくらお前でも……」
「俺達の目的はお前じゃねぇ。後ろの二人だ」
インショウの言葉の途中で、ワットが言った。その手がゆっくりと腰にくくったサーベルを抜く。「……何?」インショウは眉をひそめた。
「……ルジューエル賊団の頭とその右腕」
一瞬、インショウはワットの言葉が理解できなかったようだ。ワットがサーベルを構えると、メレイも背の剣に手をかけた。
「お前の後ろにいる二人、討ち取らせてもらう」
メレイの言葉に、ルジューエル達は顔色ひとつ変えなかった。しかし――。
「な、何を言って……」
インショウが、やっと絞り出したような声を漏らした。
「ジクセルは偽名です。本当の名はルジューエル……。第一級の指名手配犯。女も、同じ賊団の者です」
「……う……、嘘だ……!」
インショウの顔が、みるみる歪んだ。
「嘘だろジクセル! お前が……! だって……刺客からも守ってくれて……!」
その両手でルジューエルの胸を掴んだが、ルジューエルの視線はニース達に向いたまま、インショウに降りもしなかった。「イハニー」助けを求めるように、インショウの目がエフィウレに移った。
「お前も嘘だと言え……! イハニー!」
しかし、エフィウレもまた、インショウの問いに答える様子は無い。腕を組んだまま、視線すら動いていない。
「あんた達を信用させる為よ。どうせ自分の前任とやらも、自分で殺したんでしょ」
メレイが当然のごとく言い捨てる。「そ、そんな……!」ルジューエルを掴んだ手を離し、インショウがわずかによろめいた。その様子に、ニースが顔を歪めた。見ていて、辛くないはずがない。ニースの剣の切っ先が、ルジューエルに向いた。
「なぜこの国を狙った。お前達は何をしようとしている」
鋭い眼光を込めた目にも、ルジューエルは口元にわずかに笑みを浮かべただけだ。ニースが目を細めた。
「インショウ様に戦を起こさせるのが目的か? そんな事をして、お前に何の利益がある」
「……戦など」
ルジューエルが、鼻で笑った。「欲にまみれた人間だけが起こすものだ。そんなものに興味は無い」淡々とした声で、語るその目から、シャルロットは目を離せなかった。いつの間にか、体がこわばっていた。なぜだかわからないが、あの男から目を離してはいけない気がした。
「では何故だ」
ニースが続けた。「アグダス家にも近づいていたな。王家を狙って、何を企んでいる」
ルジューエルの隣に立つエフィウレが、口の端を上げた。それでいて、目はまったく笑っていない。ルジューエルが言った。
「……あの国の女王。まだ年端もいかぬというのに、あれはなかなかキレる女だ。それに比べて、この国はたやすかったな」
――冷淡に発せられた言葉。その言葉に、インショウは目を見開いた。一瞬にして、我を忘れるほどに。
「貴様!」
侮辱として受け取った言葉に、ルジューエルの襟元を両手で掴みかかる。しかし――。
鈍い音がシャルロットの耳まで届いた。同時に、その光景に悲鳴がこぼれた。両手が勝手に口を覆う。ルジューエルに掴みかかったインショウの手が、ゆっくりと離れ落ちた。その背から、赤黒く染まった剣の切っ先が突き出している。シャルロット達が次の言葉を発する前に、インショウの紫色の着物があっという間にそこから広がる赤黒い鮮血に染められていく。
「……が……」
さらに、口から血がこぼれ落ちる。力の入っていない体が、ルジューエルの手から繋がる体を貫かれた剣だけで支えられた。
「インショウさ……貴様!」
体の芯に電流が走ったように。ニースが足を踏み出した瞬間、その視界に、この場にいるはずのない人影が入った。頭まで一気に上った血が、吸い取られるように急速に冷やされ、地に落ちる。
「……ヨウショウ様……!」
自分達とは反対の方向から入ってきたのか、間にルジューエル達を挟んだ向こう側、そこに、幼い少年の姿があった。薄い緑の着物に、インショウと同じ黒い髪に黒い瞳の色の白い少年――。ヨウショウは、剣で貫かれた兄、インショウの姿しかみえていないようだった。
ヨウショウを振り返ると、ルジューエルは剣を引き、インショウの体から抜いた。支えを失い、もはや意識ももうろうとしているインショウが仰向けに転がる。
「そいつは用済みだ」
ルジューエルの言葉に、倒れたインショウの指先がかすかに動いた。――生きている。しかし、インショウを中心とするように、その床には鮮血が円状に広まっていく。「インショウ様!」ニースが駆け寄った瞬間、ルジューエルが目を細める。
その異変に、ワットは考える前に叫んでいた。
「よけろニース!」
ヒュガ! ワットの声に、ニースは足を止めた。それと同時に、空気を切断する音が耳を突き、進む筈だったその場所に、吹き矢らしき針が数本突き刺さった。
「な……!」
とっさに、その方向を振り返る。すると、ホールの壁、その頭上である何メートルも上の位置のくぼみに、女性がしゃがんでいるのが見えた。服装は、使用人の女生と変わらない。黒髪で色白、おそらく小柄。しかし、その目には隠しきれない敵意が込められていた。
「仲間……!」
ヒュガ! もう一度、女性が手に持った細長い筒を吹いた。それと同時に、足元の絨毯に数本の矢が突き刺さる。
「く……!」
否応無く、矢を避けながら後ろに飛びのく。しかし、下がった瞬間――。
「な……!」
口をあける前に、ニースの真横をメレイが横切った。一瞬ですり抜けた速さに、ニースが横に顔を向けた時には、メレイのポニーテールの赤毛がすり抜けていくところだった。
「メレイ! 待て!」
その背に向かって叫ぶも、止まる筈もない。メレイがルジューエルに向かって剣を振り上げた瞬間、隣のエフィウレが鋭く腕を払った。その大振りが、勝手にメレイの視界に飛び込む。しかし、狙いは一つだ。メレイの足元と、エフィウレの手元から投げられた小さな飴玉のようなものが、カチンと音を立ててすれ違う。ワットの目には、それが火花を放ったように見えた。ワンバウンドに、それが大きく跳ね上がる。その瞬間、エフィウレとルジューエルが足を引くのを、ワットは見逃さなかった。
「伏せろ!」
「え!?」
シャルロットは、自分でも気がつかぬ間にワットに頭を抱えられて地面に伏していた。――その瞬間。
パァン! 高い破裂音と同時に、そこから一瞬にして煙が噴出した。
「……う……!」
目眩がするほどの衝撃に、メレイは目元に手を置いた。何が起こったのか、わからなかった。ただ、踏み込みすぎた自分が爆発に対処できなかった事だけはわかる。しかし、体のどこにもひどい痛みはない。打った衝撃か、背中が痛い。――何で背中?
その途端、メレイは我に返った。視界が悪いのは、煙のせいじゃない。自分の上に、影があるからだ。覆いかぶさるように自分の上に乗った、ニースがいたからだ。爆発の瞬間、ニースがメレイに覆いかぶさって、床に倒した。それがわかった瞬間、メレイは唇を噛んだ。
「……ニース!」
煙で顔が見えないニースを無理やり押しのけると、ニースは床に手をつけながらゆっくりと起き上がった。周囲の煙は既に晴れ始めている。ルジューエル達が立っていた場所に、その姿はない。それを探している間に、ニースの動きがどこかぎこちない事に気が付いた。――爆風を受けたのか。
「ふ……ざけんな!」
メレイの両手が、ニースの襟首を掴んだ。力ずくで引かれたそれに、ニースの足がよろめく。ニースの目が大きく見開くのとは対照的に、メレイが目を細めた。
「人の事かばう余裕があるんだったら自分の心配しなさい! 死ぬわよ!?」
しばしその目を見つめた後、ニースが静かに目をそらす。その目で、周囲にルジューエル達がいないことを確認した。
シャルロットが床から顔を上げると、ちょうどニースがメレイの手をどかしたところだった。
「……体が勝手に動いたんだ。お前こそ、無茶な真似はするな」
冷めた言葉に、メレイは舌打ちをしてニースに背を向けた。そばに落ちた剣を、無言で拾い上げる。
「メレイ、ニースさ……」
「……う」
駆け寄ろうとしたシャルロットだったが、途中で、小さなインショウの声が耳に入った。途端に、その事態を思い出す。振り返ると、インショウの腹に覆いかぶさるように、ヨウショウが顔を伏していた。
「インショウ様!」
ニースが駆け寄っても、ヨウショウの視界には入っていなかった。ひたすらにインショウにしがみつき、体中にその血をつけながら涙を流している。頬についた血が、涙でわずかに流れ落ちた。
「兄上……兄上……!」
インショウの傍らに膝をつき、ニースは顔を歪めた。ヨウショウの小さな手が、必死に兄の体から血が流れていかないように押さえている。しかし無常にも、その出血は止まる事はない。インショウの口から、かすれた息が漏れる。――その時。
複数人の大きな足音に、シャルロットは振り返った。シャルロット達が進んできた同じ入り口から、十数人の兵士が駆け込んできたのだ。一瞬、騒ぎを聞きつけた警備兵達かと思い、身がこわばったが、それは安心できる顔――カルディ達、あの丘で別れた兵士達だった。
「ダークイン様……インショウ様!?」
倒れたインショウに、カルディが叫んだ。しかし、ニースにはそれを振り返る余裕すらない。
「……ニー……ス」
絞り出すような声で、インショウが言った。胸を上下させ、口を大きく開いているのに、そこから出る声はヒューヒューとかすれた息だけだ。
「私が……愚かだったのだな……。お前の……話も……聞かずに……」
「喋らないで下さい! 傷が……!」
その手で止血を試みても、頭のどこかではそれは無駄な行為だとわかってしまう。傷口を押さえるニースにかまわず、インショウが天井を見上げた。
「……父上が……なんと思われるか……。父上の国を……あのような者のいいなりにしてしまった……」
かすかに上げようとした手を、ニースが受け止めた。その安堵からか、インショウの顔がわずかに緩む。その目が、ニースから視線をそらして自分の腹の上に伏しているヨウショウに移った。
「ヨウ……ショウ……」
その弱々しい声に、ヨウショウは血だらけの顔を上げた。
「兄上……!」
インショウの手先が、ヨウショウの頬に向かう。しかし、力ないそれはそこまで届かなかった。
「こんなに……近くにいたのにな。……お前を見るのは……久しい……気がするよ……」
「兄上!」
インショウが、わずかに微笑んだ。
「お前が……この国の王になるんだ。お前が……この国を守れ」
声の代わりに、ヨウショウの目からは留まることなく涙が溢れている。必死に、何度も頷いた。
「……父上……母う……え……。今、おそば……に……」
小さく息を吐きながら。閉じられた目は、そのまま開く事はなかった。声に上げ、ヨウショウがインショウの上で泣き崩れる。シャルロットは口を覆った。涙が勝手に流れ落ちた。たった一人の肉親である兄を、たった今この幼子は失ったのだ。
ニースは静かに目を伏せた。握ったインショウの手を、その胸の上に置く。
「……安らかに、眠って下さい」
その声は、かすかに震えていた。その背を見つめ、シャルロットは胸が痛かった。インショウには、何の関わりも無かった。それでも、ニースがどれだけこの若い王を想っていたかは知っていた。――そう、まるで弟のように。
「……ニース」
ヨウショウのすすり泣く声だけが響く沈黙に、ワットが言った。
「奴らに逃げられた。追うぞ」
シャルロットが振り返ると、ワットとメレイは既に、彼らを追おうとニースを待っていた。
「……このままにはしておけない」
ニースがカルディを振り返った。
「頼む」
「……は、はい」
ニースの落ち着いた声にカルディが何とか返事を返す。そのまま、ニースと交代するようにカルディがヨウショウの傍に座った。
「ヨウショウ様、お気を確かに……」
優しい声にも、小さな王は、身動き一つしなかった。
「あいつら、どっちに行ったのかしら」
メレイがホールの周囲を見渡した。出入り口は四方――カルディ達の入ってきた入り口を除いて考えると、三つだ。
「シャルロット」
メレイと目が合うと、シャルロットは涙を拭いた。そうだ。いつまでもこうしているわけにはいかない。視界の端に、嘆き悲しむヨウショウの姿が入る。重く痛む胸を押さえ、シャルロットは目を閉じた。――集中しろ。
周囲の音を、遮断する。――お願い。
(お願い、教えて!)
ここで立ち止まったら、あの子はどうなる。ここで彼らを逃がしたら、私達は何の為にここまで来たというのだ。
――遠くで、足音が聞こえた。暗闇の中を、走り抜ける――。
吸い込んだ息と同時に、はっとした。
「あっち……!」
鳴り響いた足音。そこに向かって、指を差す。前方、上階につながる階段だ。
「空中庭園……?」
「庭園?」
シャルロットは同時に顔を上げた。確かに、ホールの上はそのまま外に庭に繫がっているようだ。しかし、それではおかしい。
「明るい場所じゃあない……」
目を細め、呟く。――どうして。彼らの走った感覚は、確かに冷たい洞窟のような――。
「何だって?」
その呟きに、ワットが言った。「ごめんなさい、私――」
「南の洞窟……」
小さな声が、シャルロットの言葉を遮った。ヨウショウだ。
「階段の裏に……出口がある」
「……製造場へ?」
その言葉に、ニースが眉をひそめた。インショウの体から顔を上げたヨウショウが、頷く。「あの人は、いつもあそこにいた」
「行くわ」
ニースを振り返り、返事を待たずにメレイが駆け出した。
「待て! ワット、俺達も行くぞ」
メレイを追うニースに、ワットが「ああ」と返す。
「シャルロットも来てくれ」
「は、はい」
シャルロットが足を出した瞬間、小さな声がした。その声に、ニースの足が止まる。
「……兄上の敵を討ってくれ」
まるで呪いのように。その憎しみの込められた目はとてもあの無邪気な幼子とは思えなかった。
「すぐに……戻ります」
返事と同時に、ニースはメレイを追って駆け出した。
「シャルロット」
ワットに手を引かれると、シャルロットは我に返った。その手に引かれ、ニースを追って階段の裏口へと向かった。