第29話『地図の行方』-2
丘を下り、また道を進むと、次第に高台に入り始めた。視界が高くなり、いつのまにか生い茂る木々の上に出ると、はるか遠くに赤茶色の壁のようにそびえ立つ岩肌が見えるようになった。そこを境に、その先は見えない。
「国境だな」
背中で、ワットが呟いた。「あの先が火の王国か」その言葉に、ニースが振り返る。
「あと二日も歩けば着くだろう」
パスとアイリーンは、さすがにもう喧嘩はしていなかったが、そのかわりにたびたび目がうつろとし、交互に頭が揺れていた。
馬が二頭となると移動速度は格段に落ちた。ニースとエディがいくら早足で歩いても、全員で馬に乗っていた時とは速度はまったく違う。
「……ルジューエル賊団か」
ふいに、ワットが息をついた。
「最近何も無かったのに……。だいたい、あいつら火の王国にいるんじゃなかったのか?」
――確かに。ケイの情報では、そうだったはずだ。だからメレイは――。
「なあ」
メレイの事を思い出していたシャルロットの思考は、ワットの問いに遮られた。
「な、何?」
慌てて振り返っても、背後で抱えられるように座っているので、ワットの顔はよく見えない。
「……ゴール砂漠で、あの野郎と何があった?」
「……え」
一瞬、シャルロットは胸の奥が詰まった。――ゴール砂漠。あそこで、ユチアに誘拐された。
「あん時お前をさらったのはニースを呼ぶためだったんだろ? ……あん時はそれどころじゃなかったけど……あいつと何話したんだ?」
(……あの時は……)
シャルロットは、正面に顔を戻した。――あの狭い部屋。ユチアが自分を囮にしてニースを呼ぶと言っていた。
無謀にも、自分はユチアに抵抗した。結果殴られ、ユチアにいいように扱われただけだ。――その後ユチアが何をしようとしたか。シャルロットは寒気に襲われ両腕で身を抱きしめた。
「シャルロット?」
声をかけられても、返事はできなかった。だが、余計な心配はかけたくない。「あの時……は……」シャルロットは喉の奥から声を絞り出した。
「あいつが、ニース様について知ってる事を言えって……。私は囮だからって言って……。それで……」
「……それで?」
前を歩くニースとエディの視線に、シャルロットは口をつぐんだ。「何だ?」ワットが、眉をひそめた。
「……あの女の子が現れて、あの男はどこかに行ったわ。そのあとワット達が助けてきてくれたの」
振り返れなかった。身を抱きしめる手に、自然と力が入った。「すまない、……俺のせいで」ニースが、再び前を向いた。
「そんな……」
シャルロットは口を開いたが、言葉は続かなかった。あの時のことで、ニースを責める気などない。
「だが……、またシャルロットが狙われた理由が分からないな。同じ理由ならシャルロットより体の小さいアイリーン達を狙うだろうに……」
確かに、それはその通りだ。
『茶髪の女……お前か』
シャルロットの脳裏に、彼らの言葉が蘇った。――あいつらは、自分の事を知っていた。
ただ、ユチアがアイリーンやパスの存在を知らなかっただけかもしれない。だがユチアの顔を思い出すと、シャルロットには不思議な確信があった。
(狙われてたんだ……私。何で分からないけど……ニース様と一緒に狙われてた)
頭の芯が、ぐらりと揺れた。怖かった。あんな男に自分の事を考えられていたと思うと、それだけで体が震える思いだ。すると、突然、体を温かさが包み、シャルロットは我に返った。
「安心しな、あんな奴らに渡しはしねえよ」
ワットの温もりに、張りつめたものがわずかに緩み、落ち着いた。
「……うん」
馬に揺られながら、シャルロットはその手をしっかりと掴んだ。
森林に入って三日後の夜、国境である赤茶色の岩肌がだいぶ近づいたところで、シャルロット達は足を止めた。
一日中歩けば足も張る。地面に寝ころび、火を起こすとワットとニースが交代で番をした。
パス達が眠っても、シャルロットは眠れなかった。寝ころんだまま、揺らぐ火を眺めていた。隣で、ニースは岩に背を寄りかからせたまま目を閉じている。休んでいるとはいえ、きっとまだ起きているだろう。ワットは一人、火の番をしながら足の包帯を結びなおしていた。
「……エディにやってもらったら?」
包帯も、綺麗なものではない。「私がやろうか?」寝ころんだまま、シャルロットは手を伸ばした。手当てをしているのを見て初めて気がついたが、ワットの足には大きな切り傷が入っていた。よく、これで歩くなど言ったものだ。
「もう寝ろ。明日も歩く」
その言葉に、自然と手が降りる。ワットは黙々と包帯を巻きつけ、力で固定した。
「……考えちゃって……眠れないの」
「……何を?」
ワットの視線が向くと、シャルロットは目を伏せた。それでも、揺らぐ炎の明るさは消えなかった。
「……あの人達の事とか……メレイの事とか……、いろいろ」
「メレイ……か」
ワットは揺れる炎を目に映した。
「どこにいるんだろうな……今頃。あいつらと……関わってんかな……」
「……私ね」
目を開くと、ワットが顔を向けた。
「ゴール砂漠で、あの男が私に触った時……見えたの」
「何が?」
ユチアが自分に触れた時。――そうだ。あの時の事は、怖くてずっと考えないようにしていた。だが、今なら思い出せる。
「……そこじゃない景色。すごく怖かったの……。女の人と、あいつが何かいいか言い合ってて……、あいつが女の人に近寄ると……女の人が叫んだの。……やめてって。やめて、サンって……」
「サン?」
「あの時は何の事だか分らなかったけど……。今思うと、あいつの名前だわ。サンガーナって言うんでしょ?」
「ああ……確か」
手配書の名前を、頭の隅から引き寄せた。ユチア=サンガーナ。あいつの名前だ。ワットは記憶を呼び起こすよりも、シャルロットがそれを覚えていた事の方が意外に思えた。
シャルロットは手を強く握りしめた。
「あれはきっと、あいつの『いつか』なんだ……。あいつは、今まで数え切れないほどそういう事をしてきたんだわ。人を平気で傷つけてきて……。……許せない……!」
「……それだ」
割って入ったニースの声に、シャルロットとワットは振り返った。「……起きてたのか」ワットが、こぼした。
「名前を……」
それをまるで聞いていないかのように、ニースが続けた。
「サンガーナの前でそれを言ったか?」
ニースのまっすぐな目に、シャルロットは思わず体を起こした。しかし、記憶をめぐっても、そこまでは覚えていなかった。言ったかもしれないし、言っていないような気もする。
「……わかりません」
「名前なんて、俺だって知ってる」
にわかに笑いを含んだワットの言葉に、ニースが続けた。
「ゴール砂漠にいた時、ルジューエル賊団の事を意識していたか? サンガーナが俺達を狙っていた事など知る由もなかった。だが、シャルロットがサンガーナの名を呼んだ。……当然、向こうは疑問に思っただろう。だが、それなりの知識があればすぐに分かる事だ」
「……何が」
話が繋がらず、ワットが眉をひそめた。
「奴はシャルロットの事に気がついたんだ。……占いの血を持っている事に」
ニースの視線が自分に移ると、シャルロットは心臓が音を立てた。「憶測にすぎないが」ニースが、目を細めた。
「……俺とは別に、奴はシャルロットが欲しくて狙ったのかもしれない」
「まさか」
信じ難い言葉に、ワットが笑いを漏らした。「占い師なんてそう珍しいもんじゃない」王宮には、何人だっている。ワットでも、それくらいは知っていた。しかし、ニースはひとかけらも笑っていなかった。
「程度による。だが俺は……シャルロットのような占い師はそうはいないと思ってる」
ニースの言葉に、ワットの顔から笑みが消えた。シャルロットは、ニースを見つめたまま目がそらせなかった。――喉が詰まる。
「……私……が?」
わずかに、体が震えるのを感じた。
自分が占い師の力を持っているという事は、理解している。それは、認めざる得ない。だが――。
「確かにそういうのを見る事はありましたけど……最近はほとんどありません。ずっと続くかもわからないし……。それに、私にはお兄ちゃんがいますから……」
その意味は、ニースとワットにも理解できた。シャルロットの兄、エリオットが占いの力を持っていることは、知っている。それが、宮殿の大臣に呼ばれたこともあるほどのものだという事も、強い力が出るのは、一代に一人だけだと言うことも。
同意を求めるように、シャルロットはワットに顔を向けたが、ワットは手を握ってくれるだけだった。「シャルロット」ニースの言葉に、シャルロットは振り返った。
「君は砂の宮殿にいた頃とは比較にならないほど力が出てきているはずだ。……分かっているだろう? 今はきっと、あの兄君よりも力があると」
「でも……!」
口を開いても、言葉は続かなかった。――分かっていた。でも、分かりたくなかった。
エリオットが自分と同じ経験をしていたら、それを話さない筈がないのだ。それはつまり、エリオットが経験した事のない事が、自分の中で起こっているということだ。自分がエリオットを超えてしまっていると。
事実、エリオットはその事をひどく心配していた時期があった。シャルロットにそういう経験は無いかと、自分の経験を詳しく話し、しつこく尋ねてきたことが。その頃のシャルロットは、ただそれを笑うだけだった。
「君の血筋は、きっと高い力を持っていたんだろう。だから、兄君にもその片鱗があった。一代に一人、力があったのは……シャルロットの方だったんだ」
周囲の静けさが、遠いものに感じた。薪の中で、木がパチパチと音を立てても、それすらも遠く感じる。
視線を落とすと、指先が震えていた。それすらも、気がつけなかった。自分の体が、自分のものとは思えなかった。いつのまに、自分の体はこんなにも変わっていたんだろう。この体を狙っている者がいる――?
ふいに、ワットの腕に背後から抱きしめられた。
出ない言葉で、ワットを振り返る。
「言ったろ?」
「……え?」
「お前はお前だ。……俺があんな奴らに渡したりしねぇから」
ワットの言葉に、ほっと体の力が抜けた。その胸に身をゆだねると、本当にずっと一緒にいられそうな気がした。
「もう寝ろ。疲れたろ」
ワットの手が離れると、シャルロットは再び横になった。ニースが、腰を上げた。
「番をかわろう、一緒に眠るといい」
「ああ、悪いな」
ニースと番を交代し、ワットも眠りについた。
翌朝、目が覚めると隣にワットはいなかった。夜のうちに、またニースと火番の交代をしたらしい。周囲の朝霧が晴れると、シャルロット達は再び支度を整えて再び出発した。エディとニースは、今日も馬には乗らず、歩いていた。
国境も近づくと、山賊に遭遇する事は無くなった。周囲は未だ延々と生い茂る森の中だったが、正午を越える頃からじょじょに緑が少なくなり、赤茶色の大地が目立つようになった。
緑を完全に失い、枯れ木がわずかに点在する荒れた土地に入ってくると、左右は大きな赤茶色の岩壁にはばまれ、大きな道に入った。地図で見ればその両側は海と思われるが、岩壁によりそれはまったく見えない。岩壁は、宮殿の高さと思わせるほどに高かった。
「すごい岩山だな」
馬に乗ったまま、アイリーンが空を仰いだ。左右の高い岸壁に阻まれ、雲ひとつない青い空も、長細い。
「崩れたりしねぇのかな」
あごをあげたままのアイリーンを振り返り、「そういう事言うなよ」と、パスは口を引きつらせた。
「ここはガン・ジミリーと呼ばれる道だ。土と火の国を分かつ最後の道で……古くから残る遺跡。戦争前からこの形だ。崩れたりしないよ」
隣を歩くニースが小さく笑った。前方のニースの声に、シャルロットは馬に揺られながら昨夜ニースの言葉を思い出した。
『シャルロットのような占い師はそうはいないと思ってる』
(……でも)
最近は、ワット達と一緒にいても彼らの心を見る事はまったく無かった。そんな自分に、未だにそんな力が残っているなど、信じ難い。――ひょっとしたら、消えてしまったのではないかという期待もある。
「どうしたの?」
隣を歩くエディの声に、シャルロットは我に返った。エディが、心配そうに顔を見上げていた。「な、何でもない」慌てて、笑顔をとりつくろった。
(エディの方が……ずっと人を見る目があるのに)
自分と違って気配りのできるエディは、自分よりはるかに人の心が理解できるのだろう。シャルロットの言葉に、エディは「そう」と言って再び前を向いた。
ガン・ジミリーの遺跡は歩くたびに道がうねり、たった今歩いた場所でもすぐに赤茶色の岩壁に阻まれ、見えなくなる。見通しの悪い道をしばらく進むと、突然、道を完全に塞ぐ鋼鉄の門が目の前に現れた。
左右の岩壁の頂上を結び、隙間なくそびえ立つそれはあの森林の丘から見えた門に間違いないだろう。茶色く見えたのは、昔は銀色だったと思われる鉄の門が錆び、今は全体が赤茶色に変色しているからだ。
「う、わー……、でっけー……!」
パスは馬から身を乗り出し、アイリーンも額に手をかざして腰を浮かせた。
「まるで要塞だな。あれが国境かだよな、ニース」
同じようにあごをあげるワットに、ニースがはっとしたように振り返った。
「……ああ、あれを越えれば火の国に入る」
考え事をしていたのか、現実に引き戻されたような顔をしていた。門までは、まだ少しある。足を進めながら、ワットが言った。
「火の王国の王も、確か若いんだよな。確かシャルロットと同じ……」
「今年で十九歳になられる」
ニースが答えると、「なあ」と、アイリーンが思い出したように口を挟んだ。
「ニースはずっと火の王国に住んでたのか?」
アイリーンの言葉に、シャルロットは自然と耳が傾いた。ニースは普段、自分の話はまったくしない。ニースが、馬上のアイリーンを見上げた。
「ああ、記憶にあるうちは両親と暮らしてた」
「じゃあニース様のご家族も、火の王国にいらっしゃるんですね」
「いや、両親はもう亡くなったんだ」
「……あ」
余計な口出しをしてしまった。シャルロットは視線を下げたが、ニースは思い出すように小さく笑った。
「いい人達だったよ。俺は養子だったけど、とても良くしてくれた」
その言葉に、シャルロットは顔を上げた。――ニースが、自分と同じ孤児だったなんて。
「王族付の護衛隊に入ったのも、父が騎士団の剣士だったからだ。幼い頃……父の役に立ちたくて、必死で剣の修行をした。でも、俺が入団する頃には父は肺を患ってそのまま……。母もそれを追うように亡くなってしまった」
紡ぐ言葉は、遠い過去の記憶を語る詩のように聞こえた。ニースのそれは、既にその悲しみを記憶として留めているのだろう。アイリーンが「ふぅん」と、首をかしげた。
「あたしも今から修行すれば、ニースくらいになる頃には強くなるかな」
話題を変えるようなアイリーンの言葉に、返事をする者は誰もいなかった。