第26話『過去と呪縛』-4
昼になるよりもずっと前に、シャルロットは宿に戻った。ワットはもとより、ニースも既に戻っていたようだ。ただ、メレイはやはり戻っておらず、シャルロット達は出発の支度を整えてから宿の一階のソファでメレイを待つ事にした。
宿の店主に入れてもらったお茶を飲みながら、シャルロットはソファに沈むように座るワットの隣についた。
「ねえ、ワットってワット=トリガーっていうんだよね?」
「ぶっ!」
途端に、ワットが口に含んでいたお茶を半分以上吹き出した。幸い、それは誰にもかからなかったのだが、本人にとってはそれはどうでもいいことのようだった。
「お、お前まさか……」
「さっき町で女の人が言ってたの。ワットと知り合いみたいだったわ」
その言葉に、ワットが片手で顔を抑える。
「前に言ってた住んでたところって、この町だったのね」
シャルロット達の会話に、ニースやエディも振り返った。
「何だ、知り合いがいるから、町に出たくなかったのか?」
ニースの言葉に、ワットが「別に」と口を曲げる。
「……確かにここには住んでた。だいぶ前だけど、六年近く暮らしてたから……知り合いも多い」
「へえー」
シャルロットとパスが同時に声をもらした。その続き聞きたいシャルロットの目を無視して、ワットはそれ以上話そうとはしなかった。会話が途切れると、ニースが地図をエディに回した。
「グリンストンを出たら、いくつか町を渡って火の王国に入る」
「王家が治めていない国は通過が楽だな」
話題の転換に賛同するように、ワットが呟いた。
「その分、治安が悪化しやすい」
ニースが付け加えた。真面目な意見は、やはりニースは自分とは違う、国の軍人だと言う事を思い出させる。もっとも、ワットにとって、そんな事はどうでもいいことなのだが。
「……ったく! メレイの奴何して……」
タイミング良く開いた宿のドアに、シャルロット達は顔を向けた。しかし、そこにいたのはメレイではなく、シャルロットと歳も変わらないであろう女性だった。その後ろからも、また女性。ぞろぞろと宿に入ってきた彼女達と、中には男性もいる。そのほとんどが、身分も悪く無さそうなドレスだった。
「あ、さっきの……」
その一団の中に、シャルロットは先程の女性を見つけた。「な、何だ?」パスが、その物々しさにソファから身を乗り出す。
突然の来客者達に驚いたのか、宿の店主が店の置くから顔を出している。あまり友好的には見えない町人達の顔に、一瞬、ワットが面倒くさそうに顔を逸らしたのを、シャルロットは見逃さなかった。
「よく戻って来れたわね、トリガー」
先程の栗色の髪の女性が、腕を組んで言った。そのさげずむように見下ろさた目は、明らかにソファに座ったまま顔も向けないワットを睨んでいる。隣にいたシャルロットは、突然の来訪者達と、ワットを交互に見つめた。
「……好きで来たんじゃねぇよ」
「まぁ! 図体だけじゃなくて、態度まででかくなったわね!」
ため息交じりのワットの言葉は、女性の神経を逆撫でしたようだ。それでも顔も向けないワットに、女性が息を荒くした。「ちょっと、何とか言いなさいよ!」
一瞬、静まり返った店内で、ワットが息をついた。
「夕方にはここを出る。……ほっとけよ」
「あんたまさか、お嬢様に何も言わないつもり?」
女性の言葉に、後ろの町人達がわずかにどよめく。
「お前らには関係ねぇだろ」
突然、ワットの声が低く変わった。思わず、シャルロットまで体が萎縮した。――この声は、知っている。彼の怒りに触れた時の声。例外なく、女性もその声に言葉を詰まらせた。ワットがソファから立ち上がり、彼女達を振り返った。
「全員出て行け! 俺は……」
その途端、ワットの言葉が止まった。――まさに、一瞬。その一瞬で、ワットの顔が凍った。
まるで、それを見た途端、石にされてしまったかのように。その視線の先には、一人の女性がいた。
シャルロットよりも少し年上――メレイと同じくらいだろうか。他の女性達より、一目で分かるほどの上質のドレス。栗色の柔らかいウェーブの髪を肩にかけ、その不安げな目が、まっすぐにワットを見つめている。輝くような大きな目と唇は、同性のシャルロットから見てもとても可愛らしく見えた。
「……ワット」
女性が、その小さな口で言った。その声に、ワットはやっと我に返ったようだった。顔を歪め、唇を噛む。女性が、ワットに手を伸ばした。
「ワ……」
「触るな……!」
女性の手が触れる前に、ワットが一歩下がった。――まるで、触れる事を恐れたかのように。ワットがその目を女性の後ろの町人達に向けた。憎悪を込めた鋭い目に、町人達が萎縮した。
「全員出て行け! お前もだ……!」
自分よりはるかに小さい女性を見下ろし、ワットが同じ目で言った。「ワット……!」女性が胸の前で手を合わせ、顔を歪めた。
「お願い、少しでいいから話を聞いて……!」
懇願するような声にも、ワットは顔をそらすだけだった。
「私、ずっと……ずっとあなたのこと捜して……」
捕まれた手も、すぐに払う。「お前らが出て行かないなら、俺が出ていく」ワットは女性の横を通りすぎ、町人達に向かって歩いた。その気迫に、町人達が自然と道をあける。
静まり返る店内で、ニースが「ワット」と、呼び止めて立ち上がった。
「メレイが戻ってきたら出発するぞ。外出する時間は……」
「町の出口で落ち合おう」
ニースの言葉を遮り、ワットが振り返らずに言った。「パス、俺の荷も持ってきておいてくれ」そのまま、宿の出口のドアに手をかける。パスの返事を待つ前に、ワットは宿から出て行った。
途端に、残された町人達がざわめいた。すると気が抜けたように、ワットと話していた女性がその場に座り込んでしまった。隣にいたシャルロットは、慌ててそれを支えた。
「だ、大丈夫ですか……?」
「お嬢様!」
ワットを怒鳴りつけていた女性が、慌てて駆け寄ってきた。
「大丈夫よ……。大丈夫」
気を使った返事なのか、女性の顔色は蒼白で、言葉とは裏腹だ。
「あの野郎、何て態度だ!」
「信じられないわ!」
後ろの町人達から次々と怒声が飛ぶと、シャルロットは支えた女性の細い手に力が入ったのがわかった。
「やめて!」
弾ける様な女性の声に、部屋が静まり返った。
「……やめて。私がいけないんだから……。私のせいなんだから……」
唇をかみ締める女性は、シャルロットから見てもとてもはかなげで、悲しみに満ちた目をしていた。女性の目がシャルロットに移動すると、シャルロットは思わずどきりとした。
「お騒がせしてすみません。ワットの友人の方々ですか?」
「友人っていうか……」
女性が自分の足で立ちなおした。しかし、女性の顔は、今にも泣き崩れるのではないかというほどに歪んでいる。
「今日中に……行ってしまうんですか。……ワットは今……」
途中で、息を吸うように女性が言葉を止めた。「……いえ、失礼します」手の平で口元を押さえ、女性は宿から出て行った。それに続くように、町人達も宿から去っていく。あっという間に、再び店内は宿の店主とシャルロット達だけになった。
「……な、何だったんだ?」
静まり返った店内でパスが呟いたが、シャルロットは、それにすら気がつかなかった。女性の事も気になるが、何より、ワットの事が心配だった。さっきのワットは、絶対におかしい。
「ニース様、私ワットを探しに……」
言いかけで再び宿のドアが開いた。今度こそメレイかと思ったが、また違った。ニースよりも少し年下だろうか、無精ひげに、あちこちにはねた黒髪を無造作に後ろで縛った、粗野な男だった。先程の町人達に比べると、服の質もだいぶ劣る。目つきの悪い目で、男が店内を見渡した。
「ザリュー、今日の客は?」
「この方達だよ。ウィンドラー」
知り合いだろうか、自然と交わす言葉に、ウィンドラーと呼ばれた男が、首を傾げてシャルロット達を見回した。
「これだけ? ワットが来てるって聞いたぜ」
その言葉に、アイリーンがソファの上から手を上げた。
「ワットならあたし達の連れだぜ」
「……あいつの連れ?」
不思議なものでも見るように、ウィンドラーが顔を向けた。
「あたし達。あんた誰?」
「俺はワットのダチだ。ま、いねえんなら仕方ねぇ……」
ウィンドラーが背を向けたので、シャルロットは慌てて呼び止めた。
「あ、あの!」
突然の声に、ウィンドラーが「何?」と振り返った。
「ワットの行き先に心当たりが……あります?」
シャルロットの言葉に、ウィンドラーがシャルロットを見つめ返した。
「……さぁ。でも、俺の店に来るかもしれねぇな」
「い、一緒に行ってもいいですか?」
「シャルロット?」
身を乗り出すシャルロットを、ニースが呼び止めた。――ワットに続く勝手な行動。それはわかっているのだが――。
「ごめんなさいニース様、すぐ戻りますから……!」
ワットを放っておく事などできない。同時にパスとアイリーンがソファから飛び降りた。
「オレも!」
「あたしも!」
ウィンドラーが目を瞬きながら、「ま、いいけど」と、タバコをくわえた。
「ついて来な」
シャルロットを含め、小さな子供をあやすようにウィンドラーが言った。鋭い目とは結びつかない、優しい声だ。
四人で宿を出ると、シャルロット達は小走りで彼のあとに続いた。体の大きいウィンドラーがさっさと歩くと、早足でないと置いていかれる。シャルロットは慌ててウィンドラーの隣に並んだ。
「あ、あの……! お店って?」
「ああ、俺の店。酒場やってんだ」
タバコを加えたままウィンドラーが言った。アイリーンとパスが、せっせとそれに続く。数分も歩かないうちに、ウィンドラーが一軒の小さな店を指差した。
「ホラ、あれだ。俺の店。……ん?」
ウィンドラーが何かに気がつくと同時に、シャルロット達が顔を向けると、店の前に男が立っているのが見えた。
「ワット!」
シャルロットの声で、ワットが振り向いた。シャルロット達が駆け寄ってくることに驚くも、一緒の男に目が移る。その相手に、ワットはさらに驚いた顔つきをした。
「ウィンドラー……か?!」
「ワット! 大きくなりやがって!」
シャルロット達よりも先にワットに駆け寄ったウィンドラーがその腕でワットの首を抱えた。
「久しぶりだな!」
「……ああ、六年ぶり」
興奮気味のウィンドラーとは違い、ワットの声は比較的落ち着いている。
「背も伸びたな! 生意気に俺よりでかくなったんじゃねーか?! ガキっぽさも抜けたし……」
溢れるような質問の合間に、ワットの目がシャルロットに移った。
「ご、ごめん……! ついて来ちゃった……!」
勝手に人の過去を覗くような行動に、シャルロットは気まずいながらも謝った。しかし、ワットは気にも留めなかったようだ。「しばらくかくまってくれ」と、ウィンドラーを振り返る。
「もちろん」
ウィンドラーは笑顔でシャルロット達を店内に入れた。
店は、まだ開店前らしいかった。薄暗い店内への明かりは、窓から差す光だけ。十人も入れば、店はいっぱいになるだろう。木造りのテーブルにバーカウンター、その奥には見事に並んだ酒瓶の棚があった。
ウィンドラーがカウンターにつくと、ワットも隣に腰掛けた。アイリーンとパスが、勝手にテーブルの上のコルクで打ち合いを始めると、シャルロットは離れたテーブルに座った。何となく、ワット達のそばには座りづらい。
「宿屋の前でスーディーを見たぜ。会ったのか?」
「ああ」
ウィンドラーの問いに、ワットは気の無い返事をした。「関係ねぇよ、昼にはこの街を出るんだからな」そう言って、ウィンドラーに出された水を飲む。
「ずいぶん急だな。数年ぶりに帰ってきたと思えば、もう出て行くのか?」
「帰ってきたわけじゃねぇ。通りかかっただけだ。旅の途中」
ワットの言葉に、ウィンドラーは目を開いて体を向けた。
「旅? 何でまた……つーかお前、スーディーと話さなかったのか?」
「話すことなんか、何もねぇだろ」
ワットの返事は、冷めたものだった。だがそれは、ウィンドラーに対してではない。
「スーディーさんって……さっきの女の人? 茶色い髪の……」
シャルロットの問いに、ワットがカウンターで頬杖をついたまま「ああ」と答えた。シャルロットの脳裏に、女性の悲しげな顔が浮かんだ。
「あの人、……すごく悲しそうだった」
――ワットに何かを言おうとしたのだろう。あの表情には、胸が痛む。
「知るかよ。……関係ねぇ」
ワットの答えに、ウィンドラーが「そう言うなよ」と、からかうように笑った。
「スーディーだって苦しんだんだ。お前がいなくなってからは見てられなかったぜ。少しの間だけなんだろ? だったらちょっとくらい昔の女に優しく……うお!」
ワットが片手で机を叩くと、その大きな音にウィンドラーの言葉が止まった。パスとアイリーンも、驚きで思わず顔を向けている。だがそれよりも、シャルロットはウィンドラーの言葉に驚いていた。――昔の女?
「二度とあいつの話はすんな」
友人に向ける言葉とは思えない声色に、店内に沈黙が流れる。ウィンドラーが、まるで気にも留めていない様子で息をついた。
「……いいけど。それより、今までどうしてたんだ?」
話題の転換に、ワットが「ああ」と、話を進める。しかし、シャルロットはそうはいかなかった。
「ど、どうして?」
シャルロットの小さな声に、ワットとウィンドラーが振り返った。
「どうしてそんなにその人の事……そんなに嫌ってるの?」
まっすぐ自分を見つめる目に、ワットが目をそらした。
「……お前が知らなくてもいい事だ。それに、あの女の事は考える気はねぇ」
ワットの言葉に、シャルロットは胸の奥が軋むのを感じた。
「そんな言い方……!」
――そんな言い方、ない。あの女性の顔が思い浮かぶと、シャルロットは一気に感情が膨れ上がった。
「あの人、何か言いたそうだった。ワット、聞こうともしなかったじゃない……! 出発までまだ時間もあるし、今からでも遅くは……」
「うるせえな! 関係ねぇだろ!」
弾けるようなワットの怒声に、シャルロットは一瞬体が震えた。――しかし。
「俺は今お前と……」
「先に帰る!」
ワットの声を打ち消し、シャルロットは勢い良く立ち上がった。「は!?」と、声を上げるワットにも、顔を向けようとすら思わなかった。湧き上がる怒りで、顔が赤くなった。
――何で聞く耳持たないのか。何で彼女を拒絶するのか。何で今、自分との事を言おうとするのか。その全てが、シャルロットの心を膨れ上がらせた。
「お前また迷うって……」
「一人で帰れる!」
ワットが立ち上がる間もなく、シャルロットはそのまま店を飛び出して強くドアを閉めた。古いドアが軋む音が響くと、ウィンドラーはその場に取り残されているワットを見上げた。
「おい……、いいのか?」
シャルロットの勢いに圧倒されたウィンドラーが呟く。「いつもの喧嘩だよ」と、遠くからパスが口を挟んだ。ウィンドラーが、わずかに見開いた目でワットを見つめた。
「……まさか、お前の今の女って彼女?」
それを振り返ってから、ワットが目をそらす。
「ああ」
ワットの答えに、ウィンドラーが「へえ」と、感嘆の声を漏らした。ワットがその顔を見返した。
「……何だよ」
「いやぁ……、やっぱ六年って長いよな……。……お前、やっぱ前と変わったよ」
「……そうか?」
思い当たることは、何もないが。
「ああ、いい方にな」
口を曲げるワットと違い、ウィンドラーは嬉しそうに笑ってみせた。