第29話『地図の行方』-4
部屋は広く、大きなフロアといっても過言ではない。天井も高く、城の三階分は筒抜けになっているかもしれない。部屋を囲うようにして、壁際には一定の間隔で兵士達が直立したまま微動だにせず警護についている。昼間なら左右の大きな窓枠から光が差し込むのだろうが、すっかり日の落ちた今、部屋は壁際に点在する明かりにほのかに照らされていた。
入り口からまっすぐに伸びる赤い絨毯の先、部屋の対極に位置する壇上、立派な装飾のついた椅子に、まだ若い青年が座っているのが見えた。
「ああ、来たな」
赤い絨毯の上を進むこちらを見て、今まで隣に立つ兵士と話していた青年が柔らかい笑顔を向けた。遠目でも上質と分かる、絹のような深い青の着物を白い帯で留めている。長い黒髪は、後ろで一本に結われ、髪と同じ色の細い目に、唇も薄い。同い年だと聞いていたが、自分よりもずっと大人に見えた。
シャルロット達が壇上の足元まで来ると、青年――国王の隣に立っていた兵士は一歩下がり、後ろ手を組んで目を伏せる程度の会釈をした。短い黒髪の、ニースと歳も変わらぬ兵士だろう。制服の胸元には、それ相応の身分と思わせる勲章がいくつかあった。
壇だけは、城の床とは違う、大理石のように輝く石でできていた。ニースは床に片膝をつき、胸の前で両のこぶしを重ねて頭を下げた。
「……ただいま戻りました。インショウ様」
「よく戻ったな」
インショウと呼ばれた国王が、椅子から身を乗り出すように少年のような明るい笑顔をニースに向けた。こうして口を開くと、確かにまだ若さが伺える。
「そのもの達は?」
インショウの視線に、ニースの後ろについていたシャルロットとエディは慌てて頭を下げた。ワットも遅れながら会釈をしたが、アイリーンとパスは口を半開きにしたまま立っているだけだった。
「道中、付き人をしていてくれた者達です」
ニースが片膝をついたまま、顔をあげた。
「子供もいるようだが」
ニースが、わずかにパスとアイリーンに顔を向けた。
「私を慕ってくれたようで。旅に同行しておりました」
ニースの言葉に、インショウは「ふむ」と言って話を流した。意味は分からなくても、あまり興味は無いようだ。
「まぁ立て。視察の方はどうだったんだ?」
「はい、無事周り終える事ができました」
立ち上がり、ニースが持ち込んだ荷の一つから紙の巻物を取り出し、階段を登ってインショウに地図を手渡した。それを広げると、シャルロットからは、インショウの目に光が宿ったように見えた。
「よくやったぞ! これを待っていたんだ。これで話が進められる……な、ジクセル」
インショウが、今まで話していたらしい奥に立つ兵士に顔を向けた。兵士は小さく「ええ」と頷いた。ニースが目を向けると、兵士は目を伏せて会釈をした。
「ああ、ニースはジクセルは初めてだったな」
「はい」
インショウが、椅子から兵士を振り返った。
「ジクセルだ。城内の警備隊長を務めている」
「警備隊長……?」
インショウの言葉に、ニースは眉をひそめた。「エベラ殿はいかがされたのです」強い疑問を含んだ言葉で、インショウに顔を向けた。
「ニース殿がいらっしゃらない間に、城では色々ありました。前任のエベラ殿は……お亡くなりに」
「亡くなった……!? なぜ……!」
ジクセルの言葉に、ニースは目を見開いた。壇の下にいたシャルロット達には話しが通じていなかったが、ニースの動揺は伺えた。インショウの顔がわずかに曇った。
「……賊だ。私の命を狙い……。お前が出て行ってすぐの事だ。討ち取ろうとしたエベラがその手に堕ちた」
「まさか……」
信じ難い話を聞くように、ニースが口を開いた。
「私も信じられなかったが……残念だ。エベラはそなたに近しいほどの腕の持ち主だったのにな……」
深く息をつき、インショウが気を取り直すようにニースを見上げた。
「だがニース、お前はよく使命を果たしてくれた。これでやっと、国の拡大への道が開ける」
「……拡大?」
インショウの言葉で、ニースは我に返った。
「ああ、細かい事情が分らないと、他国には踏み込めないからな」
「踏み込む……? 戦争を仕掛けるおつもりなのですか……!?」
ニースが声を荒げた。そんな言葉を耳にも入れていないのか、インショウは地図を見下ろして笑った。
「最初は土……、その次は南の大陸だな。統率のない国を落とすのは簡単だ。砂と風は……最後まで敵に回さない方がいいな。詳しい情報は、お前の資料を役立たせてもらうよ」
自分に向けられた笑顔は、先ほどまでとまったく変わっていなかった。
「……戦争?」
思わずこぼしたシャルロットの言葉に、インショウが顔を向けた。インショウの黒い目線に、シャルロットは目をそらした。
「あの娘は……砂の人間か?」
インショウがわずかに目を細めた。その言葉に、ニースは今頃シャルロット達がまだそこにいた事を思い出した。「はい」と、声を絞り出す。
「砂の国王、ディルート殿のご好意で……今まで身の回りの世話をしてもらっておりました」
ニースの言葉に、改めてインショウがシャルロットから順に、ワットやエディ、パス、アイリーンを目に入れた。その目が何を考えているのかはわからなかった。しかし、今の話は異国の血を持つ自分達には聞き流せない。しかし、インショウはそのまま視線をニースに戻した。
「疲れたであろう? 彼らにも部屋を用意させた」
インショウの笑顔に、ニースは一瞬口を開いた。しかし、言葉が出る前にインショウが「休むといい」と会話を終わらせた。ニースはそのまま、言葉を思いとどまった。
「……失礼します」
ニースが階段を下りてシャルロット達を通り過ぎると、シャルロット達はそれに続いた。赤い絨毯の上を進むニースに続く途中、シャルロットは一度だけインショウを振り返った。インショウはニースの地図を広げ、ジクセルと親しげに何か話をしていた。
玉座の間を出でた後、ニースは一言も口を利かなかった。気にかかったものの、城の若い使用人女性に部屋まで案内されている間に、いつの間にかニースの姿はなくなっていた。
「男性はこちらの部屋を、女性は隣のお部屋をご利用下さい。何かありましたら誰にでもお申しつけて下さいな」
「あの……ニース様は?」
「自室に戻られたのではないでしょうか?」
女性は首をかしげ、そのまま廊下を去っていった。「おーし、休もうぜ」パスが腕を伸ばし、部屋のドアを開けた。
「あたし達はあっちか」
アイリーンに、腕を引かれた。シャルロットはパスと一緒に部屋に入るワットを振り返った。
「ワット、あとでそっち行く」
返事は無かったが、アイリーンに手を引かれ、シャルロットは部屋に入った。ワットはわずかに目を向けただけだった。パスの次に部屋に入ると、ドアの脇の床に自分の荷物を落とすように置いた。さすがに城の客室というだけあって、内装は豪華なものだった。しかし、そんなものは今のワットにとってはどうでもいいことだった。
「ちょっと出てくる。先に休んでろ」
ベッドに寝ころんだパスを尻目に、ワットが言った。遅れて部屋に入ってきたエディが、部屋のドアを閉めたところだった。
「シャルロットの所ですか?」
「ニースんとこだ」
すれ違うように、ワットが再びドアを開けた。「さっきの話……」エディには、その理由に察しがついた。
「……僕も行ってもいいですか?」
エディの言葉に、ワットはエディを見下ろした。
「好きにしろ」
ワットはそのまま、部屋を出て行った。エディがそれに続くと、「じゃあオレも!」と、パスもベッドから足を振って起き上がった。
「ニース、いるだろ?」
部屋をノックし、ワットは返事を待たずにドアを開けた。ニースは一人、床に座って剣を布に包んでいたが、突然の来訪者に目を大きくして顔を上げた。
「どうした? 部屋に行ったのでは……」
言いかけで、ワットの目に言葉がとまる。後ろから、パスとエディがいって部屋のドアを閉めた。ニースの部屋は広く、左右の壁には天上に届くほどの本棚がずらりと敷き詰められ、無造作に書物が並んでいる。ベッドと家具も置かれているが、絨毯も含め、全て城の者が揃えたものだろう。閑散とした、自己主張のない部屋だ。
ニースの前で、ワットが腕を組んだ。
「……説明してもらおうか」
見下ろされた目に、ニースが床から視線を上げる。ワットの目には、柔らかさなど一部も含まれていなかった。
「お前の世界視察は、あのガキが言ってた戦への手助けだったってのか?」
冷めた声に、ニースはしばらくワットを見上げたあと顔を歪め、目を逸らした。ワットにとって、それは答えだった。
「冗っ談じゃねぇぜ!」
奥歯を噛みしめ、ワットが舌を打った。しかし、ニースは床に目を落としたままだった。手に持った剣を床に置き、目を細める。
「……まさかこんな事になっているとは……。あのエルベ殿が……賊なんかに討ち取られるなど……」
「俺が言ってんのはそんな事じゃねえ!」
組んだ腕を払い、ワットが怒鳴った。びりびりと伝わった声に、エディとパスは、ドアの傍からそれ以上部屋の中に入ることはできなかった。
「今までの旅が戦の手助けになるのかって聞いてんだ! もしそうなら! 俺はお前の地図を取り返させてもらうぜ!」
「インショウ様はそのような事を考える方ではない!」
ワットの言葉が終わる前に、ニースが立ち上がった。二人の目線の高さは変わらない。しかしその怒声は、ワットの怒りに火をつけた。
「現にそう言ってただろ! あいつは頭がおかしいぜ! お前はこの国の騎士団隊長だろ!? 戦が始まれば第一線じゃねぇか! お前は! そんな事に手を貸したりしねぇだろうな!?」
一瞬、ニースが言葉を詰まらせた。怒鳴り声が消え、部屋に静寂が走る。唇を噛み、ニースはワットの鋭い視線から一瞬たりとも目をそらさなかった。
「クニミラ家には先代から仕えている……! 俺は……インショウ様を信じたい!」
「信じるだと……!?」
ワットが目を細めるのと同時部屋のドアに軽いノックが響いた。しかし、ニースとワット、当然、パスもエディもそれに反応する余裕はなかった。静かに、ノブが回った。
「ニース様……?」
シャルロットはそっと顔を出した。わずかな隙間から見えた部屋で、全員が立ったまま背を向けていた。ドアの目の前にいたエディとパスが声にようやく振り返った。その困惑を含んだ表情と、張り詰めた空気に、シャルロットは口をつぐんだ。
向き合って立つワットとニースがその空気を作っている事に、すぐに気がついた。
「……どうしたの?」
エディに言うと、その声に気がついたワットがニースから顔をそらした。腰に手を当て、大きく息をつく。ニースもワットから背を向け、ベッドに腰掛ける。そのままうつむき、片手を顔に当てた。
「……疲れたんだ。一人に……してくれないか」
ニースのこんな弱々しい声を、シャルロットは初めて聞いた。口を開いたが、ニースに声をかける前に、ワットが黙ってシャルロットの横を通り過ぎ、部屋から出て行った。ニースベッドに腰掛けたまま動かず、顔も上げない。振り返ると、エディとパスと目が合った。二人とも、目は同じ事を語っていた。――かけられる言葉は何も無い。
自分達にできる事は、ニースの言うとおりにするくらいだ。仕方なく、シャルロット達は黙って部屋をあとにした。
廊下に出ても、既にワットの姿はなかった。「ニースさんに話があったんじゃないの……?」エディが、シャルロットを振り返った。パスは、何の気なしに両手を頭の後ろに回している。
「……皆が部屋にいなかったからこっちかなって思って……。それにニース様の仕事が終わったなら、これからの事をお話ししなきゃいけないでしょ……? でも、それどころじゃないみたい……」
シャルロットはニースの部屋を振り返った。
そう、旅はこれで終いだ。――自分の役目も、これで終わり。砂の王国に、帰らなければならない。兄や友人達に会える事は、もちろん嬉しい。――しかし。
「……ニース様……」
嬉しさよりも、今は不安が胸を渦巻いていた。
――インショウの言葉。部屋から出る時に見たワットの横顔、そして、ニースの細い声。
後ろ髪を引かれる思いで、シャルロットは部屋へ戻った。