第33話『動く理由』-3
メレイのかつての故郷、クィッドミィードに到着したのはほぼ丸一日後だった。浜辺を外れたあとに一晩休息を取り、太陽が真上の昇る前に、クィッドミィードの町並みが見え始めた。
荷馬車を動かすニースが、その景色に目を細めた。
「様子がおかしい」
その言葉が届く頃には、メレイが荷台から身を乗り出していた。「まだ日中だってのに……静かすぎる」荷台で、エディとパスが顔を見合わせた。
「町は避けようぜ。ロクな事はなさそうだ」
ワットの言葉に、ニースは「……そうだな」と同意した。
「やはり食料だけ買ってこよう。俺が行って来るから皆はここに……」
「待った! 誰かいる!」
ニースが身に布をまとったとたん、アイリーンが弾けるように叫んだ。その指差された方角に、つられて視線が向く。確かに町の入り口で、人が座り込んでいた。頭を垂れ、手足をダラリとさせた男が――。
「倒れてる! 怪我してる!」
アイリーンがさらに続けた。男の周囲には、こすったように血の跡が広がっていた。馬車を寄せ、ニースが荷台から飛び降りた。
「おいニース!」
ワットが追うと、シャルロットもそれに続いた。「おい」ニースが男の肩を持ち、顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
男が、うっすらと目を開け、顔をあげた。ひどい怪我だ。顔はほぼ真っ赤な血液で染まり、薄汚れた服には土ぼこりと赤黒い染み。まだ若く、ニースと歳も変わらないだろう。
「……な……んだ、あんたら……、旅の者……か?」
男が力なく言った。
「ああ、そうだ。それよりその傷はどうした」
言わずとも、誰かにやられたことは明白だ。「何があった」ニースが続ける間に、エディが傍らに座った。だが、その手を取った途端、男は一瞬体が浮き上がるほどに反応し、顔を歪めた。
「……ひどい。腕が……」
その手から身を離し、エディがニースを見上げた。「(折れるどころか……潰れています)」声を低め、顔をしかめる。周囲に広がった血痕を見るかぎり、他にも大きな怪我があるかもしれない。
「あんたら……!」
突然、男がまるでそんな怪我が存在していないかのようにニースに掴みかかった。「今ならまだ間に合うから、この町から逃げろ!」血走った目で、男が怒鳴った。
「……どういうことです?」
ニースがその体を支えると、男が唇を噛んだ。「昨夜……この町は賊団に襲われた」驚きのあまり、シャルロットは一瞬声が出なかった。
「セーズナだけじゃなかったのか……?!」
「セーズナも……?!」
口走ったワットの言葉に男が目を見開く。「どんな奴らだった? 被害は大きいのか?」唯一冷静な言葉の出るニースが男の顔に目を合わせる。しかし、男の耳にはそんな言葉は入っていなかった。
「いいからすぐ逃げろ! 見つかる前に……、早く!」
男がニースを突き飛ばすも、力が足りずに自分だけが地面に落ちる。
「まだその人達がこの町に……?」
エディがニースを見上げた。
「奴らは町の役所を占拠して……まだ町中の金品を奪っている。かなりの犠牲者が……!」
体の痛みに耐え切れないのか、男の言葉が途切れる。よろけた体を、シャルロットは慌てて支えた。――その途端。
切り裂くような女性の悲鳴に視界が真っ暗になった。その闇を裂くように、走り回る男達が逃げ惑う町の人々を追いかけている。馬に乗った体の大きな男に、若い男が剣を向けている。しかし、それが届く前に男の体が血に染まる。そして、男を切り裂いた斧から血が滴り落ちる――。
遠かった悲鳴が一瞬で、耳元で破裂するほどの悲鳴になった。
「おい!」
男の大きな声と肩の感触に、シャルロットの肺に、大きく空気が入り込んだ。ワットが、後ろからシャルロットの両肩を取っていた。シャルロットの手は、支えていたはずの男から離れている。全身を包む、じんわりとした汗。――見えた。
「……何だ、いきなり叫んで……」
聞こえた悲鳴は、自分のものだったのだろうか。だが、そんな事はどうだってよかった。とっさにワットの腕を掴む。
「あの男……! おとといの男よ!」
「何?」
シャルロットの言葉に、ニースが顔を向ける。「おとといの斧の大男……! あいつがこの町に……!」ニースが目を見開いた。
「ファウターが?」
「昨夜この町を襲ったのはあいつらだわ……!」
「どうしたのよ」
今まで荷馬車に残っていたメレイが、後ろにパス達をつれて駆け寄ってきた。
「この町も……昨夜賊団に襲われたらしい」
「何ですって?」
メレイの顔色が、一瞬で変わる。「被害は?! ケイの店は無事?!」メレイが勢いよく男に掴みかかった。
「メレイさん! この人怪我がひどいんです!」
とっさに、エディがそれを引き離す。その剣幕に、メレイは手の力を抜いた。
「おそらく……ルジューエル賊団。あいつらだ」
ニースが呟いた。「セーズナを襲った後に、この町に来たのか」ぎり、と奥歯を噛みしめる。
「セーズナが襲われたのは深夜過ぎ……。可能性はあるわね」
「やつらの仲間がまだ居ると言ったな」
ニースが男の前に片膝をついた。ああ、と男が頷く。
「頭の男もここに?」
「俺が知るかよ……。どいつが頭なのかもわかんねえ……」
「……そうか」
そう答え、立ち上がる。確かに、町の中へ目を凝らしても、まったく人の気配がない。荒廃した町が、一層深い静けさに包まれている。メレイが、一人足を進めた。
「町の中を探ってくる」
「ね、姉ちゃん何考えてんだ!」
男の慌てた声にも、メレイは振り向きもしなかった。「ニース」足を止め、ニースを振り返る。
「ケイの店が気になるの。それにもし、ファウターがこの町に戻ってきてればこんな都合のいい事はないわ。あんただって、放っておけないでしょ」
淡々としたやりとりに、男が身を乗り出した。慌てて、エディが支える。
「あ、あんたらどうかしてるぞ!」
男の言葉に、メレイは一瞥をくれただけだった。「先に行くわ。こないんだったらここから離れてな」軽くあごをあげ、きびすを返す。
「待て」
ニースがメレイの腕を掴んだ。
「行くなら全員だ」
「本気かよ」
ワットが後ろで腕を組む。「放ってはおけない。ルジューエル賊団の仕業ならなおさら……バラバラには行動しない」
町中は、驚くほど人がいなかった。襲われたのなら死体があってもおかしくない。それが怖くてシャルロットはずっとワットの腕に捕まっていたのだが、次第にそんな気もなくなった。メレイを先頭に大通りの隅を歩いて進み、以前世話になった葵の館――、メレイの知り合いであるケイが経営する娼館に辿りついた。
「……ケイ?」
ドアの軋む音とともにメレイの小さな声が家の中に響き渡る。家は暗く、カーテンが閉まったままで返事は無い。「誰も居ねぇな」ワットが周囲を見回すと、一番後ろにいたのアイリーンの耳が物音を拾った。
「エディ……!」
隣のエディの袖を引き、シャルロット達が振り返る頃には、はっきりと男の声が近づいてくるのに気がついた。全員が、とっさに息を潜めた。男達の声は、店の外だ。カーテンの隙間から、それをのぞき見る。
若い男が三人、機嫌も良さそうに歩いていた。明らかに町人のものとは違う、見覚えのある格好。それは、おとといの夜セーズナで見た彼らの格好に違いなかった。
「(間違い無さそうだな)」
声を潜め、窓の外から視線をはずさないままニースが言った。古びた窓だ。足を止めている彼らの会話は、充分に聞き取れたが、言葉の意味がシャルロットにはまるでわからなかった。
「(北端語、ですね)」
小声で、エディがニースを見上げた。
「(どうする?)」
メレイが窓から離れ、腕を組んだ。同じく、ワットも窓から離れた。
「簡単だ。痛めつけてボスの居場所を吐かせる」
「却下」
メレイの言葉に、既に短刀を抜いていたワットが「何で」と顔を向けた。
「裏切りは死を意味する。脅しには絶対に乗らない」
「じゃあどうすんだよ、このままつけんのか?」
めんどうだろ、と眉をひそめるワットを無視し、メレイは再びカーテンに身を寄せて外を眺めた。
「ケイ達はどこに行ったのかしら。まさか殺られてないでしょうね」
「占拠された場合、どこかに集められている可能性が高い」
ニースが、同じく外を見据えながら言う。
「あいつが言ってた役所じゃないか?」
ワットが口を挟んだ。「場所は?」その目が、メレイに向く。
「知らないわよ、そんなの」
「はぁ?」
思わず出たワットの素っ頓狂な声に、シャルロットは慌ててその口を両手で塞いだ。ワットが我に返り、声のトーンを再び低める。
「……お前この町住んでたんだろ?」
「何年前だと思ってんのよ。それに役所なんて、行った事も無い」
シャルロット達が息を潜めている間、メレイが背にくくった剣を鞘ごと外した。
「捕まったふりして案内させる」
「え?」
ニースが間の抜けた返事をしている間に、「持ってて、取り上げられたら困るから」とメレイがその剣を押し付けた。そのまま玄関に向かうメレイの腕を、ニースは慌てて捕まえた。
「(待て! 早まるな!)」
「簡単よ。まかせときな」
つかまれた腕に、「離して」と視線を落とす。
「忘れるな、お前は女なんだぞ」
ニースの言葉に、メレイは一瞬面を食らった。しかし、真剣そのものの顔に思わず笑いが漏れる。
「だからよ。やつらは油断する」
鼻で笑った言葉に、ニースは「いいから」と口を結んだ。
「それにファウター達がいた場合を考えろ。顔が割れてるんだぞ」
「そんな事言ったら、あんただって同じでしょ」
メレイが腕を払うと、ニースは何も言えなくなった。
物音で、三人の男は振り返った。誰もいないはずの町。その中で、あまりに浮いたほどに身なりのいい少年が、家と家の間の影に立っている。ただし、身なりは良くても服は薄汚れているが。
「まだいたとのか」
男の一人が、ニヤリと笑う。「来い」男に手を引かれ、エディは抵抗を見せなかった。
「お前、この地の人間じゃないな」
多少の緊張を顔に見せたまま、エディが首をかしげる。男達が話す言葉は、自分の言葉とは違う。北端語だ。そのしぐさに、男達は言葉が通じていないと思った。「こいつも役所に連れて行こう」エディの耳は、しっかりとそれを頭に入れているというのに。
話せるわけではないが、理解はできる。エディは、過去の勉強がこんなところで役立つとは思いもしなかった。
男達に腕引かれて遠ざかるエディをシャルロット達は家の影から覗き見ていた。
「……エディ、大丈夫かな」
一番低い位置から、アイリーンが呟く。その言葉に、ニースは口を結んだ。言い出したのはエディだが、不安は抑えきれない。別の影からワット達にも目を光らせているとはいえ、何が起こっても不思議では無い状況だ。
「北端語が分るのは俺以外にエディだけ……。俺は顔が割れてるし……エディなら、いざという時に待避を判断できる」
アイリーンがその不安げな目を向けた。
「大丈夫だよ。エディは戦うタイプには見えないから、手は出されない。それより、周囲に気を配っていてくれ。君の耳を、頼りにしている」
「……ああ」
葵の館から離れたあとから、エディはずっと後ろを振り返りたかった。でも、それだけはやってはいけない。ばれてしまっては、元も子もないからだ。――振り返らずとも、エディは目を伏せ、信頼に身を寄せた。
「こっちだったよな」
男の声に、顔を上げる。その瞬間、エディはギクリとして思わず足を止めた。――全身に冷水を浴びたような感覚。
大通りの先、その中心に、何かが散らばっているのが目に入った。遠目でもわかる、撒き散らしたような赤い液体。――血痕。
「止まるな」
もはや、言葉がわからないふりをしている余裕も無かった。こみ上げる吐き気を、抑えるだけで精一杯だ。腕を引かれ、無理矢理足が進む。血は見慣れているはずだった。――診療台の上で見る血には。
近づくほどに、地面に落ちて散らばった「もの」が何なのかわかる。――人の腕だ。その相棒は、四方に散らばる体のどれか。手、足、頭。それでもエディが吐き気をこらえられたのは、医療現場に携わる血が、それを制したからだ。
足が、土にまみれた血の海を歩き進む。時折、ぴちゃりと地面に吸われきっていない液体が足の裏に嫌な感触をもたらした。
「頭達のやった奴らだろ」
「へ、抵抗なんざするからだ」
男達が、鼻で笑う。
はるか後方では、惨状にシャルロット達の足も止まっていた。悲鳴をこらえ、シャルロットはワットにしがみついて目をそむけた。それが何かわかった途端、足は一歩も前に進まなかった。あんな道に、進めるわけがない。さすがに、ワットやメレイ、ニースも顔をしかめた。
「……酷いわね」
アイリーンが、震える手でワットの足にしがみつく。ワットは二人の頭を抱いたが、このままではエディ達を見失ってしまう。しかし、パスも口を押さえて後ろを向いたまま、動ける様子ではなかった。地面に膝をつけている。吐き気を押さえ込むだけで精一杯か。
「……シンナだな」
「確かに……あのガキなら可能ね」
ワットの言葉に、メレイが答える。そのやりとりも、シャルロットには遠いもののように感じた。
酷い吐き気がする。死体を見るのは初めてではない。だが、こんな死体を目にしたのは初めてだ。それがたとえ遠目であっても、この空間、この空気に耐えられなかった。顔も見たこともない、声も聞いた事も無かった彼ら。それでも、その悲鳴が頭に流れ込んでくる。
「おい」
わずかに感じるワットの手の温度で、シャルロットは我に返った。気がついたら、ひどい汗が体を包んでいた。指先が震え、足に力が入らない。シャルロットは口を結んだ。エディはもうあの先なのだ。
ワットが顔を上げると、通りの向こう、惨状をまたいだその先で、エディ達が足を止めたのが見えた。同時に、周囲に比べて大きめのその建物の周りには、何人かの人が立っているのが見える。
「家の前で止まったぜ」
ワットの言葉に、メレイとニースが振り返った。