第30話『決別の時』-3
「やめて!」
押し付けられたそれを力の限りで突き飛ばし、部屋の奥に逃げ込んだ。だが、その大きな体を突き飛ばした結果、体勢を崩したのは自分の方だった。部屋の中央に倒れこんだが、すぐにユチアを振り返って尻をついたまま後ずさった。足に力が入らず、立てなかった。目を見開いたまま、力ずくで口をぬぐう。それでも、痛みすらない。血の味が口の中に広がった。
「チッ……!」
振り返ったユチアが、口から血を吐き捨てた。「噛みやがったな」黒い目に、一瞬鋭い光が宿る。しかし、床にいるシャルロットを見下ろすと、それはすぐに先程までと同じ笑みに戻った。
「もちろん、簡単には殺さねぇさ」
ユチアの足が一歩、こちらに延びた。
「命乞いするようなヤツをそのまま殺したって、面白くもなんともねぇ。生意気な奴は、調教してから殺す……それが楽しいんだよ」
その笑みに、シャルロットは背筋が凍った。
「ふ……ざけないで! 何考えてんのよ!」
こんな人間には出会ったことが無い。この男は、今までシャルロットが見てきた人間の中で、まったくの異質な人間だ。――人が苦しむ事が、楽しみでしかない。それも、自分で苦しませる事が。
ユチアが、まったく動けないでいるシャルロットの目の前にかがんだ。
「ただ、お前にはもう一つ用がある。……ドンからの命令でな」
距離が縮まると、シャルロットは目の前の鋭い目から、目がそらせなかった。
「最初に会った時、お前は触っただけでオレの記憶を読み取った。……とんだ拾い物だったぜ。まさかお前みてえな小娘にあんな強い占いの力があるなんてな」
シャルロットは目を見開いたまま、言葉が出なかった。――知ってる。やはり、こいつは知っている!
「ドンはただ連れて来いって言ったけど……それじゃあつまんねぇだろ?」
ユチアの手がシャルロットの頬を触れると、シャルロットは反射的にそれを払った。
「触んないで!」
ユチアが一瞬目を開いたが、すぐににやりと笑った。
「気丈な奴だ」
血のついた唇を噛み、もう一度腕を振りかぶる。しかし、それがユチアの顔に届く前に、手首を掴まれた。そのまま、床に叩きつけられる。
「いっ……!」
同時に頭を打ち、目の前が一瞬白くなった。しかし、気絶などできる状況ではない。強い痛みの中、ユチアがシャルロットの上に乗った。
「ちょ……!」
言いかけで言葉は止まった。ユチアの指先が、まっすぐにシャルロットの首にまっすぐに当てられた。それになぞられるようにあごを上げ、シャルロットは息を呑んだ。
「それとも、今すぐ死にてぇか?」
その顔に、先程までの笑みは無かった。何も感じていないかのような黒く鋭い目。自分よりもずっと大きく、力の強い体――。体が、自分のものではないようだ。頭から手足に、信号が伝わらない。恐怖で、シャルロットはまったく動けなかった。
静寂の部屋に、かすかな音が響いた。
ユチアがわずかに、シャルロットから自分の背後に目を向ける。――ドアを、ノックする音だった。
もう一度、それが響く。シャルロットの頭に、意思が戻った。
「助けて! ここから出し……っあ!」
同時にユチアの平手が頬に入った。その勢いに負け、床に手をつく。
(熱……!)
頬は、痛みを通り越して熱かった。外から、鍵を開ける音が聞こえると、ユチアはわずかにそれに顔を向けた。
「あら」
床に伏せったシャルロットに、落ち着いた女性の声が聞こえた。
「ここにおいでだったんですね」
女性の言葉に、シャルロットは目を開いた。この部屋を見ても、女性の声は何も感じていないかのようだ。
シャルロットが顔をあげると、自分とさほど歳も変わらないであろう女性がドアを閉めるところだった。
城の使用人だ。柔らかそうな黒髪を高い位置で二つに結い、胸の下で揺れている。細い色白な手足に、化粧であろう赤い唇。しかし、そのシャルロットを見下す細めた目は、まるでガラス玉のように冷たかった。
「お邪魔でした?」
女性が、ユチアに顔を向けた。「ああ」ユチアは当然のごとく答え、シャルロットの上からどいて腕を組み、女性と向き合った。
「ドンからのご伝言です。すぐに、いらっしゃるようにと。その女も一緒に」
頬の熱に思考を奪われながらも、シャルロットの頭で何かが繋がった。――この女はユチアの仲間だ。だとしたら、こいつらがドンと呼ぶ男は、一人しかいない。
(ルジューエルが……やっぱりこの国に……?!)
口を開けたまま顔をあげているシャルロットに、ユチアが小さく息をついた。
「今か?」
「はい。今すぐに、との事です」
女性の言葉に、ユチアが片方の眉をあげた。少し間をあけてからもう一度息をつくと、シャルロットを見下ろした。
「つくづく、運のいい女だな」
シャルロットの腕を掴むと、ユチアは力で引き上げた。
「やだ! 何すんの!」
「……うるせぇな。アーリル」
ユチアはシャルロットを立たせた勢いで、シャルロットを女性の方に突き飛ばした。シャルロットの体は、女性に支えられて止まったが、同時にその手から口に何かを入れられた。
「な……!」
小さな粒だ。そう思った途端、女性に口を塞がれた。
「む……!」
本能で、何かが叫んでいた。――飲むな。飲んではいけない――。
しかし、体は思うように動かない。女性の力が、シャルロットよりも強いのだ。鼻と口を塞がれると、シャルロットはすぐに力がなくなった。――飲むな、飲むな。
そう思っている間に、シャルロットの意識は消えていった。
昨日と同じ部屋、同じ位置に、ニース達は立っていた。それでも昨日と違ったのは、部屋の警備が半分以下になっていたことだ。昼下がりの午後には、張り詰めた空気も和らいでいるのだろう。王の隣には今日もジクセルが立っていたが、少し離れた所には、上質の着物に身を包んだ若い女性達が五、六人が輪になって座り、柔らかい笑い声を立てていた。それが、インショウ付の、後宮の女性達だという事はニースも知っている。
インショウはその椅子で、ニースの地図を読んでいるところだった。
「どうしたんだ? ヨウショウの稽古の時間だろう?」
「ヨウショウ様はお疲れ気味です。部屋で休息を取っておられます」
「そうか」
軽く頷き、インショウは地図をたたんだ。
(……ヨウショウってさっきのガキか……?)
パスは先程まで一緒にいた高貴な格好の少年を思い出した。神妙なおもむきのニースに、インショウが首をかしげた。
「ところで、話とは何だ?」
インショウの言葉に、ニースがちらりとジクセルを見た。「では……私は失礼致します」話の聞こえる範囲に入るジクセルは、自ら身を引き、目を伏せた。
「いえ、ご一緒でかまいません」
「……そうですか」
ニースの言葉に、ジクセルは引いた足を戻した。ニースはインショウを見上げ、目を細めた。
「昨夜のお話、本気なのですか?」
「……何のことだ?」
片眉を上げたインショウは、すぐに何の事か思い当たらなかったようだ。
「戦のことです」
「ああ、そのことか」
なんて事のない内容だという声に、ニースは胸の中に痛みが走るのが分かった。「もちろんだ。今もジクセルと話を進めていたのだ。だがお前の方が土地を見てきているから詳しいだろう。そうだ、この線の書き方は何を示しているのだ?」もう一度インショウが顔を上げると同時に、ニースが壇に上がってインショウの手から地図を取り上げた。
「何を……」
「インショウ様!」
はっとさせるニースの怒声に、一瞬インショウが目を丸くした。
「……ニース?」
「正気ですか! 百年近く平和が続いているこの国々に反乱を起こすなど、亡くなられた前王がどう思われるか……! あれほど平和を望んでおられた方の意思を継ぐはずの貴方が!」
「何だと……?」
声はホールに響き渡り、パスとアイリーンは呆気に取られた。部屋の片隅にいた女性達の笑い声が止む。ワットは、黙ってそれを見ていた。インショウの後ろに立つジクセルも、視線を落としたままだった。
「……他の大臣方はご存知なのですか!?」
責めるような言葉に、インショウが一瞬唇を噛んだ。
「大臣達にはまだ言ってない! お前だからこそ話したのだぞ?! これを使えば、侵略などたやすい事だ!」
張り合うように、インショウが立ち上がる。それでも細身の青年であるインショウは、ニースと並べば頭半分近くの身長差は否めない。インショウを見下ろし、ニースは目を細めた。
「私は……そんな事の為に国を回ってきたわけではありません……! それに、そんな事をすればこの国は即座に五王国から孤立するでしょう。先人達が結んだ条約さえ破る事になる。そこまでお考えですか……?!」
ニースの言葉に、インショウは二の句が継げなかった。
「インショウ様がそのような行動に出れば、先代がなんと思われるか。それに本当にそんな事を貴方一人で考えたのですか? それとも……!」
ニースの鋭い視線が、インショウの後ろに立つジクセルに移った。長身のジクセルは、ニースと目線が変わらない。しかしニースとは対照的に、ジクセルは静かに目を伏せた。
「……確かに。城をあけたダークイン殿に代わり、私も相談役は勤めさせていただきました。インショウ様はお若い。年長の助言は必要でしょう」
淡々とした口調に、ニースは唇を噛んだ。
「貴様……!」
体に渦巻く感情を、抑えるわけにはいかなかった。
「戦を起こすという事が、どういうことか分かって言っているのか!」
ニースの言葉に、ジクセルは答えなかった。ただ、その黒い目を向けただけだ。「知っているだろう! 先人達が戦で何を残したか! 条約を破る事が、何を意味するのか……!」ニースの声に、ホールの警備兵達が顔を向け始めた。
「……ええ。ですが、決断されたのはインショウ様です」
「貴様それでもこの国の人間か!」
立ち上る怒りに、ニースは腰の剣に手を当てていた。思わず、ワットが一歩踏み出した。しかし、壇に登ることは留まった。
「ニース……!」
気が付いたインショウが、目を見開いた。しかし、ニースの目に映っているのはジクセルだけだ。
「抜くのか?」
その冷めた目がニースを映す。ジクセルの手が、腰の剣を握った。
「ここで抜けば、貴方は反逆者になりますよ。インショウ様の前で、その剣をふるうと言うのであれば。貴方の地位は、捨てるにはあまりに惜しいでしょう」
「ニース、いいかげんに……」
インショウの言葉が終わる前に、かすかな金属音が周囲を包んだ。――剣が、鞘をすった音。
思わず、壇の下のパスが「あっ」と、声を漏らした。その一瞬で、ニースの白銀の刃はジクセルの首を捕らえていた。しかし、それはニースに対しても同じだった。ジクセルの銀色の切っ先もニースの首につけられている。――まるで刃を交差させるように。
「……警告はしたぞ」
静寂に、ジクセルの小さな声が響いた。
お気づきだと思いますが、一応、この話は一話4編で組んでます。
でも、この「同じ天の下」に関しては、思いついたものはできるだけ詰め込む方向で進めてるんです。(それでこんなに長くなってしまってるんですが……(-_-;)
というワケで30話は5編になります。話を削るのって、難しい(T_T)