第34話『二局の戦い』-4
「火の王国の兵士?」
ワットの言葉に、ニースが顔をあげた。ニノーラの古城跡の丘の下。シャルロット達は野宿の準備をしていた。一足早く、アイリーンは布にくるまって眠ってしまっている。煙が立つのを避けるため、ランプを灯して馬を周囲の木につないだ。
様子を見に行ったワットは、狐につままれたような顔で三十分もしないうちに戻ってきた。てっきり賊団かと思って意気込んでいった分、肩すかしだったのだろう。輪になって座るシャルロット達に混ざり、ワットが腰を下ろした。
「二十か……三十近く。全然覇気もなかったけどな」
「兵士が何してたの?」
こんな森の中で。メレイが、意味が分からないといった顔で言った。「さあ」同じく興味もない、というようにワットが答える。
「暗い顔して、ただ火ぃ起こしてた」
「なんだそりゃ」
パスが呆れたように声をあげた。
「とにかく、あいつらがいたんじゃ俺らはここで野宿決定だな」
ワットの言葉に、パスが「ええー」と情けない声を出した。やっとゆっくり休める場所にたどり着けたと思ったのに。その視界の端では、既にアイリーンは夢の中に入っているのだが。
「火の兵士か。確かに、顔を合わせない方がいいわね。こんなところで争ったって、何の意味もない」
「明日にはいなくなるだろ」
関係なかったな、とワットはその場に寝ころんだ。丘の上に立ち上る煙と古城を見上げながら、シャルロットも布にくるまって目を閉じた。
小さな、土を踏む音で目が覚めた。
小さく開いた視界に入るのは、うっすらと白んだ霧だ。――夜明け。目の前に、アイリーンの気持ちの良さそうな寝顔があった。
地面につけた頭の遠くで、土を踏む音がする。顔をあげると、人の足が遠のいていくのが見えた。
「……ニース様?」
朝霧の中に、影が消えていく。声をかけたつもりが、寝起きのせいか、声がかすれて聞こえなかったようだ。肘をついて体を起こす頃には、ニースの姿は見えなくなっていた。とろりとした目で周囲を見回しても、ワット達はまだ眠っている。
「……トイレかな」
独り言に、隣のアイリーンが「ううん……」と目をこすった。
「あ、ごめんごめん。何でもないよ……」
いまだ夢の中をさまよっているであろうアイリーンの隣に横になり、再び目を閉じる。朝霧を含んだ風は肌寒い。一度目覚めてしまうと周囲の静けさも手伝って、なかなか眠れなかった。どれくらい、夢と現をさまよっていただろう。ふいに、シャルロットは気がついた。――ニースは、いつからいなかっただろう。
そう思うと、突然不安がむくむくと胸の中で膨らみ始めた。一人で出歩くなんてことがあるだろうか。しかも、皆が寝ている間に。
「(ねえ、ワット)」
近くで眠るワットの背をゆすった。しかし他の皆を起こさぬような小声は、ワットの頭には届かなかったようだ。小さくうめき声が返ってきただけで、それ以上の反応はなかった。
「……もう」
膝をついたまま、メレイのそばに移動して肩をゆする。
「(メレイ、起きて)」
「……何?」
幾分眠たげな目を向け、メレイが手の甲を額に当てた。
「ニース様がいないの」
「……ニース?」
どうでもいい情報のように、メレイが目を細める。「どっかに散歩にでも行ってんじゃないの……? 変なヤツだし……」寝起きのせいか、普段なら口にしないであろう本音が出てきている。それは、今は聞き流した。
「だいぶ前からいないの。トイレにでも行ったんじゃないかと思ってたけど……」
話しながら、ふいにシャルロットの胸に不安が入り込んだ。思わず、丘の上のニノーラの古城を見上げる。
「ニース様、まさか古城に行ったんじゃ……」
途端に、メレイが目を覚ましたかのように上体を起した。
「……いつからいないの?」
見開いた目が、シャルロットを食い入るように見つめた。「……わ、わかんない。だいぶ……たぶん二、三十分くらい前……」記憶を辿るも、わからなかった。十分前かもしれないし、一時間前かもしれない。
膝を立て、メレイが枕元に置いた剣を手にとって立ち上がった。その目が、さっと周囲を見回す。
「あいつの剣がない」
言われて初めて気がついた。皆眠るときは剣や短刀を枕元に置いている。ワットもそうだ。メレイも、たった今まで。しかし、ニースの寝ていたはずの場所には剣がなかった。
キッと、メレイの目が古城を見上げる。
「火の王国の兵士って言っても今のニースはお尋ね者よ。何考えてんだか……!」
「メレイ!?」
突然歩き出したメレイを、慌てて呼び止める。その声にアイリーンとパスが目をこすりながら体を起こした。
「あそこに行ってくるわ。あんた達はここにいて」
そのまま足を進め、メレイは寝ているワットの頭を足先でこづいた。
「……何すんだてめぇ」
心底嫌気の差した声で、ワットがうっすらと足先の主を見上げた。
「古城に行って来るから、この子達頼んだわよ」
それをまったく素通りし、メレイはそのまま朝霧の中に消えていった。「……はぁ?」言葉を理解しきれていないワットが、無理矢理体を起して周囲を見回す。
「何だ? 古城が……何だって……?」
「ニース様がいないの! もしかしたら古城に行ったんじゃないかって……、メレイが見てきてくれるって……」
「ニースが……?」
顔を押さえ、それでもワットはまだ目が覚めきっていないようだった。
「誰だ!」
弾ける様な声に、ニースは足を止めた。できるかぎり気配は消したつもりだったが、元々人気のないこの森では、足音は目立ち過ぎる。ニノーラの古城跡付近。その入り口で火を焚いていた、見張りとおぼしき兵士の格好の男がはじけたように立ち上がる。それに続けて、背後で眠っていたらしい同じ格好の男達も何事かと体を起し始めた。
「貴様一体何の……」
言いかけで、目を凝らした兵士の言葉が止まった。濃紺一色の自分達の制服姿とは違うニースを見ても、男にはすぐに理解できたようだ。
「……隊長?」
ぽかんと、男が口を開いた。まるで幽霊でも見るかのような目で、ニースを見つめる。後ろの兵士達も、反応は同じだった。
「ダークイン隊長じゃないですか?! こんな所で……!」
朝霧を抜けて、兵士の一人がニースに駆け寄った。混乱しているのか、言葉が上手くつむぎ出せていない。
「お前達こそ、こんな所で何をしている……?」
ニースは眉をひそめた。――間違いない。見覚えのある顔が何人もいる。火の王国の兵士だ。
「隊長……! 国ではとんでもない噂が……隊長は国際指名手配犯になっちまってるんですよ?! インショウ様を手にかけようとしたとかなんとか……!」
「そんな事を本気で……」
言葉の途中で、ニースは異変に言葉を止めた。目の前の兵士の視線が、いっせいに変わったのだ。見つめる先は、自分ではない。通り過ぎたその後ろ――その頭上。
「みーつっけた!」
まだ薄暗さの漂う朝霧の生い茂る木々。その中に、目が覚めるような赤と白の服。かくれんぼで勝利した子供のように、少女は満面の笑みでその木の枝に座っていた。自分を見上げる兵士達にゆっくりと視線を回す。口元が、にんまりと緩んだ。
「三日も探したんだから、お兄ちゃん達」
「シンナ=イーヴ……?!」
唯一言葉を発したニースに、シンナが目を留めた。「あれえ?」その首が、こてんと曲がる。
「こんなとこにダークインのお兄ちゃんがいる」
――なぜこんな所に。
「ま、今日はお兄ちゃんに用はないよ」
その言葉を発する前に、シンナの目線はニースの後ろの兵士達に移った。「用があるのは」腰を上げ、枝の端に足をかける。一瞬かがんだかと思うと、シンナはそこから躊躇無く飛び降りた。
「……こっちの方だから」
まるで、羽でもついたかのように。音も無く、シンナが兵士達のど真ん中に着地した。一点の体勢の崩れも見られない。床に付く事の無かった両手には、銀の玉が握られていた。朝霧が、シンナの周囲を不自然な動きで避けていく。
「兄様から、君達に伝言があるの」
口元を左右に引き伸ばしたまま。兵士達は見知らぬ少女の行動にただぽかんとその場に突っ立っているだけだった。その朝霧の動きに、ニースは背筋が凍った。まさか――。
「命令どおりに動けもしない人間はいらない。あたしもそう思うよ。バイバイ」
シンナが両手を前に突き出した。
だんだんと視界がはっきりし始めた霧の中で、耳鳴りがするほどの静寂を男の悲鳴が突き破った。丘を登っていたシャルロットは、思わず顔を上げた。
「……何?! 今の!」
胸をえぐられるような、恐怖に駆られた声。正面のワット、後ろに続いていたアイリーンとパス、エディが顔を合わせる。
「ニースじゃない……兵士か?」
そう口走ると、丘の上を見上げ、ワットは一人で一気に丘を駆け上がった。「ちょっ……ワット!」慌てて、シャルロット達はそれを追った。
思わず、奥歯を噛みしめた。――知っていたはずだ。この子供が、どういう人間なのかを。
兵士の数人が、悲鳴を漏らしながら尻もちをついてあとずさる。腰の剣を素早く抜く者、恐怖に唖然と口を開ける者。
それぞれの顔を、シンナは口の端を左右に引いたまま品定めをするようにぐるりと見回した。その手を引くと同時に、獲物を捕らえた線が赤い血しぶきを周囲に撒き散らす。――ドン。一度、音を立て。二人の兵士の首が、地面に転がった。
直後、今までそれが繋がっていた体が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
次の狙いを定め、シンナが飛び上がった。
「やめろ!」
腰の剣を抜き、ニースが叫んだ。「俺が相手になる! 彼らに手を出すな!」その言葉を耳に入れ、シンナの目がニースを捉える。
「やだよ、今日はお兄ちゃんに用ないもん」
耳から耳へと言葉を流し、着地と同時に振った腕が別の兵士の腕を飛ばす。言葉が無駄だと感じたニースは即座にシンナに向かって剣を振った。しかし、いくら賞金首といえど、少女に剣を振るう事は体が否定する。速度の鈍った剣を、シンナは軽々と飛び越えて別の兵士の首を飛ばした。
まるで、紙切れのようだ。動きにとらえどころがなく、踊るように舞う。その間にも、兵士達の悲鳴は増えるばかりだ。
刹那、シンナが何かに気が付いて振り返った。その途端、小さな風切り音と共に、その目前で石が粉々に砕け散る。それが飛ばされた方角に、シンナの目が素早く向く。
古城跡の入り口に立っていたのは、メレイだった。走ってきたのか、汗ばんだ額に前髪がついている。
「メレイ?!」
血にまみれた遺跡に、メレイは唇を噛んだ。立ち尽くすニースに、しゃがみこんだ体制のままのシンナ。彼女を睨み、メレイは足を踏み込んだ。――しかし。
「メレイ!」
ニースが叫んだ瞬間、メレイは足を踏み留めた。大きく音を立て、その足元の石段が砕け、メレイの目線まで跳ね上がったのだ。
足止めされたメレイに、シンナは笑みを浮かべて次の標的へと飛び向かう。
「……あんのガキ!」
怒りに歯を軋ませ、剣を抜く。ニースとメレイ、二つの刃がシンナを狙うと、紙切れのように舞うシンナが、その連撃に兵士へと目を向ける暇が無くなる。飛び回りながら、シンナは頬を膨らませた。
「もう! こんな時ばっかり出てくるんだから!」
余計なときはいる、とばかりに口を尖らせ、周囲が見渡せる木の枝に足を乗せる。すぐに、視界の隅にまた兵士とは違う数人が駆け込んできたのが見えた。
先頭でたどり着いたのは、ワットだった。
思わず、目を見開いてその足が止まる。
「こ、これは……!」
広がるのは一面の血の海と、倒れた兵士達の姿。そして、それに狼狽する数人の人間だけだ。
「ワット! ニース様は……」
「見んな!」
足を踏み入れた途端、シャルロットの顔面にワットの平手が張り付いた。「イタ! 何すん……」言いかけで、その隙間からの惨状にシャルロットは体が凍った。動けなくなったシャルロットの後ろから、続けてパスとアイリーンが飛び出したが、ワットの両手がその首根っこを掴んでひっぱり戻した。最後のエディが、足を止めて叩くほどの勢いで口を押さえる。
「シンナ=イーヴか……!」
枝の上から表情もなく顔を向けているシンナを見据え、ワットが唇を噛む。「降りて来いこのクソガキがぁ!」付近の枝を折って投げると、シンナはそれを避ける為に地面に降りた。そこをメレイが再び斬り込む。
高い、金属音が響いた。メレイの剣は、シンナの両手に持った銀の玉から飛び出た長い針によって防がれた。――が、子供の細腕がその大きな剣を支えきれるわけがない。その勢いに流されるように、シンナは苦しい体勢でその場から飛び上がり、離れた場所に着地した。
押さえた腕からは、その白い肌に一筋の鮮血が流れた。血のにじんだ腕に目を落とし、シンナの口がわずかに開く。
「おい、お前!」
唐突に、アイリーンが叫んだ。今にも飛び出しそうなアイリーンを、エディが慌てて押さえる。その声に振り返った新なの後ろから、一人の兵士が剣を叩きつけた。――が。
まるで後ろに目があるかのように、シンナはそれを避けるように高く木の枝へを飛び上がった。はるか頭上からの見下ろされた目に、兵士が小さく声を上げて尻餅をつく。
シンナの細めた視線が、ゆっくりとニース、メレイ、そしてシャルロット達に向いた。
「……邪魔だね、お兄ちゃん達。兄様の命令があれば今度は……」
初めて、その顔から笑みが消えた。わずかな物音と共に、シンナは森林へと姿を消した。