第3話『出国』-4
船が出発して一時間も経過すると、港も見えなくなり、客達は自然と自分たちの居場所を見つけて休んでいる。シャルロット達は室内の角に場所をとり、ニースは座って壁に寄りかかったまま、なにやら難しそうな本を読んでいた。ワットは部屋にはいなかったが、シャルロットにとってはどうでもいいことだった。――気持ちが悪すぎる。
「うう…」
口を押さえ、顔面蒼白で立ち上がったシャルロットに、ニースは思わず声をかけた。
「大丈夫か?」
「…すみません。ちょっと外の空気吸ってきます…」
「付き添おうか?」
シャルロットは首を横に振って、そのまま部屋を出た。
甲板に出ると、冷たい風が顔に当たって少しはまともな気分になった。手すり向かってしゃがみこむと、髪が風になびく。
「うえ〜…」
「船酔いか?」
胸の奥から吐き出すような声を出した瞬間、後ろから声がかかった。振り返らなくても、声の主はわかる。
(しまった、聞かれた…)
強気に見せていた相手に対し、弱みは見せたくないものだ。手すりを握る手に力を入れて立ち上がろうとしたが、自分にそれほど元気が残っていないことに気がつき、体制を変えて手すりに寄りかかって膝を抱えて座った。この顔色で無言でワットを見上げた事が、問いに対する答えだ。
「船、初めてか」
ワットが口に手を当てて笑いをこぼした。これは、認めざる得ない。シャルロットは口を尖らせた。
「そうよ…!船ってこんなに揺れるって知らなかった。もー気分サイアク…。これで二日なんて絶対ムリ…!」
「…マジ顔色悪いな」
シャルロットの正面にかがみ、ワットがシャルロットの額に手を当てた。意表を突かれ、シャルロットは目を丸くした。
「大丈夫…だと思う」
絶対、からかわれると思っていたのに。冷や汗のついた顔で、とりあえずそう答えた。
「そうだ、少し体を動かしてみるか?ジッとしてても揺れのことばっか考えちまうだろ?」
「…え…?…うーん、じゃあやってみる」
差し出された手をとり、腰を上げた。
「…なんか気分の良くなる方法知ってる?」
「うーん、…あ、コレは?」
ワットは右手で軽く素振りをして見せた。
「興味あるって言ってただろ?教えてやるよ」
「え?!ホント!?やってみたかったの!」
思わず顔を上げてたが、その姿にワットが目を丸くすると、気がついた。つい本音が出たが、そういえば昨日は反対の事を言ったのだ。
蒼白の顔色が赤くなり、少しましにみえたかもしれない。
「利き腕どっち?」
「えっと、右」
ワットに教えられたとおり、シャルロットはワットと同じ構えをとった。まだ体の中の不快感は消えないが、あたる風が気持ちよく、先ほどよりはいい気がする。
「よし。…あー、じゃあとりあえずこうやって…」
ワットが片足を引いて手を固めると、シャルロットも見よう見まねで真似た。
「ん?何か違うかな…、まぁいいや、…んで、腕をまっすぐ前に…突き出す!」
「わぁ!」
ワットが右のこぶしが風を切ると、シャルロットは思わず手を合わせて喜びの声をあげた。
「…あ。ごめん」
同時に、型も崩れてしまっていたが。シャルロットが苦く笑うと、ワットは笑って息をついた。
「…ま、最初からいきますか。気分はどう?」
「さっきよりも数倍マシ」
不快感が抜けなくても、先ほどよりはずっと楽しい。
「ね、もっかい!」
楽しい遊びを見つけた子供のようにシャルロットがせがむと、ワットは再び一から始めてくれた。
シャルロットとワットの姿は、室内からもよく見えた。道中ケンカの絶えなかった二人が仲良くしているのを見て、ニースは安心感を覚えた。さすがに、これから先もずっとケンカ続となると、どちらかを連れてきた事を後悔せねばならない。やっと本を読むのに集中できた。
うっすらと空に赤みが差してくると、シャルロットは甲板の手すりに寄りかかった。いつのまにか、気分はすっかり晴れていた。ワットが隣に寄りかかる。
「もう大丈夫か?」
「うん、ありがとう。すっかり良くなったわ。なんか船にも慣れてきたみたい!」
「そりゃ良かった」
ワットが空を仰ぐと、シャルロットはその横顔を見てふいに思った。
「…ワットは、どこでこういうの覚えたの?」
「…さぁ…。いつのまにか、かな。あんな事ばっかりしてるからな」
――あんな事。つまりは盗賊。シャルロットは目を細めた。
「盗みは悪いことよ。やめなくちゃ」
シャルロットの言葉に、ワットは顔を向けた。
「…そうだな。だけど、本当に普段は人を傷つけたりはしない。お前の兄貴の時は…本当に偶然だったんだ」
それには、返事が出来なかった。真実か否かは、シャルロットには判らない。ワットは手すりに両肘をつけ、海を眺めた。
「確かに盗みをやってるけど…、子供とか、真面目に働いているような奴らからは絶対盗ったりはしないって決めてる。人を無意味に傷つけたりもしない」
シャルロットは黙ってワットを見上げた。
「だから…、傷つけてしまった分は、償いたい」
ワットは海の先を見つめたままだった。その横顔には、惹かれるものがあった。
「…あの…さ、お兄ちゃんの事、もう許してあげる…!」
思わず、ワットがシャルロットを見返した。まっすぐ自分を見つめる目に、小さく口元が緩んだ。
「…無理しなくていぜ」
シャルロットは胸がムっとした。
「無理なんてしてないわ。確かにワットはお兄ちゃんの腕折ったけど…。その…、わざとじゃなかったって事は…、ホント、もう判った。ワットは…、優しいもの」
シャルロットは先ほどのワットと同じように、手すりに手をかけて海の遠くを眺めた。
「それによく考えたら、私の方がワットにいっぱい迷惑かけてる。ベル街でも…、ほら、今も。お礼を言うのはこっちだよね。謝らなくちゃいけないのも。ホントごめんね。それと、ありがとね」
ワットは首の後ろに手をあて、シャルロットを見て目を大きくした。
「…あ、いや。俺の方こそ。な」
ワットの答えに、シャルロットは手をあげた。
「うん、じゃあ、中に戻ろ!お弁当あるから、ニース様と食べよう!」
シャルロットがさっさと船内に戻ると、ワットはそこから動かないままその後姿を目で追った。
「すっげぇ奴…」
感嘆のため息が、思わず漏れた。
夜になると、乗客たちは皆船内で眠った。昼間ワットと遊んで疲れたシャルロットも、壁を背に布をかぶって丸くなって寝ていた。すっかり眠っていても船内では揺れもある。
多少の物音にも反応していたシャルロットは、ニースが甲板に出て行ったことに気がついた。気分でも悪いのだろうか。酔った時の気分が判るシャルロットは体を起こした。
「…1人にしてやんなって」
近くに寝ていたワットの声に、シャルロットは振り返った。
「起きてたの?」
眠っていなかったのか、それとも今目が覚めたのか、ワットは目を開けたまま天井を見上げていた。
「なぁ、お前…火の王国に詳しい?」
「…え?…ううん、全然…。何で?」
「…いや。とにかく、付き人だからってそこまでニースに気を使う必要はねぇよ。あいつだって、一人で考えたいこともあるんだろ」
「…う、うん。…判った」
本当は意味もわからなかったが、確かに、ニースにだって一人になりたい時はあるだろう。シャルロットは再び布をかぶって寝転んだ。
「とにかく寝とけよ」
「うん、おやすみ」
「…ああ」
ガラス張りの船内の窓から見える甲板のニースの姿が視界に入ると、シャルロットは中々眠れなかった。その背は、何を考えているのだろう。揺れる船の中で、シャルロットはいつのまにか眠りに落ちた。
甲板で、ニースは手すりに肘をついて月を眺めていた。下を向くと、手のひらを硬く握りしめる。それをゆっくりと開くと、ニースは顔をしかめた。
「…一刻も早く、帰国しなくては…」
ニースはそのまま、星空を見上げた。室内では、窓辺に座って布を頭からかぶっていた一人の客がその様子を眺めていた。
夜が明けると、シャルロットは甲板で大きく背伸びをした。
「う〜んっ!」
海の上は雲ひとつない快晴、冷たい風と明るい日差しが気持ち良い。ワットはまだ眠っているようだったが、ニースは既に身を整えて船内のカウンターに座っていた。
「お嬢さん」
かすれて濁ったような声に、シャルロットは振り返った。客の一人だろうか、自分と変わらぬ身長に、四十前後だろうか、口髭をはやした男が人の良さそうな笑顔を向けてたっている。服のすそはボロボロだ。
「…はい?」
シャルロットが首をかしげると、男性は目で窓越しに見えるカウンターに座るニースの背を見た。
「あそこにいるお嬢さんのお連れは…、もしや火の王国のニース=ダークイン殿ですかい?」
「え?…、そうですけど…。ニース様のお知り合いですか?」
「まさか!いや、それなら実はお嬢さんに…」
「シャルロット、少し…」
男の言葉の途中で、ニースが船内から出てきた。シャルロットが他客と話していたことにたった今気がついたのか、男を見てニースの言葉も止まった。
「少しいいかな」
「は、はい。どうかしましたか?あ、あの…」
シャルロットがニースと男を交互に見ると、男はにっこりと笑った。
「いえ、お気になさらず。つい、商人根性でね」
「え?」
シャルロットが聞き返す前に、男は船内にも戻っていってしまった。
「すまない、邪魔をしたかな」
「いえ、そんなことは…」
シャルロットは男を目で追いながらニースの方を見上げた。
「ディルート様から書状を預かっているだろう?」
「はい。荷物の中に…。ファヅバックの町長さんに渡すようにって言われています」
「考えていたんだが、砂の国からファヅバックへの使者はよく出るのか?」
「え…?」
シャルロットは頭を回したが、思い当たることは何も無い。
「いえ…、あまり聞いたことはありませんが…。この前は確か一ヶ月位前にだと…。あれ、そう言えば変だな。どうしてまたこんなに早く…」
シャルロットが腕を組むと、ニースが続けた。
「そうか、いや、判らなかったらいいんだ。ただディルート様に言われたことも、気になっていてな」
「ディルート様が?」
「『また新しく使者を送ればいい』と言っていた。前任の使者の事を何か知っているかい?」
「…。いえ…」
(そういえば、宮殿内で噂も立ってない…。誰かが国外任務を終えたら必ず噂になるのに)
シャルロットが考えても、答えは出なかった。その代わり、シャルロットの腹が鳴った。シャルロットは思わず腹を押さえて赤面した。
「あ!お腹空きませんか!?」
照れ隠しに大声で言ってみた。
「私、船主さんに台所使っていいか聞いてきます。何か作れるかもしれませんし!」
シャルロットはニースを残し、逃げるように船内に戻った。
食事の後、ニースは船内にいたが、シャルロットはワットと一緒に甲板に出ていた。
「最初にあれを始めたのは17くらいの時だな。知り合いがちょっとした物を盗まれたんだ。その後ある屋敷にそれがあることがわかって取り返してやった」
「ベル街で?どうやってそんなことしたの?」
「楽勝だよ。例えば…。」
悪いこととは知っていても、ワットの話にはつい聞き入ってしまう魅力があった。それは、シャルロットの知らない世界ばかりだったからだ。思わず吹き出してしまうような話から、緊張の張り詰める話まで――。
さすがに船内では盗賊の話はできなかったので、話の続を聞きたいシャルロットはワットを甲板に引き止めて、話し込んだ。真夜中になってから甲板では寒くなった頃、ようやくシャルロットは船内に戻る事に同意した。
翌朝、目が覚めると、他の客のほとんどが甲板に出ていた。シャルロットも外を覗いてみて一面の景色に思わず声を上げた。
「わぁ!陸が見える!!」
目の前に広がるのは南の大陸だ。正面にウィルバックの港町が見え、その周囲や奥に見える大きな山々は、緑の多さが伺えた。緑の少ない砂の王国に生まれたシャルロットには、一面の緑は目ずらしい光景だ。
「ウィルバックだ。あそこの港に上陸する。二時間もしないで到着するな」
ニースが横に立った。
「仕度します」
シャルロットは部屋の中に駆け戻ると、部屋の中で一人眠りこけているワットを布の上から叩いた。
「ワット!起きて起きて!陸が見えるわよ!」
子供のようにはしゃぐシャルロットに揺らされているワットを見て、他のおじさん達が笑った。
「いいねぇ、若い娘さんに起こして貰って」
しかし、シャルロットはワットがあまりに起きないので、鼻をつまんで、口をふさぐと、しばらくの沈黙の後ワットが飛び起きた。
「ぶはっ!!…ぜーっぜーっ」
「あ、起きた起きた」
シャルロットはケロリとしていた。兄のエリオットにも、よく使う手なのだ。
「ったり前だろ殺す気か!!」
ワットは怒って陸などどうでも良い様子だったが。