第30話『決別の時』-1
翌朝、起床と共にシャルロット達は城の使用人に食堂に案内された。
廊下に漂う、生ぬるい外の空気が肌についた。雪の王国にいた頃の寒さをすっかり忘れ、今では少し動けば汗がにじむ。青々しく澄んだ空、肌を撫でる風も、からりと乾いていた。
(もっと暑くなったら、砂の宮殿と変わらないわね)
おおよそ同じ気候を持つ砂の王国を思い、シャルロットはかすかに笑った。部屋に着物が用意されていたので、シャルロットとアイリーンは夕べのうちに旅で汚れた衣服を全て洗うことにした。淡いピンクの生地に同系色の帯。足元と袖には、見たことのないような美しい花の刺繍が入っている。着慣れない着物にてこずりながら、シャルロットはアイリーンと一緒に食堂に向かった。
広い食堂では、長いテーブルがいくつも並べられ、いすがずらりと置かれていた。しかしそこにいるのは、窓辺にぽつんとワットとエディ、パスが座っているだけだ。同じく濃紺の着物を纏ったワット達は、先に食事をとっていた。
「ワットも起きたんだ」
「俺だっていつも起きれねぇわけじゃねぇよ」
まるで「起きれたんだ」と言う含みのシャルロットの言葉に、ワットは呆れた目を向けた。シャルロットとアイリーンが同じ席に着くと、使用人の女性が盆にのせた食事を運んできてくれた。
この一階の食堂からは、大きく開いた窓枠から城の中庭が見えた。この大きな城にはいくつ庭があるだろうか。丹精に手入れされた芝生と植木は、極端に緑の少ないこの国では貴重なものだろう。
用意された食事に手をつけ始めると、シャルロットは隣で黙って食事を口に運び続ける正面に座るワットに目を向けた。
「あのさ……」
わずかに、尋ねづらい。語尾を濁らす声に、ワットが目線を上げた。「昨夜……ニース様とモメてたでしょ? どうしたの?」 シャルロットの言葉に、ワットは手に持っていたスプーンを置いて目をそらした。
「……あのガキ……インショウとかいう国王が言ってただろ。ニースの調べた世界地図や情報は、これから戦を起こすために必要な物だって。あいつは……それを知ってたのかって思ってさ」
「ニース様が……そう言ったの?」
シャルロットは眉をひそめたが、ワットは視線を向けなかった。
「あいつは、答えなかった」
元々静かな食堂が、さらに静まり返った。ニースのような人間が、戦に同意するとは思えない。だが――。
「あ、ニースだ」
早々に食事を終えていたパスが、窓枠に乗り出して中庭を指差した。見ると、ニースが中庭の芝生の上を一人で歩いている。いつものようにこの国の警備隊の服を身につけ、腰には剣。ニースは木陰の下で立ち止まると、静かに頭上を見上げていた。パスが口元に両手をかざし、口を開けた。
「おーい、ニー……」
「ニース!」
パスの声は、ほぼ同時に飛んできた高い声にかき消された。高い方の声の主に、ニースが振り返る。パスと一緒に窓枠から身を乗り出したアイリーンがその方向に手をかざすと、自分達よりも小柄な少年が庭の向こうから走ってくるのが見えた。
「おかえり!」
あっという間に、少年はニースの足に飛びついた。すぐに、その太陽のような笑顔を上げる。ニースの腰の高さにも達していない体は、おそらく十歳にも満たない年齢だろう。テーブルに座るシャルロット達からも、その姿はよく見えた。
「ヨウショウ様!」
ニースが、体をかがめて少年を支えた。伸ばした細い黒髪を後ろで一つに結い、同じ色の細い黒目と細い手足。その体に似合わない上質の淡い緑の着物と、同系色の帯は、少年の体には多少大きい。少年がニースの足から離れると、ニースは軽く片膝をついて片手を胸に当て、頭を下げた。
「……お久しぶりです、ヨウショウ様」
顔を上げ、両膝をつけたままヨウショウの肩を撫でる。「しばらく見ない間に、また大きくなられた」その優しい笑みに、ヨウショウはさらにその顔を輝かせた。
「強くだってなったんだぞ! ニースがいない間に、ずっと稽古は続けてた!」
「そうですか。次の稽古が楽しみです」
「新しい稽古始めてよ! 約束だっただろ!? ……ん?」
ニースの腕を引くヨウショウの目に、そのずっと後ろに見える窓枠から、子供が二人、こちらを眺めているのが見えた。
「あれは誰だ? 知らない顔だ」
ヨウショウの声にニースが振り返ると、窓枠から身を乗り出してこちらを眺めているパスとアイリーンが目に入った。そして、その奥でテーブルについてるワット達も。
城内には顔の知らぬ者も多いが、異国の容姿を持つ彼らを見て、不思議に思ったのだろう。
「道中……一緒に旅をしていた者達です。あの二人はヨウショウ様より……そうですね、三つほど年上ですよ。少年の方は中々いい腕です」
「そうか!」
ヨウショウは嬉しそうにあごに手を当てた。ニース達がこちらを見ているのが見えて、アイリーンは大きく手を振った。
「あいつと手合わせしたい! いいか?」
ヨウショウがニースを見上げた。窓枠にあごをのせ、何も考えずにこちらを眺めるパスを目に入れる。
「……聞いてみますか?」
「うん。そうだニース、わたしの事は言うなよ」
「え? は、はい……」
ニースが答え終わらないうちに、ヨウショウはパス達の方に、走っていった。
テーブルについていたシャルロット達は、パスとアイリーンが窓枠越しに少年と話しているのが見えた。
「あれ。パス達、あの子と喋ってる」
いつの間に。ワットに顔を向けると、「遊びたいんだろ」と、ワットは興味もないように席を立った。
「もう食べないの?」
「部屋にいる」
ワットはそのまま、食堂を出て行った。
「もう……」
「シャルロット、こいつと外に行ってていいか?」
パスが窓枠の外の少年を指差して言った。一応了解を得ようと思ったのか、それでもパスの顔は既に外に行く事を決めている。
「別にいいけど……すぐ戻ってきてよ」
シャルロットが言うと、パスは窓枠に足をかけ、中庭に出ていった。「あたしも!」続いて、アイリーンも転がるようにそこから庭に出て行った。気がつけば、食堂の席は自分とエディだけだ。
「シャルロットは、砂の国に戻ったらまた使用人をするんだろう?」
「もちろん。……でも……」
シャルロットは中庭に視線を向けた。木陰まで走っていったパス達が、ニースと一緒に何かを話している。ニースは子供達を相手に、笑顔を向けていた。
エディと一緒に部屋に戻る途中、食堂の上階のベランダのベンチに、ワットが寝転んでいるのが見えた。
「先行ってて」
エディに伝え、シャルロットは一人ベランダに足を向けた。ワットは中庭を眺めながら、だらりと寝転んでいる。
「……何してんの?」
シャルロットの声に、ワットはわずかに視線を向けたが、再び中庭を向いた。その視線の先には、未だ中庭で遊んでいるパス達の姿があった。食堂の真上にあたるここからはその姿がよく見える。シャルロットは、ベランダの手すりに手をかけた。
「おいパス! ちょっとは手加減しろよ!」
木陰に足を広げて座ったまま、アイリーンが声を飛ばしている。
「いて!」
木刀を持ったヨウショウが、顔を歪めて尻餅をついた。パスも木刀を手にしていたが、その持ち方はヌンチャクと同じ、木刀の構えではない。パスはその中心を持ち、片手でクルクルとまわした。
「だらしねぇなあ、それでもニースに稽古つけてもらってたのかよ」
ヨウショウを見下ろし、パスが高々と笑った。楽しげな会話は、二階までよく届く。シャルロットはアイリーンの横に腰を下ろしているニースに目を移した。木陰では、笑顔でもその表情は暗く見える。
「……ニース様、笑ってるけどやっぱり変よ。ホントは、インショウ様の言ったこと、気にしてるんだわ。……戦なんて……、私だって信じられない」
「……俺だって、ニースの奴が戦の手助けをするような奴だとは思ってねえ」
ワットがベンチからゆっくりと体を起こし、座りなおした。
「だいたい、世界視察はそういうのが目的じゃねえ筈だ。それに……あの王は若い」
「若いと……何?」
「あんなガキが、一人でそんな事を考えるワケねえだろ」
ワットの言葉に、シャルロットは昨夜、インショウが兵士と話をしていた事を思い出した。あんな風に、少しずつ周囲からの助言を受け、若い王は道を誤ろうとしているのか。気がつくと、ワットは何かを考えるように眉間に皺を寄せていた。
シャルロットはベンチに座ったワットの正面に身をかがめた。その手を取ると、ワットが顔をあげた。小さく、息が漏れた。ワットがニースと言い争ったわけが、シャルロットには分かった。
「……ニース様の事……心配だから、あんなに怒ったんだね」
シャルロットの言葉に、ワットはバツが悪そうに顔をそむけた。
一緒に長い旅路を歩んできたニースがそんな人間では無い事を、ワットも分かっているのだ。だからこそ、それを抑えきれなかった。ニースの、国に対する忠誠心は知っている。だからこそ、耐え難い任務を受けたとしたら、彼がどんなに苦悩するかを知っているのだ。シャルロットはワットの手を、優しく握った。
「どうやら、パスの方が上手の様だな」
ニースが笑って呟いた。パスが尻をさすっているヨウショウと一緒にニース達のいる木陰まで戻ってきた。
「オレの全勝だな!」
得意げにするパスを、ニースが笑った。アイリーンが尻の痛みに顔を歪めるヨウショウを見てタオルを投げた。
「おい、汚れてんぞ」
笑った声で投げつけられたそれを受け取り、ヨウショウはアイリーンをまじまじと見た。
「男みたいなしゃべり方をするのだな」
「そうか?」
「こいつはこうなんだよ。うるせー奴だ」
「なんだと!」
アイリーンは座ったまま隣に立つパスのスネを蹴飛ばした。
「いって! ふざけんなこのヤロー!」
パスがアイリーンの頭を勢いよく掴むと、「げ! てめーこそふざけんな!」アイリーンはそのままパスの足をもう一度蹴り飛ばした。
「よさないか」
エスカレートするそれに、ニースが間に入って二人を放した。二人の喧嘩には、慣れたものだ。パスとアイリーンは息を荒げたが、互いにニースには大きな借りがある。そのおかげで、ニースの言葉にはいつも従順だ。互いを睨みながら落ち着きを取り戻すのを見て、ヨウショウは細い目を目を大きくして笑った。
「きれいな顔だ」
ヨウショウがアイリーンの目の前に座った。「あ?」と、アイリーンがその大きな目を瞬いた。
「ずっとここにいないのか? 明日も見たい」
「はあ?」
パスが素っ頓狂な声をあげた。ニースも口が開けたが、アイリーンは目の前の無邪気な笑顔と同じように笑った。
「まだたぶんいるんじゃねぇかな。したら遊べるぜ」
「そうか」
ヨウショウは、一瞬きょとんとした顔をみせたが、また無邪気に笑った。「パス、もう一勝負してくれ」インショウが振り返ると、パスは「あ? ああ」と、はっと現実に戻された顔を見せた。
「あたしも混ぜろ!」
高い声ではしゃぐヨウショウ達に、ニースはヨウショウ達の年齢を思い出し、小さく息をついた。