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携帯を持ったままだらんと腕をソファに下げていて、ぼーっと天井を見上げる。
彼が謝らなきゃいけない理由は、一つもないのに。普通なら、人の彼女にと怒るのかもしれない。だけど、彼女を横からかっさらったような形になったのは、俺の方だ。結婚していたにも関わらず、彼女を求めてしまって、それに応えてくれたことが嬉しくて、彼女に甘えて今のような状況を作った。どっちが彼女のことを想ってるかなんて、計測器でもあるわけじゃなし、分かりようもない。二人ともが彼女を想ってるだけで、彼が謝る必要もないことだ。
携帯を持つ手を上げて、アドレス帳を開いたところで、少し考えてからそれを閉じた。今の電話の様子から、彼が彼女に気持ちを伝えたことは明白だ。それなら、今ほど彼女が混乱してることはないだろうと思う。今さっき起こった混乱に、拍車を掛ける必要もない。もちろん、彼女に伝えることはするが、ここで離婚したことを告げて、彼女の手を引いても、何の解決にもならない気がする。彼女自身が決めなきゃいけないことだ。誰かに手を引かれてじゃなく。
一つ息をついて、ソファから立ち上がる。このまま考え事をしてても、何か浮かんでくるわけじゃない。今週の金曜には会おうと考えて、その日は寝ることにした。
***
『前に待ち合わせしてたところで待ってる』
金曜日、彼女の大学に着いた時にこのメールを送った。話し合いをすると伝えてから、初めてまともに送ったものだ。
その日の授業が終わって車を走らせた場所は、彼女の家から近い商業施設。彼女からの返信はなかったものの、彼女はそこで待っていてくれた。
「久しぶり」
「ん」
助手席に乗り込んだ彼女に微笑みかけて、彼女も同じように笑みを返してくれる。そこに、どこか戸惑いの表情が見えるのは、古賀という彼の言った通りなのかもしれない。
「色々話したいこともあるんだけど、もうちょっと待ってね」
「カフェに行くの?」
「そうしたいんだけど、今日はちょっと違うところ」
「どこ?」
「内緒」
俺の答えに怪訝な顔をする彼女に笑いかけて、車を発進させた。
行きついたところは、カフェからも近い商業施設だった。前に一度、彼女と来たことがある。以前のようにコーヒーチェーン店で飲み物を買い、そこの展望場のベンチに向かう。展望場には、誰もいなかった。なるべく風の当たらない場所を選び、彼女と並んでベンチに座る。
「なんでここなの?」
おかしそうに笑いながら、彼女が聞いてきた。買ったラテを両手で持ちながら、ゆっくりとそれを啜っている。俺も自分のコーヒーを一口啜って、肩をすくめた。
「話がしたかったから」
「話?」
聞き返す彼女に、ほんの少し戸惑いが見えた。安心させるように笑みを向けて、「うん」と頷く。
「離婚が、成立したんだ」
「……え?」
「これで、ちゃんと君と向き合える」
嬉しさと戸惑いでごちゃ混ぜになった表情になる彼女。
「え、あの。ほんとに?」
「うん」
「えっと、よかったね、でいいの?」
恐る恐るといった風に尋ねてくる彼女に笑って、もう一度「うん」と頷く。
嬉しそうに顔を綻ばせたのも束の間、すぐに彼女の顔に戸惑いが映った。視線を下げる彼女に小さく笑って、彼女の頬に手を伸ばす。触れた俺の手に気がついて、彼女が顔を上げた。泣きそうに、顔がこわばっている。
「聞いてるよ。古賀くんから」
「え?」
小さな聞き返しに、ふと笑みが漏れる。
「彼が君を好きなことも、それを伝えられたってことも、知ってるから。それで君が困惑してるのも、分かってる」
「なが、」
「君を責めるつもりなんてないよ」
何か言おうとする彼女よりも先に、自分の言葉を続ける。彼女の瞳が揺れた。
彼女がどれだけ困惑してるかなんて、今までの彼女と古賀という彼の関係を見ていれば明らかだ。そして、俺との関係も考えれば。彼に比べれば付き合いこそ短いけれど、決して浅い付き合いではなかった。もともと先に興味を持ったのは、彼女ではなくて俺の方だ。付き合いの長い彼の横から奪ったような形になったのも、十分承知している。そんな状況で、彼女を責める気になんてならない。
「それを分かった上で、お願いしたいんだ」
触れている手でゆっくりと彼女の頬を撫でて、久しぶりの感覚に笑みが漏れた。彼女の目は、未だに揺れたままでいる。そんな彼女に、俺は追い詰めるようなことを言おうとしていた。
「ちゃんと考えて、選んでほしい。俺か古賀くんか。俺と付き合ってるから古賀くんを選べないなんて理由じゃなくて、君がどうしたいかで、選んで」
言葉をなくしたように、彼女が俺を見上げてきた。何でそんなことをというような顔をしている。触れていた手を離して、微笑みかけた。
「俺と付き合ってるんだから俺を選んでって言って、選ばれたんじゃ、意味がないんだ。選んでほしいとは思ってるけど、君自身で答えを出してほしい。やっと、彼と同じラインに立てたんだから。俺は、古賀くんと君の距離が近いのを知っていながら、君に俺のことを意識させた。彼が自分の気持ちに気付いてなくて、言う気がないことを良いことにね。でも、今回はそれじゃ駄目なんだ。君自身が、俺か彼のどっちが必要なのか、考えてほしい。それで出された答えなら、俺は何も言わないよ。以前の関係に戻っても、いつだって話は聞くから」
彼女の顔が泣きそうに歪んで、何か言おうと口を開いたが、それは言葉にならずに俺から視線を外すことになった。何か言おうと思っても、言葉にならないか、何を言ったらいいか分からなくなったんだろう。それが、彼女の気持ちを代弁してるようだった。ひどいようだけど、そんな状態で、今までと同じように選ばれたくはない。彼女自身が、俺が必要なんだと思って、俺を選んでほしい。
視線を外したままの彼女の頬に、また手を触れた。今度は、顔を上げない。
「俺は、君が好きだよ」
言葉を聞いて、彼女が顔を上げる。目に映る彼女の顔は、驚いていた。
「よくよく考えたら、ちゃんと言ったことってなかったよね。君が好きだって」
小さく笑いながら、この一週間で考えていたことを口にする。
言葉にしないと分からないと、言わなきゃ気付かれなかったと、万里子と古賀くんは言った。そうして、気が付いた。彼女にはっきりと気持ちを伝えたことなんて、一度もなかったと。初めて『好き』と口にした時は、『たぶん』などという曖昧な言葉がくっついていたはずだ。そんな曖昧な気持ちだったわけではなかったくせに、何を守りに入っていたのか。『たぶん』思っていただけなら、彼女がホテルに来た時点であそこまで自分を見失うことなんてなかったろうに。
『たぶん』なんて曖昧な気持ちじゃない。彼女が、好きなんだ。
「離婚した俺が言ったって何の説得力もないけど、君への気持ちは嘘でも曖昧でもない」
彼女の気持ちを表すように揺れるその瞳を見て、微笑む。
「君が好きだ」
自分で言ったその言葉が、すとんと自分の中で落ち着いた。彼女の頬を一撫でする。
そのまま、泣きそうな顔をする彼女に、唇を重ねた。