第31話『交錯の誓い』-1
城から抜け出たシャルロット達は城下町の路地にいた。
白い石造りの家と家の間、積み上げられた木箱の上に座ったアイリーンがエディの手当てを受けていた。といっても、荷物も何もない状態では、服の一部を破った布で止血をしただけだ。
赤茶色の屋根の影に隠れた路地は、人目もない。
「イタ!」
エディが強めに縛ると、アイリーンが顔をしかめた。ワットと一緒に、パスは路地の見張り役だ。家の壁に背をつけながら、髪の色を隠す為にワットと同様、頭にバンダナを巻いている。それでも青い目は目立つが、そこまで見ている者もいないだろう。
髪と顔の半分が隠れるほどに深めにベージュのフードをかぶったシャルロットは、アイリーンの隣でその腕に触れぬように手を伸ばした。そのマントの羽織で、この街では珍しいワンピース姿も隠せていた。
「大丈夫? アイリーン……」
「毒は塗っていなかったみたいだ」
エディが小さく頷いた。それでも、止血した布には鮮血がにじんでいた。路地の奥からのドアが開く音に、ニースが振り返った。メレイが、家の中から出てくるところだった。
「これで平気でしょ」
黒髪をポニーテールに束ねたメレイは、地味な暗い色のロングスカートの服に着替えていた。その格好にはまったく似合わない、自分の剣を背にかける。
「その服は?」
「ちょっと拝借」
ニースの言葉に、メレイが平然と言った。しかし、自分達の状況を考えればメレイのした事を誰も追及しようとはしなかった。ニースはシャルロットと同じくフード付きのマントを羽織り、制服姿を隠している。
ワットが、シャルロットの手を引いた。
「わ……!」
「……ごめん。また一人にしちまった」
その腕に抱かれると、顔が熱くなった。
「わ、私が不注意だったの。一人でフラフラして……」
だが、その先の言葉は続かなかった。――体が、あの男の事を思い出すのを拒絶した。それ以上思い出すのは、耐えられない。
メレイが、フードで顔を隠すニースを睨んだ。
「どうするつもり? お尋ね者になったって、何の得もない。あんたはこの国の……」
「城での地位など、どうでもいい」
路地の入り口に立ったまま、ニースは振り返らなかった。路地の先は大通りだ。多くの人々が行き来している。しかしその明るい世界は、まるでこの路地の影を境に途切れてしまっているようだ。ニースの握り締めた手が、家の壁を殴りつけた。
「まさかあんな奴らが城に入り込むなんて!」
その音と、ニースの声にシャルロットはびくっと体が震えた。それは、アイリーンやエディも同じだったようだ。ニースが唇を噛んだ。
「……おそらくエルべ殿もあいつらに……! くそ! やはり城を離れるべきではなかったんだ!」
視線を下げたニースの声が途切れると、路地は再び静まり返った。ワットが、シャルロットを抱いたままニースに顔を向けた。
「だいたい、あいつがルジューエルだって、何で誰も気がつかなかったんだ? あんな目立つところに立ってて……世界中で第一級に指名手配されてる賞金首だぜ?」
ワットの言葉に、ニースが顔を上げる。
「顔は実際に見た者にしか分らない……。奴がおおやけに姿を現したのだって、何年も前の話だ」
「メレイは何でわかった?」
ワットの言葉に、メレイは視線だけを向けた。腕を組んで家の壁に背をつけていたメレイが、視線を向ける。
「あの男の顔を忘れるわけない」
その目を、静かに伏せた。
「見かけが変わったって、一目でわかったわ。……あの城には……ルジューエルの仲間が多く入り込んでる。末端の手下まで入れれば、誰が本当の兵士かも分からない。ユチア=サンガーナもその一人。兵士に化けて、城の中を自由に行き来しているわ。それから……あの女はエフィウレ=ココよ」
「エフィウレ……?!」
ニースとワットが声を上げた。シャルロットも、その名には聞き覚えがある。――ルジューエル賊団の幹部の一人。高額の賞金首のはずだ。
「そ、あそこにいた女。ヨウショウ皇子の教育係の一人として入り込んでるわ」
シャルロットの頭に、水の王国での一件が思い浮かんだ。――皇子の教育係。確か水の王国でも、彼女は女王の従兄弟の教育係として城にいた筈だ。
「あの女……城ではちょくちょく見かけてた。すぐ水で会った女だってわかったわ。ルジューエルとも何度か親密に話してるところを見かけた。賊団の仲間なら、エフィウレの部隊だろうって思ってたけど、まさか本人とはね」
メレイが息をついた。
「部隊……?」
パスが眉をひそめる。「あいつら幹部はそれぞれ部隊を持ってるのよ。それが集まったのが、奴らの賊団……。エフィウレの部隊は、全員女」
「エフィウレといやあ、ルジューエルに次ぐ団のまとめ役って聞くぜ。……あんな細い女だぞ?」
「でも、間違いない」
信じがたいというワットの言葉に、メレイはしっかりと答えた。冗談で、そんな事を言うはずがない。ワットは口をつぐんだ。信じ難い話でも、事実、エフィウレは自分の攻撃を造作も無く防いだ。
しばらく沈黙が続くと、アイリーンが腕をかばいながら顔を上げた。
「……そいつ、水の王国で何してたんだ?」
誰も答えないアイリーンの問い、シャルロットが口を開いた。
「水の女王のルビー様を……殺そうと」
「殺そうと……?」
「それで……女王がうちに来たんだよね」
エディの言葉に、シャルロットは小さく頷いた。
「水の王国といい、この国といい、なぜ王族ばかり……」
ニースの呟きに、シャルロットははっとした。思わずワットから離れ、ニースの腕を掴む。
「王族って…! ディルート様は?! まさか他の国の王族も……!」
瞬時に、遠い地にいるクルーの顔が浮かんだ。――友人でもあり、風の皇子でもあるクルー。
「それは分らないわね」
メレイはそこには興味が無さそうに呟いた。
「でも、あいつらがそこまで手を広げて王族を狙っても、王族の警護なんてそう簡単に解けるものじゃない。水の国ではエフィウレも失敗してる」
「……あの女はずいぶんあっさり手を引いたよな」
記憶を辿り、ワットが呟いた。答えの出ない考えに、顎に手に当てる。――あの時、直接であればエフィウレがルビーを殺すのは簡単だった筈だ。
記憶を辿ると、ワットはふと気が付いた。
「つーかあの女、水で会った時に、何で俺達に手ぇ出してこなかったんだ? ニースもいたってのに……」
「でも、今はそれどころじゃないわ」
「おい、聞いたか?!」
その途端、男の声がメレイの言葉を遮った。はっとしたものの、それが自分達に向けられたものではないときが付いてほっとする。路地の前を通りかかった男が、知り合いらしき男達に言ったのだ。
「城の兵士達がダークイン様を探してる。何やら、反逆の容疑がかかっているらしいぞ!」
「そんなバカな」
男の剣幕にも関わらず、隣の男は歩きながら笑い流している。「本当だって! さっき城の連中がそう話しているのを……」そう言いながら、男達は歩いて行ってしまった。
シャルロットはニースの顔を盗み見た。この国の軍人としては最高位に近い、王族付きの騎士団隊長。しかし罪人として捕まれば、ニースはどうなるのだろうか。――ジクセルがルジューエル。その証拠など、自分達は何一つ持ってはいないのだ。すぐに、ここにも追っ手が回るだろう。
「一時、この国を出る」
「……え?」
ニースの言葉に、シャルロットは声を漏らした。ワットが腕を組んだ。
「城を離れるのか? これ以上離れたら……あそこはあいつらの思うつぼだぜ? もしこのままあのガキが他の国に戦でも仕掛けたりしたら……」
「それはあり得ない。それをするにしても、準備に膨大な時間がかかるだろう。まだ、考える余地はある。だが、長くここに留まれば、捕まるだけだ。今の俺達では……ジクセルには敵わない」
「何でだよ、いつもみてぇにガツンとやってやりゃあ……」
パスが口を挟んだ。しかし、ガツンとやるのが自分ではないだけに、語尾は小さく濁る。
「奴は城の警備隊長だ。俺の隊とは系列が違うが……地位はほどんど変わらない。奴をルジューエルだと証明できなければ、奴には近づくことすらできんだろう。それに国外なら、執拗な追っては来ない」
「町の誰かにかくまってもらうってのは? ニース、あんなに人気あんだし……」
「それはできない」
パスの提案に、ニースが声を低めた。「この国で罪人を匿う者は、それと同等の罪に問われる」パスが、はっとして顔をうつむけた。罪もない町人を、ニースが巻き込むはずもない。
「南の大陸に行こうと思う。森林地帯をまた抜けるには準備が無さすぎるし……国境を越えるのは無理だ。着くより先に、情報が回る。南の大陸なら、船で一日もかからない」
確かに、火の王国と砂の王国、それに挟まれるようにしてある南の大陸ならば、ここからは近い。ニースがアイリーンの隣まで歩き、優しく頭を撫でた。
「……すまない、巻き込んでしまって」
「これくらい、どうってことねぇよ」
アイリーンが、歯を見せて笑った。ニースが全員を振り返る。
「すまない……。謝って済む事ではないが……この国にいたら、お前達も罪人として捕らえられてしまう。一緒に……南の大陸まで来てくれないか」
シャルロット達に、選ぶ答えはなかった。メレイが、重く息をついた。
「……ルジューエルに顔を見られたからには、もう簡単には近づけないしね」
同意の意を持つ言葉と共に、メレイが肩にかかったポニーテールの黒髪を流す。シャルロットもニースに頷いた。ワットの手を、硬く握り締める。ここにいては、捕まるだけだ。
「……なあ」
沈黙の中、パスがニースを見上げた。
「気になってたんだけどさ……」
「何だ?」
「あの国王が言ってただろ? ……弟がどうのって……。それって……もしかしてオレと手合わせした……?」
「……ああ。あれがヨウショウ皇子だ」
思い起こせば、どこかいい着物を着ていたような気もする。皇子をこてんぱに木刀で殴った事を思い出し、パスは思わず口が引きつった。
ニースは赤茶色の屋根の隙間から遠くに見える、灰色の城を見上げた。
(……ヨウショウ様。どうしておられることか……)
その視界を遮るように、ニースはフードを深くおろした。
南の大陸は、城下町から西に下った港町から出る船で渡ることができる。港に向かう為、エディとメレイが城下町で馬車を借り、メレイが馬車を動かした。ニースを隠すには、馬車で移動するのが手っ取り早い。
肌に汗をにじませる太陽は、強いオレンジ色を発しながらあっという間に水平線に沈んだ。城下町を出て荒野を西へ下る頃には、周囲はすっかり暗闇に包まれていた。
馬車の中では、自然と口数も減る。ワットが隅に座るシャルロットの隣でその手を握った。
「……あいつに、何もされなかったか?」
一瞬、シャルロットは体に緊張が走った。あの部屋で、ユチアに何をされたか。――言えるはずがない。そして、あの狂気をはらんだあの男の目を思い出したくはなかった。口をつぐみ、壁際に視線を落とす。
ワットはその頬の片側だけが、わずかに赤みを帯びている事に気がついた。
「殴られたのか……?」
ワットの顔を、見れなかった。――あの男。
そうだ、殴られもした。
ふいに、同じ頬に触れた暖かみでシャルロットは我に返った。ワットが、自分の頬にキスをしていた。
「……な、何してんの?!」
突然の事に、腫れた赤みとは変わって顔が熱くなった。耳の奥まで熱を持った顔で、ワットを見返す。その腕に、肩を抱きしめられた。
「ワ、ワット……?」
ワットは何も言わず、シャルロットの背を撫でた。
「何やってんだよ! んなせまいとこで!」
正面に座るアイリーンが顔を赤くしながらワットの膝を蹴る。意見は、もっともだ。「は、離して」シャルロットはその胸から離れようとしたが、ワットは離さなかった。アイリーンに嫌なら見るなという視線であごで反対側を指す。ふん、とアイリーンが顔をそらすと、ワットもシャルロットを抱きなおした。
「……怖かったろ」
その声に、はっとした。――気付いてるんだ。頭の中から、離れていない事を。
その腕の暖かさに、じんわりと目の奥が熱くなる。
――その通りだ。周囲が静かになれば、記憶は鮮明に蘇る。あれほど、誰かを怖いと思ったことはない。
「う……っ」
その胸に顔を埋めると、こらえていたものが溢れるように涙となってこぼれ落ちた。体の震えが、今更蘇る。その腕に抱きしめられると、体の芯で張っていたものが、溶けてしまったかのようだった。
肩を震わすシャルロットに、車内は静まり返った。
「……あいつ……私の事知ってた……。……占いの血の事……」
ワットが、反対側の隅のニースを振り返る。やはり、という顔で、ニースは目を伏せた。
「ルジューエルの命令で私を連れてくって……。あいつ……あいつの仲間がいて……気がついたら……あそこにいた……」
それ以上は、詰まる喉と涙で、言葉が出なかった。その腕の中で、シャルロットは泣き続けた。「ねえ、もうすぐ町に入るわよ」馬車の外で、メレイの声がした。
「大きな町だな」
車内から身を乗り出し、パスが言った。町の奥には、永遠の闇。さざなみの音だけが、静かに町を包んでいる。それほど遅くもない時間だが、人通りはほとんど無い。
「でも人がいねぇな」
「ここからの船は民間人は乗れない。町を賑わすのは商人だけだからな」
「……え? じゃあどうやって乗るんだよ」
アイリーンが窓辺から振り返ったが、ニースは答えなかった。
「……密航か」
ワットの呟きに、ニースは目を伏せた。
「この時間なら、まだ船はあるだろう」
「そこの者、止まれ」
暗闇に包まれた深夜の港。停泊する大きな船の前で、女性が呼び止められた。
「……何か」
港を警備する兵士二人――若い彼らは、その女性が振り返ると息を呑んだ。長い黒髪に、はっとするほどに印象的な目。――美しい。肩から暗い色のショールで身を覆っている。
彼らに声をかけられるのは、予測していた事だ。メレイは、柔らかく微笑んだ。その笑みに、兵士の反応が一瞬遅れる。
「こ、こんな時間に何をしている。もうすぐ出航の時間だ。ここから離れなさい」
「私も船に乗りたくて……。構わないでしょう?」
「国の許可の無い方は乗船できません」
もう一人の兵士が答える。「そんな……」メレイは眉間を寄せて口に手を当てた。その風貌に、兵士達は胸を痛めた。
「ここを通れないと困るんです。南の大陸で母が待っていて……。この港から出れないと、土の国から回らなければなりません……。私一人ではとてもあの森は渡れませんわ……!」
絶望に、その茶色い目が潤みを帯びていく。兵士達は顔を見合わせた。
「私お金もないし……護衛なんて雇えません」
メレイが顔を両手で覆うと、兵士は慌ててメレイの肩を撫でた。
「お、落ち着いてください。そう言われましても……今は城からの命令で、特に警護には厳しく当たっているんです。部外者を乗せるわけには……」
「でも、手配されてるのはダークイン様だろう?」
もう一人の兵士が言った。その言葉に、メレイは反射的に顔を上げていた。
「だいたいその命令だって怪しいもんだ。ダークイン様を手配するなんて……」
「……ダークイン……様が、手配されてるんですか?」
メレイの言葉に兵士達が再び顔を合わせる。
「……信じられないけどね」
「どうせ何かの間違いだろう、反逆罪なんて……あるわけがない」
そう答える兵士は、心から信じていないのだろう。語尾に、呆れたような笑いが含まれていた。
「仕方ないな、こんな綺麗なお嬢さんを一人で森林地帯に向かわせるわけにはいかないし……。貨物室に入っちまえば分からないだろ」
「本当ですか!?」
メレイは顔を明るくして兵士の手をとった。
「おい、いいのかよ」
「平気だろ、スノー号だ。こんなでかけりゃ隠れてたってわかりゃしねぇよ」
「ありがとうございます!」
礼と同時に、甲高い鐘の音が三回、港を包んだ。船上から、数人の船乗りが顔を出す。
「おーい、何してんだそんなとこで! もう出航だ、合図をしろ!」
「ああ!」
兵士の一人が、慌てたようにその場から離れて走り去る。
「ほら、急ぎなさい。第二貨物室なら人の出入りは無いから」
「ええ」
兵士に背を押され、メレイは一人、闇にまぎれて船に乗り込んだ。