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「永井さんが離婚したことなら知ってますよ」
地下ラウンジのソファセットに座ったところで、私から話を切り出した。この人が話そうとする事柄なんて、これくらいしかない。
地下ラウンジは、日曜日ということもあって、私たちの他には誰もいなかった。エアコンなんていう文明の利器も、ここにはない。寒さを和らげるために、ぎゅっと両手を一緒にして握った。
私の言葉に、春日さんはなんだという顔をした。見ようによっては、つまらなさそうに見える。
「もっと長引けばよかったのに」
「そういうこと言わないでください」
「だって、面白くねーし」
「面白くなくてけっこうです」
素っ気なく返す私に、ふうん、と春日さんはこっちを見てくる。
「晴れて二人仲良くってことなのに、気分が優れなさそうじゃん。なんかあった?」
つまらない顔から一転して、口の端を上げて笑い、こっちの様子を窺う。眉間にしわを寄せて視線を向けても、春日さんは一向に気にしてないようで、私の反応を楽しんでいるようだった。何でもお見通しだとでもいうような顔には腹が立つけど、ここで反応しても、それはこの人の思う壺だ。ぜったいに反応なんかしてやらない。どういう経緯か知らないけど、この人なら、私の今の状況を知って、楽しもうとしているに違いない。
「大変だろーなあ。せっかくおおっぴらに付き合えるようになったっていうのに、ああいうことがあったら」
薄い笑みを浮かべる春日さんから視線を逸らして、ぎゅっと口を閉じる。
「会えなくてさみしいとか言うわりに、やってること矛盾してるし」
昨日の彰ちゃんたちの言葉ほどじゃないけど、この人の一言一言に責められているような錯覚に陥ってしまう。握っている両手の力を、ぎゅっと強めた。
「しかも、まだ伝えてないとか言う始末だ」
「……え?」
外した視線を、元に戻す。未だにむかつくような笑みを浮かべている春日さんがそこにいたけど、今はそれよりも気になることがある。
てっきり、春日さんの言っていることは、古賀さんと永井さんのことだとばかり思っていたけど、もしかしたら違うのかもしれない。だって、それだったら、今の「伝えてない」っていう言葉はおかしい。永井さんは、ちゃんと言ってくれた。古賀さんか永井さんかを、選んでほしいと。
そのことを言っているんじゃないとしたら、春日さんの言っていることは何のことだろう。
興味を示したように自分を見る私を目の前にして、春日さんがさも面白そうに口の端を上げた。
「あいつ、ヨーロッパの大学から誘われてるらしいぜ。行くかは決めてないとか言ってたけど、案外乗り気かもな」
「ヨー、ロッパ……?」
「そ。ああ、短期研究とかじゃなくて、常勤の教職兼研究者としてだから」
私の途切れ途切れの聞き返しに、何を勘違いしたのか、いらない情報まで追加してくる春日さん。何も言えない私を見て、春日さんが愉快そうに口の端を上げた。
「知らなかったんだろ? 残念だったな。せっかく離婚したのに」
「でも、あと一年は猶予あるなあ」なんていう、すぐ近くで言われる春日さんのとぼけたような言葉が、右から左へと流れていく。春日さんが何を言っても、何も反応できない。何を、どう反応していいか、分からない。
永井さんが、ヨーロッパに、行く?
そんなこと、聞いていない。だって、永井さんは、「選んで」と言ったじゃない。古賀さんか永井さんかを、ちゃんと考えて選んでほしいって。どういう、こと?
「どうする? 永井に電話でも掛ける? それとも、話し相手になってあげよーか?」
目の前で携帯が揺れて、はっと目線を前に向ける。自分の携帯を揺らしながら、春日さんが人をばかにしたような笑みでこっちを見ていた。
「なんで、そんなこと教えてくれたんです?」
やっと絞り出したような私の言葉に、春日さんは肩をすくめた。
「言ったろ? 俺、永井が嫌いだって。あいつが嫌がることなら、楽しんでやる」
あっけらかんと、最低なことを口にして、春日さんはかざしていた携帯を仕舞った。そのまま、呆然としている私を無視して、席を立つ。
「んじゃ、面白い顔も見れたし、帰るわ。あとはお好きにどーぞ」
最後の最後まで人をばかにしたような顔をして、春日さんはラウンジから姿を消した。
一人になっても、まだ頭が追いついていかない。
永井さんが、いなくなる? それじゃあ、あの言葉は、何だったのか。「選んで」と、言ったくせに。できれば自分を選んでほしいと、言ったくせに。「好きだ」と、言ったくせに。
なんで。どうして。
『会えなくなって、初めて分かったんですけど』
『じゃなかったら、もう一生建介さんに会えなかった』
永井さんが誘いを受けたら、もう二度と会うことはできないんだろうか。抱きしめられて、名前を呼ばれることも。
「なが、いさん……」
私一人だけの声が、静かに響く。
「永井さん……。永井さん……っ」
『会うだけだったり、話すだけなら、他の知り合いの人でもいいけど、一緒にどこかに出掛けたりしたいって思うのは、建介さんだけだったんです』
行かないでほしい。そばにいて、また、名前を呼んでほしい。
春希、と呼ぶ声は、他の誰でもいいわけじゃない。
「ながいさん……」
呟いた声は、誰にも聞かれることなく、すぐに消えていった。
今さら気が付くなんて、最低だ。